驟雨の前に珈琲を
先日の夜の大仕事で左太腿に擦過傷を負ってしまった。
今では薄皮を張るくらいに回復をみせ、入浴時に僅かに沁みることを除けば、彼女の日常や仕事にも影響はなかった。
激しい運動を控えて安静にしていれば数日後にはかさぶたも完全に剥がれ落ちて、いつも通りの営業ができるだろう。
白いスポーツブラにボーイズレッグ。
左太腿のガーゼはサージカルテープで固定してある。
染み出る血液はない。万が一薄皮が破れた場合の保護だ。まともな被弾でなくてよかったと何度でも胸を撫で下ろす。
腕を撃たれても大した影響を感じないが、脚を負傷すると深刻に考えてしまう。
脚力を商売道具にする望実にとっては、マテバMTR-8と同じくらいに大事な武器だ。
自室。寝室。下着姿。午前11時。
軽くシャワーを浴びてからの負傷箇所の消毒。
ピンポン球を落とせば跳ね返りそうな腹筋に、見事なシンメトリーを浮かび上がらせる背筋。
長い脚――大腿部から爪先までがそのような形状の美術品を思わせる色艶――は強靭と柔軟が同居し、張りと肌理の細かい肌にコーティングされている。
シックスパックに譬えられる腹筋を中心に広がる、薄くも硬く柔らかい筋骨。肋、腋、肩、腰、尻……流麗美麗なラインで繋がれた鍛錬の賜物は彼女の身体能力の高さを物語っている。
同年代の男性と比較しても、飛び抜けた数値を弾き出す握力を生み出す掌。それを最大限に活かす腕と肩。
全身の筋力を総動員するたびに自然と、緊張と収縮を繰り返す頚部は今どきの女性にはみられない骨太な肉付き。どこか、スリムなラグビー選手か空中殺法を得意とする軽量のレスラーを連想させる。
それらの膂力が女性の丸みを帯びて、稜線を崩さずに凝縮されている。それが望実の身体スペックの全貌だ。
片手でマグナム拳銃どころかロングカートを用いるシングルショットピストルも余裕綽々に扱える。
それでも彼女は38口径のマテバMTR-8を使う。大本は357マグナム弾を使用するマテバMTR-8を使用していたが製造終了で交換パーツの入手も困難になったので、近いフィーリングのマテバMTR-8を遣うに到る。
二十歳の頃まではアクションスタントの養成事務所に通っていたが、レッスンの料金が払えずに、手っ取り早く大金が稼げる手段として『手の汚れ具合が少ない』賞金稼ぎを気軽に始めた。
暗黒社会の入門編として手軽だったが奥も深かった。
直ぐに止められる。誰でもやってる。そんな甘いフレーズが似合う世界の入り口だった。
気が付けば頭の天辺までどっぷりと浸かっている。
最初の仕事で大成功しなければこんなことにはならなかった。
最初の仕事で失敗して尻尾を巻いて逃げることができればこんなことにはならなかった。
皮肉にも、望実は現代の賞金稼ぎとして天稟を持っていた。
普通の家庭の、普通の若者が暗黒社会で生きていくのに適した才能を持っているのは、防ぎようがない。
明るい世界の人間だから暗い世界で生きていけない理由はない。
それと同じで暗い世界の人間が必ずしも暗い世界で成功するとは限らない。
才能は防ぎようがない。
才能に見合う機会との邂逅もまた防ぎようがない。
望実は左太腿の処置を終えて消毒薬などが詰まった救急箱を片付けると部屋着用のジャージを着てベッドに寝転がり、大きく伸びをする。
今日は休日……ではない。情報屋から手配書のリストが送信されてくるのを待っているだけだ。
先日の藜直衛の一件でかなりの金額が転がり込んできたが、半分ほどは情報屋の報酬とマテバMTR-8の弾薬と、万が一のセーフハウスの維持で消えた。
実際に手元に残った金額をみると軽く凹む。
これが賞金首の値段にみえなかった。
自分の命の金額にみえたのだ。
※ ※ ※
翌々日の午後3時。
丁度、喫茶店で巻き終えた手巻き煙草を口に銜えたときに携帯電話の着信を報せるバイブが作動する。
銜え煙草のままディスプレイに左手の指を這わせて着信したメールの内容を確認する。
右手はいそいそとラスタ・オリジナルのパウチの蓋を閉めてポケットからイムコのオイルライターを取り出す。
煙草に興味がない人間からすれば意外かもしれないが、販売されているタバコの葉全般はタバコの煙を中てられて、その成分を吸い込むと味が急激に劣化して不味くなる。
タバコの敵はタバコの煙だ。
タバコは呼吸を繰り返して熟成していく嗜好品だ。
湿度や温度と同じくらいに気体に含まれる成分にもデリケートにならなければ愛好家とはいえない。
「…………」
――――ほう。
表情を変えずに心の中で感嘆する。
高い情報料を払っているだけあって、いい情報を持ってくる。
良好過ぎて同業者同士が現場で鉢合わせして蹴落とし合いが展開されるのは仕方がないが。
藜直衛の賞金に相当する賞金首。
このような金額は大方の場合、生死不問と相場は決まっている。
賞金首の手配書一覧が更新された。
その中でも別途料金を払えばさらに有用な情報つきのリストが送られてくる。
一覧は中々に圧巻で、聞いたことのある名前が列記されている。
中には実際に顔を合わせたことのある人物も並んでいた。
表情の変化から、辺りに高揚と歓喜を知られないようにポーカーフェイスで銜えた手巻き煙草の先端をお気に入りのライターの火で炙る。
一度は倒産したオーストリア製のオイルライターだが、人気が根強く、日本の喫煙具メーカーがライセンスを買い取ってリバイバルさせたライターだ。
ジッポーが蓋を開けてホイールを廻すシングルアクション拳銃だとするのなら、文字通り自動拳銃の機構を組み込んだイムコ・オイルライターはダブルアクション拳銃だ。
蓋を開けるワンアクションでウイックに火が点く。
いつもの安息感を与えてくれる。舌に馴染んだ煙を口中に含んで転がす。煙草を吸うということは煙を吸って安息を得ていると思われがちだが、厳密にいうと、煙草の成分を燻し出すのに火力が必要なだけで、タバコ葉が燃える直前に高熱により滲み出る成分を吸い込み、安息を得ている。
結果として煙を吸い込んでいるだけなので、定義上の本来の意味では煙は不要な存在だ。
最近では呼吸器を傷めるので煙を嫌うが、ニコチンの成分は欲しいという理由で噛みタバコや嗅ぎタバコも浸透してきている。噛みタバコはチル、嗅ぎタバコはスヌースなどと呼ばれる場合がある。
視界の端の携帯電話に表示される隠語と暗号が羅列されたリスト。
目を細めて閲覧する。……何れも生死不問。笑いが出るような賞金。ただ、簡単な説明を読むだけではいずれも一筋縄ではいかない連中ばかりだ。
一層目が細くなる。
傍からみていると、濃厚な紫煙に目が沁みただけにみえる。
直感に従って食指が動いた賞金首を何人か選び、情報屋に折り返しのメールを送信する。
詳細の情報を請求して送信してもらうためだ。
1人で何人もの案件を追い駆けることは不可能だ。送付してもらった詳細を読んで自分の実力に応じた賞金首を狙う……尤も、殆どの場合、多少の欲を掻いて背伸びしてやっと仕留められる賞金首ばかり狙うのだが。
慌てて席を立つ真似はせず、悠然と紫煙をぷかりと浮かべながら、時折、コーヒーカップを口に運ぶ。
タバコにコーヒーは切れない仲だ。
どちらかを摂取すれば必ずどちらかを求める。
今では薄皮を張るくらいに回復をみせ、入浴時に僅かに沁みることを除けば、彼女の日常や仕事にも影響はなかった。
激しい運動を控えて安静にしていれば数日後にはかさぶたも完全に剥がれ落ちて、いつも通りの営業ができるだろう。
白いスポーツブラにボーイズレッグ。
左太腿のガーゼはサージカルテープで固定してある。
染み出る血液はない。万が一薄皮が破れた場合の保護だ。まともな被弾でなくてよかったと何度でも胸を撫で下ろす。
腕を撃たれても大した影響を感じないが、脚を負傷すると深刻に考えてしまう。
脚力を商売道具にする望実にとっては、マテバMTR-8と同じくらいに大事な武器だ。
自室。寝室。下着姿。午前11時。
軽くシャワーを浴びてからの負傷箇所の消毒。
ピンポン球を落とせば跳ね返りそうな腹筋に、見事なシンメトリーを浮かび上がらせる背筋。
長い脚――大腿部から爪先までがそのような形状の美術品を思わせる色艶――は強靭と柔軟が同居し、張りと肌理の細かい肌にコーティングされている。
シックスパックに譬えられる腹筋を中心に広がる、薄くも硬く柔らかい筋骨。肋、腋、肩、腰、尻……流麗美麗なラインで繋がれた鍛錬の賜物は彼女の身体能力の高さを物語っている。
同年代の男性と比較しても、飛び抜けた数値を弾き出す握力を生み出す掌。それを最大限に活かす腕と肩。
全身の筋力を総動員するたびに自然と、緊張と収縮を繰り返す頚部は今どきの女性にはみられない骨太な肉付き。どこか、スリムなラグビー選手か空中殺法を得意とする軽量のレスラーを連想させる。
それらの膂力が女性の丸みを帯びて、稜線を崩さずに凝縮されている。それが望実の身体スペックの全貌だ。
片手でマグナム拳銃どころかロングカートを用いるシングルショットピストルも余裕綽々に扱える。
それでも彼女は38口径のマテバMTR-8を使う。大本は357マグナム弾を使用するマテバMTR-8を使用していたが製造終了で交換パーツの入手も困難になったので、近いフィーリングのマテバMTR-8を遣うに到る。
二十歳の頃まではアクションスタントの養成事務所に通っていたが、レッスンの料金が払えずに、手っ取り早く大金が稼げる手段として『手の汚れ具合が少ない』賞金稼ぎを気軽に始めた。
暗黒社会の入門編として手軽だったが奥も深かった。
直ぐに止められる。誰でもやってる。そんな甘いフレーズが似合う世界の入り口だった。
気が付けば頭の天辺までどっぷりと浸かっている。
最初の仕事で大成功しなければこんなことにはならなかった。
最初の仕事で失敗して尻尾を巻いて逃げることができればこんなことにはならなかった。
皮肉にも、望実は現代の賞金稼ぎとして天稟を持っていた。
普通の家庭の、普通の若者が暗黒社会で生きていくのに適した才能を持っているのは、防ぎようがない。
明るい世界の人間だから暗い世界で生きていけない理由はない。
それと同じで暗い世界の人間が必ずしも暗い世界で成功するとは限らない。
才能は防ぎようがない。
才能に見合う機会との邂逅もまた防ぎようがない。
望実は左太腿の処置を終えて消毒薬などが詰まった救急箱を片付けると部屋着用のジャージを着てベッドに寝転がり、大きく伸びをする。
今日は休日……ではない。情報屋から手配書のリストが送信されてくるのを待っているだけだ。
先日の藜直衛の一件でかなりの金額が転がり込んできたが、半分ほどは情報屋の報酬とマテバMTR-8の弾薬と、万が一のセーフハウスの維持で消えた。
実際に手元に残った金額をみると軽く凹む。
これが賞金首の値段にみえなかった。
自分の命の金額にみえたのだ。
※ ※ ※
翌々日の午後3時。
丁度、喫茶店で巻き終えた手巻き煙草を口に銜えたときに携帯電話の着信を報せるバイブが作動する。
銜え煙草のままディスプレイに左手の指を這わせて着信したメールの内容を確認する。
右手はいそいそとラスタ・オリジナルのパウチの蓋を閉めてポケットからイムコのオイルライターを取り出す。
煙草に興味がない人間からすれば意外かもしれないが、販売されているタバコの葉全般はタバコの煙を中てられて、その成分を吸い込むと味が急激に劣化して不味くなる。
タバコの敵はタバコの煙だ。
タバコは呼吸を繰り返して熟成していく嗜好品だ。
湿度や温度と同じくらいに気体に含まれる成分にもデリケートにならなければ愛好家とはいえない。
「…………」
――――ほう。
表情を変えずに心の中で感嘆する。
高い情報料を払っているだけあって、いい情報を持ってくる。
良好過ぎて同業者同士が現場で鉢合わせして蹴落とし合いが展開されるのは仕方がないが。
藜直衛の賞金に相当する賞金首。
このような金額は大方の場合、生死不問と相場は決まっている。
賞金首の手配書一覧が更新された。
その中でも別途料金を払えばさらに有用な情報つきのリストが送られてくる。
一覧は中々に圧巻で、聞いたことのある名前が列記されている。
中には実際に顔を合わせたことのある人物も並んでいた。
表情の変化から、辺りに高揚と歓喜を知られないようにポーカーフェイスで銜えた手巻き煙草の先端をお気に入りのライターの火で炙る。
一度は倒産したオーストリア製のオイルライターだが、人気が根強く、日本の喫煙具メーカーがライセンスを買い取ってリバイバルさせたライターだ。
ジッポーが蓋を開けてホイールを廻すシングルアクション拳銃だとするのなら、文字通り自動拳銃の機構を組み込んだイムコ・オイルライターはダブルアクション拳銃だ。
蓋を開けるワンアクションでウイックに火が点く。
いつもの安息感を与えてくれる。舌に馴染んだ煙を口中に含んで転がす。煙草を吸うということは煙を吸って安息を得ていると思われがちだが、厳密にいうと、煙草の成分を燻し出すのに火力が必要なだけで、タバコ葉が燃える直前に高熱により滲み出る成分を吸い込み、安息を得ている。
結果として煙を吸い込んでいるだけなので、定義上の本来の意味では煙は不要な存在だ。
最近では呼吸器を傷めるので煙を嫌うが、ニコチンの成分は欲しいという理由で噛みタバコや嗅ぎタバコも浸透してきている。噛みタバコはチル、嗅ぎタバコはスヌースなどと呼ばれる場合がある。
視界の端の携帯電話に表示される隠語と暗号が羅列されたリスト。
目を細めて閲覧する。……何れも生死不問。笑いが出るような賞金。ただ、簡単な説明を読むだけではいずれも一筋縄ではいかない連中ばかりだ。
一層目が細くなる。
傍からみていると、濃厚な紫煙に目が沁みただけにみえる。
直感に従って食指が動いた賞金首を何人か選び、情報屋に折り返しのメールを送信する。
詳細の情報を請求して送信してもらうためだ。
1人で何人もの案件を追い駆けることは不可能だ。送付してもらった詳細を読んで自分の実力に応じた賞金首を狙う……尤も、殆どの場合、多少の欲を掻いて背伸びしてやっと仕留められる賞金首ばかり狙うのだが。
慌てて席を立つ真似はせず、悠然と紫煙をぷかりと浮かべながら、時折、コーヒーカップを口に運ぶ。
タバコにコーヒーは切れない仲だ。
どちらかを摂取すれば必ずどちらかを求める。