驟雨の前に珈琲を

 緊張を解すのに深呼吸を繰り返せば何とかなるという通説に通じる。それを手短に行った。手短に行えるように普段からミントのタブレットを強く意識していた。これさえあればどんな恐怖は鎮まる、と。プラセボ効果の応用だ。
 口中の清涼感が、荒い呼吸で乱暴に肺に送り込まれて目が覚める冷感を与えてくれる。
 恐怖に飲み込まれる意識を回復させて、遮蔽の陰で深呼吸を繰り返す。
 深呼吸のたびに大量のミントフレーバーが肺に流れ込み、それに反比例して心臓が落ち着く。
 実際には心肺機能は何も変化していない。
 心理的効果が大きく、ポジティブでアクティブな思考が浮かびアグレッシブにそれを取り入れようとする、もう1人の自分がメタ認知で語ってくれる……さあ、早く立て、と。
 マテバMTR―8のシリンダーには7発の実包。
 奴も人間だ。38口径であろうとも、バイタルゾーンに命中すればまともに立ってはいられない。
 遮蔽の陰から飛び出し、左手側の壁面に沿って移動。
 同じく藜直衛の背後から襲撃を目論んでいた同業者が現れる。……その敵意丸だしの足音を聞くなり、振り向きざまに放った2発の38口径は陰影の向こうの体を正確に捉え、呻き声もなく、地面に沈めた。
 ミントのタブレットによる自己暗示の作用が遅ければ姿の見えない同業者によって邪魔者だと屠られていたに違いない。
 藜直衛の走った方向から逃走したルートを割り出す。
 今度こそ大通りを目指している。
 二輪連中が乗り捨てた機動力のバイクが転がっている。二輪連中だけが連携している可能性は低い。何れかのバイクを窃盗して一時の機動力として利用されれば、望実を含めた賞金稼ぎ連中の敗北だ。……逃がさない。
 大雑把に解釈すれば、藜直衛は応戦しながら戦線を押し上げる。
 望実はその藜直衛を背後から追い駆ける。藜直衛の行く先にも賞金稼ぎが何人か展開している気配がある。
 連携こそなっていないものの、挟撃そのものだ。
 四つ辻から飛び出ると、遅れを取っていた賞金稼ぎと思われる男に左手側から銃弾を浴びせられる。
 馬鹿正直に相手にしている暇はない。
 舌打ちをしながら牽制の3発を浴びせ、頭を押さえると止めは刺さず、負傷もさせずに向かいの辻に飛び込んで藜直衛の追跡に注力する。
 シリンダーには残り2発。
 左手でベルトポーチから実包を挟んだ特殊ローダーを取り出して左手小指で保持する。
 走る。銃口を空に向けるなどという上品な扱いはしない。
 銃口の前に立つ者は排撃する所存。
 藜直衛を初弾で仕損じた悔しさが今の原動力だ。
「!」
 路地の先に藜直衛の背中が見え隠れする。
 遮蔽が多過ぎて狙撃には不向き。
 距離を尚も詰める。
 藜直衛は時折速度を緩め、左右の辻に発砲してから前進する。
 その度に彼のS&W M629の銃口の先にいる賞金稼ぎに銃撃を浴びせられる。
 走りながらの左腕のみでの再装填。ロスは少ない。スタイルは違えど望実も輪胴式を遣う。
 彼は敬意を抱くに相応しい拳銃遣いだが、それ以前に賞金首だ。
 明日の飯の種だ。糊口を凌ぐ唯一の手段だ。遠慮はしない。
 発砲をするべくやや右半身のアイソセレススタンスにスイッチしてカップ&ソーサーでマテバMTR-8を保持。
 再び、目測で30mまで距離を縮める。
 今度は義手という盾はない。確実に仕留める。仕留めなければこちらが仕留められる。
 背後から撃つことに気後れはない。藜直衛の手配書には生死不問とあった。死体でも賞金の金額に変化はない。
 藜直衛が再装填。移動する歩幅を緩めずに相変わらず滑らかな動作で再装填。
 背中越しでも理解できる。彼の心身に疲労はない。
 賞金稼ぎ連中からイニシアティブを手に入れたことによる優越感もない。弄んでやったという高圧的な印象も受けない。
 あの男が同業者でなくてよかった。
 あの男が、彼が、藜直衛が同業者なら上位ランクに位置する遣い手として名を馳せ、望実は早々に看板を畳んでこの社会の底辺で這いずり回っていただろう。
 素晴らしい、長い、深い、輝く人生の修行をしてくれて有難う。
 心からの感謝。
 撃鉄を起す。引き金を引く。躊躇は皆無。心は静謐な水面。五感が凝縮する。視界がズームする。彼の背中を背中の上部の頚部付け根が拡大される。耳鳴りが過ぎ去り、一瞬で静寂が訪れる。
 駆ける足が軽いのにスローモーションのように作動している錯覚を覚える。
 感覚の消失。左太腿に熱い焼け火箸を当てられた痛みを感じるが氷を押し当てたように熱い痛みが鎮火する。
 引き金は軽い。引き絞られた撃鉄が勢いよく雷管を叩く。
 いつもの、聞き慣れた発砲音。馴染んだリコイル。
 空気を伝わる確かな手応え。
 彼が振り向きざまに発砲。……しかし、彼の表情は既に口角を吊り上げた表情を貼り付けたままで38口径の熱く焼けた直撃に頚骨を撃ち抜かれ、地面に華麗に回転しながら沈んでいく……。
 彼の放った最後の44マグナムの弾頭は望実の背後に迫っていた同業者――大型軍用拳銃を握って望実にサイティングしていた――の胸に吸い込まれ、そいつをハンマーで殴ったように吹き飛ばしていた。
 彼が完全に地面に臥せって微動だにしなくなるのを確認していない。確認したのは2秒後だ。
 彼の最期の断末魔――S&W M926の銃声――が路地裏に木霊している間に、左軸足を中心に右腕から発生する遠心力で以て、体を左90度に回転させ、自分の太腿に擦過傷を負わせた20m向こうの賞金稼ぎにダブルタップで38spllを叩き込む。
 その賞金稼ぎが前のめりに倒れるまでに再び藜直衛に向き直ったときには、彼は既に地面で右手の欠けた大の字で地面に臥せっていた。
 マテバMTR-8をだらりと提げて藜直衛の元に歩み寄る。
「…………」
 閉鎖されていた神経が、遮断されていた五感が、封鎖されていた感情が一気に解放され、痛みが、恐怖が、高揚が込み上げ、彼を見下ろしたまま思わず空に向かって右手一杯に伸ばしたマテバMTR-8を発砲した。
 この区画で行われていた命懸けの茶番が終了したことを報せる号砲の意味を込めた発砲だった。
「……」
「……」
 辺りから、声こそ聞こえないが、音こそ拾えないが、落胆こそ感じられないが、確かに近付きつつあった足音が消えていくのを感じた。
 彼らは賞金稼ぎだ。信用商売だ。
 狩り場でかち合った商売敵を蹴落とす真似はしても、他人の獲物を横取りする仁義も人情も無い真似はしない。
 彼らはこの場では1人の女賞金稼ぎに負けただけだ。
 次は負けない。次こそは負けない。
 心で舌打ちと唾棄を繰り返して消えていく。
 明かりのない蝋燭の火が消えるのに似た静けさで、一人また一人と消えていく。暗い空間で黒い布が煙のごとく消える……そんな静けさが広がっていく。
 マテバMTR-8を左脇に仕舞いこむ。
 代わりにシャグのパウチを取り出して、その場に胡坐を書いて座り込み、能面の顔で黙々と手巻き煙草を巻きあげる。
 皮肉な事にこの上なく見事に巻けた渾身の1本を銜えてイムコのオイルライターで一服した。途端に、左太腿の擦過傷の痛みを身に染みて感じ取った。たった1本の手巻き煙草が緊張を解し、停止していた新陳代謝を再開させたのだ。
 甘い紫煙を吐きながら携帯電話でしかるべき相手に電話をする……完了次第、クライアントが確認しに来る算段だった。
 自分が生きてこのダイヤルをプッシュできていることを賞金稼ぎの神様に感謝する。
 甘い紫煙。生きている自分を再確認する味はいつもこの味だ。
  ※ ※ ※
「……うん」
 望実は呟く。頷く。
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