驟雨の前に珈琲を

 普通の人間の反射速度なら最初の5発でカタはついていた。……だが、普通の人間じゃない。
 発砲することにより、場所の特定と先回りを同時にこなせるだけの能力を持っていたがゆえに、素早く動き過ぎて、素早く判断しすぎて、素早く38口径を叩き込まれた。
 中途半端に高スペックな身体能力なら刹那の差で38口径の弾頭は虚空に消え、瞬きより遅く現れた明塚一臣によって蜂の巣にされていただろう。
 素早いだけが、機動力だけが、判断力だけが、すなわちち最強を決定する因子ではない。
 動かず、待ち、計算をする。
 運や勘ではなく、状況次第で、その場にいながらにして勝利を収められる。
 それでも、このようなチキンレースはもう二度と御免蒙りたい。
 倒れたまま動こうとしない明塚一臣に歩み寄る。
 マテバMTR-8の銃口をいまだに明塚一臣から離していない。
 明塚一臣の右手にはまだウジーが握られているからだ。
 一見すると死亡したかのようにみえる明塚一臣。
 彼の伏せる辺りを中心に血の池が面積を広げる。
 カチリと音がする。
 カップ&ソーサーで保持していた左手を用いてマテバMTR-8のサムピースを押し込んでシリンダーを解放した。
 彼の視界の中で、ややゆっくり再装填して発砲。
 明塚一臣が、彼女のそれを再装填のロスだと勘違いした瞬間にウジーを強く握り、渾身の力で銃口を向ける。
 ……だが、38口径でウジー本体を弾かれ、ウジーのボルトが破損する。
 フレームが大きく凹む。
 彼の最大火力は40mmグレネードランチャーのみになってしまったが、それを用いる気力はなくなった。
 半身を起してウジーで反撃して一矢報いるつもりが、望実に先読みされてしまい、再装填のロスというブラフに引っ掛かってしまった。
 明塚一臣に反撃の余力と機会は永遠になくなった。
 明塚一臣の身柄を拘束。
 左脇腹に38口径の鉛弾を受けているが、折れた肋骨が臓器を破損させていない限り、1時間以内に適切な処置を施せば充分に助かる。
 呼吸の度に激痛が走るだろうが死ぬよりはマシだろう。
 明塚一臣の挫いた右手首からウジーを蹴り飛ばし、抵抗する気力のない彼を、後ろ手に結束バンドで縛る。
 彼の顔色は苦悶に染められていた。
 みているだけで痛々しい表情だ。
 早く楽にしてやるつもりもあって、少々急ぎ気味で携帯電話で然るべき部署――クライアントの検分係――を呼び出す。
 闇医者の手配も伝える。
 後はこの男の意図を知るだけだが……。
 背後にいくつかの気配や足音が聞こえる。
 遮蔽の陰やこちらからは確認できない夜陰の中などに、複数の気配が潜んでいる。
 近付いている。
 燃えるような敵意を感じるが、殺意は感じない。
 振り返るまでもない。
 同業者の到着だ。
 舌打ちもせず、罵倒もせず、地団駄も踏まず、複数の気配が寄せては消える。蝋燭を吹き消すようにふつふつと消える気配。ひたひたと近寄る気配。一定の距離で狙っていた賞金首が、同業者たる望実に拘束されるのを視認すると次々と消える。
 同業者の動向には構わず、明塚一臣を安静にさせる。
 浅黒い肌をした、荒削りでワイルドな魅力を湛えた容姿は、被弾しても尚、その生命力は失っていない。
 傷病で弱る肉食獣が徹底的に寝そべって体力の温存と治癒を待っているかのような迫力や覇気に似た気迫を感じる。
 黙っていても微動だにしなくとも伝わる恐ろしい気迫。
 今更ながらに、望実は背中やリンパ腺周辺に冷たいものが走るのを感じた。
 この後に回収された明塚一臣の行方は誰も知らない。
  ※ ※ ※
 3日後。
 銀行口座に振り込まれた金額を何度も眺めながらにやける。
 自室のリビングで鼻歌交じりで手巻き煙草を巻く。
 指先から感じるタバコペーパーの感触がいつもより心地良い。
 調子に乗って3本も巻いてしまう。
 普通に消費するのなら約1日分の分量だ。
 振り込まれた金額の3割は情報屋の報酬として、2割は弾薬の入手、非合法経路の確保で飛んで行ってしまう。それを差し引いても充分な金額。
 午前10時のリビング。
 梅雨時にしては珍しく快晴。
 いつものドリップコーヒーの入ったマグカップ。その横に置かれた、無造作に折り畳まれた今日の朝刊。
 朝刊の端の社会面では、街中で通り魔に刺殺されたと思われる中年の会社員の事件が報道されていた……それは望実の仕業だ。
 会社員を隠れ蓑にダブルスパイを生業とする情報屋を始末しただけだ。
 いくつか懇意にしている情報屋を明塚一臣の一件で多用したが、その内の1人がダブルスパイで情報を明塚一臣に横流ししてマージンを貰っていた。……それ自体に不義があっても、生き馬の目を抜く世界だと不運を呪うだけで済む。だが、根幹はもっと深い部分にあった。
 藜直衛。
 先の大物賞金首だが、この人物の嘗ての師匠的存在が明塚一臣だった。
 弟子を仕留めた賞金首を屠ってから思い残すことなく遁走に就くはずが、師弟揃って望実に辛勝された。
 義理人情として、そこに到るまでの明塚一臣の心情は理解できた。
 許せなかったのは、始末した情報屋の、義理人情ですら金に換える人の心にも情報屋としてのプロ意識にも反する行為だった。
 この世は情報の速度と先途が命だ。
 ゆえにあらゆる局面では情報収集能力が最大の武器だといえる。
 それを扱う情報屋は今現在、究極のビジネスの一つに数えられる。
 その反面、リスクも大きい。自分たちの間で平然と行われている不正行為が、この世の全ての理に当て嵌めても黙認される事項とは限らない。
 始末した情報屋の不義は望実だけに対して行われたものではなかった。
 藜直衛にも明塚一臣にも不義を働いた。
 何より、多数の情報屋から『お買い得情報』という形で情報がリークされ、情報屋界隈に泥を塗った『その情報屋の抹殺』を依頼された。
 傍目からすれば、何も誰もどこも悪くないように思える。
 いつもの暗黒社会だと思える。
 違うのは、欲を掻き過ぎたために、濡れ手に粟を目論んだダブルスパイが全ての方面の、信用信頼を裏切り顰蹙を買った点だ。
 この情報屋が藜直衛の顛末を明塚一臣に金目的でリークしなければ明塚一臣の恨みを買うこともなかった。
 情報屋が情報屋界隈の暗黙の了解以上の不義――求められもしていない、不必要な情報の提示で客の感情をわざと逆撫でさせて、情報屋界隈を揺るがす大事件の糸口を作りかけた――を働いた。
 たったそれだけ。たったそれだけだが、たったそれだけのことで簡単に吹き消される命を扱うのが情報屋だ。
 自分が常に優勢とは限らない。
 自分の立ち位置が常に安全地帯とは限らない。
 暗黒社会に特等席はない。
 明塚一臣の小さな復讐心を大きく掻き立たせる真似をしなければまだまだ生きていられたものを……。
 結果的に、彼の本職のフィクサーとしての商売が危なくなって逃亡を果たそうとする前に、大きな心残りとなっていた藜直衛の敵討ち、八木望実への復讐を果たすべく、明塚一臣は糸目をつけずに課金して情報を買い……返り討ちにあった。
 ならば、火種をばら撒いた大元の情報屋は命を狙われて当然。
 必要以上の情報をタレ込みではなく有料で匂わせからの押し売りをしたのだから。
 有料で押し売り。
 クライアントが求める以上の情報は開示しない……その規約にも似る暗黙のルールを平気で破った。
 その情報屋は情報屋としての情報収集能力は優れていても、信用商売の看板に泥を塗った。
 ……それだけだ。
 『損得勘定も込み』で殺されるには充分な理由だった。
 望実が明塚一臣という人物に狙われるスキームが理解できずに、独自の情報と『情報屋の情報』を総合した結果判明した事実だ。
 その上で『望実の立腹』と『情報屋界隈の利害(オトシマエ)』が一致し、問題の情報屋を通り魔とみ見せかけて殺した。
 殺した情報屋には水面下のもっと深い場所で賞金がかけられ、『殺害のみという札が貼られていた』。
 望実の賞金稼ぎとしての面目も保てるように、地元の情報屋の調停役がそのような賞金首として札を貼ったのだ。
 義理と人情と商売のそれぞれの神様は意外と仲がいいのかもしれない。
 情報を制する世界の住人が情報で殺されたともいえる。
 その際の物理的暴力装置として望実が作動しただけ。
 明塚一臣が作動させられただけ。
 藜直衛がキーワードとして利用されただけ。
 話の顛末は素うどんのようにつまらないものだ。出汁にも隠し味はない。
 そこへ一山盛って、特盛りを平らげようとした人間が自分の不手際で食中毒にあたる……そんなところだ。


 終わってしまえばいつもの日常だ。
 賞金首のリストを閲覧して実力相応の賞金を見比べる。
 今夜辺りに贔屓にしている情報屋を頼って仕事の詳細を求める。
 たった一人の情報屋に裏切られても、情報屋界隈全てが害虫ではない。害虫だけの世界なら自浄作用は働かない。
 
 薄手の青いスエットの上下に身を包んだ彼女は、巻き終えた手巻き煙草を1本銜えると、愛用のイムコ・オイルライターで火を点ける。
 薄っすらと昇る紫煙。甘い紫煙。安息を約束してくれる紫煙。
 このリラクゼーションは変わらない。
 リラックスした環境でしか嗜まないのだから体と記憶が強く深く安息するのは当たり前だ。
 当たり前の日常に馴染む振りをして、彼女はまたもマテバMTR-8を握り、ビルの谷間を駆けるだろう。

 道のない道を駆けるだろう。
 それが八木望実という女性の賞金稼ぎの常日頃。
 
 それが八木望実という女性の賞金稼ぎの常日頃なのだろう……。

《驟雨の前に珈琲を・了》
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