駆ける。地面を蹴る。駆ける。走る。低い姿勢から駆け上がり大きく跳ねる。
　彼女、八木望実（やぎ のぞみ）は折角の実りに実った胸を戒めの奥に封じ込めて夜の街を走る。
　走る。夜の街を走る。繁華街を走る。人込みで雑踏が埋まる時間に彼女は走る。
　彼女には道や路や途の概念が通用しない。
　両足が衝くのなら、足の裏から発生する反動を前進に伝えて走ることができるのならどこでも『みち』だった。
　彼女は走る。ときには駆けてときには跳ねる。
　八木望実という身長１７０ｃｍの人物が、今年２８歳の、伸び始めたセミロングを後頭部でゴムでまとめる人物は、頬を走る汗をも弾けさせて、ビルの屋上を走っていた。
　景観法で決められた高さのビル群。
　飲食店や金融会社の入るネオン街の文字通り裏側。
　屋上を走る。すぐにフェンス。そのフェンスすらも疾駆する勢いを殺さずに網目の隙間に爪先を掛けて駆け上り、屋上の縁に立つ。
　しかし、彼女は止まらない。
　大きく呼吸を吸い込みつつ両手を大きく広げ、高さが同じの隣のビルの縁へと飛び立つ。
　鳥でもない彼女に滑空や羽ばたきの能力はない。
　滞空時間もこの程度の距離ならば、重力が全ての地球上では大した意味をなさない。
　ビルとビルの間。
　作業員用の細い路地を挟んでいても５ｍ以上は離れている。
　彼女はサイケデリックな輝きを放つネオンの裏側の世界で投身自殺さながらの思い切りをみせた。
　そして、爪先は隣のビルの縁へ……届かない。
　５０ｃｍ以上の間隔を空けて彼女の体はビルの縁から遠ざかる。
　……だが、彼女の右手の指先の第一間接が辛うじてビルの縁を掴み、落下の速度を大幅に殺した。
　左掌を鳩尾の位置で広げて体がビルの壁面に衝突するのを緩和する。彼女の下半身では鈍い音がする。
　人間の骨肉では再現できない衝突音。カーゴパンツの下に装着した両膝のニーパッドがビルの壁面を同時に叩いた。
　彼女の体に掛かる負荷や衝撃はかなり軽減され、頃合を見計らって、彼女は自分から命綱ともいえた右手の指先を解放した。
　今度こそ彼女は７階建てのビルの屋上付近から落下した。
　落下ではあったが、その距離は極端に短かった。
　２ｍの落下。
　足下は窓から突き出たエアコンの室外機。
　勿論、違法に設置されたものだ。
　表向きと表看板は零細企業や飲食店が入るテナントビルだったが、図面上倉庫として扱われているはずの僅かなスペースは不法滞在者の居室として宛がわれている。
　ビルの設計上、フロアごとに違う設計はありえない。
　空間、テナント、階段、廊下、柱、非常階段などの場所はどのフロアも殆ど共通している。
　望実は左手を自身の後ろ腰にぶら提げたチョークバッグに手を差し込んで、滑り止めの粉末をまぶすと、今、立っている室外機からさらに足を半歩引いて体を再び落下させる。
　今度は左手が階下の室外機の縁を捉えて体を中空に揺らす。
　ジャージとカーゴパンツを纏った人影が室外機に垂れ下がる事態ではあるが、直ぐ頭上、路地に入って、すぐの、この出来事は誰にも解らない。
「……」
　珠のような汗が前髪の間から流れ落ちる。
　汗の粒は顎先から垂れ落ちる。
　もうすぐ梅雨だ。寒い季節ではない。ジャージの左脇に呑んだ剣呑で物騒な膨らみがなければ、すぐにでもジャージを脱ぎ去りたい。
　さらに左手を解放。
　重力に逆らわずに彼女の体は階下へと壁面沿いに落下。
　またも左手が違法設置の室外機の縁を捉えて体を指先だけの膂力で維持する。
　それを幾度も繰り返し、やがて着地。
　表通りの繁華街では彼女が人混みの頭上から降ってきた事実は悟られていない。
　彼女は最短最速のルートでこの場所に降り立っただけだ。
　そして今立っている路地裏の最奥を目指してきびすを返す。
　上下とも濃いグレイで揃えた野暮ったい衣服で身を包んでいるが、コンクリートとアスファルトだけの街中を吶喊するには最適なカラーリングだった。
　どこの衣料品店でも手に入るというのがポイントが高い。
　凝りに凝った迷彩柄で彩られた衣服では、特徴的過ぎて人々の記憶に残りやすい。
　尤も、この活動に対しての衣服に拘る彼女であるが、彼女自身は自らの容貌をあまりにも軽視していた。
　ややブラウンの色素が薄いセミロング。それをゴムで束ねただけの簡素な髪型は彼女の熟しつつある女性の魅力を無意識に、無意味に振りまいている。
　今し方の美しい汗の珠にしても、健康的で白い喉や頸を這い落ちて灰色のＴシャツの胸元や肩に黒ずんだ染みを作る様はスポーティでアクティヴな女性を好む男性や、ネコを自負する女性たちには受けがいいだろう。
　何より、眉目がシャープに整った彼女の美相は、どこかあどけなさすら感じさせる生命力に溢れていた。
　少々のメイクアップで二十歳でも充分に通用する。
　顎先の細い今頃の女性といった輪郭に納まった双眸は鋭く冷たく、しかし、深い洞察力を具えていると感じさせる理知的な輝きを持つ。
　筆で刷いて象ったような流麗な鼻筋を中心に広がる目元と口元は、何かしらの黄金比を形成するかのように整っていて、望実という人物の外見レベルの高さを推し量らせた。
　……美貌という形容だけでは不十分。
　知性と野生が同居するネコ科の動物を思わせる。
　笑えば家猫のような愛想のよさなのだろう。怒れば虎のような獰猛な凶相をみせるのだろう。
　この時間に望実が表通りを普通に歩いていたのなら、確実にスカウトマンや客引きに声を掛けられ面倒臭い展開になるのは予想できた。
　だからというわけではない。
　だから彼女は屋上や屋根や室外機伝いに繁華街の裏を走っているのではない。
　それとこれは別問題だ。
　彼女が夜中にフリーランニングをしているのと、彼女の美貌が印象的なのは別の話だ。
　望実は自分の職業の職掌を全うすべく、人目を憚って光源が及び難い道なき道を走っていただけだ。
　職業、賞金稼ぎ。
　それも暗黒社会だけに通用する手配書を読み漁って高額の賞金首だけを追い掛け回す賞金稼ぎだ。
　西部劇の時代ではない。
　賞金首の手配書に生死不問の文言が書き足される割合は半分程度しかない。残りは生きたまま捕らえろという文言が添えられ、ごくたまに死体のみという文言をみかける。
　勿論、絶賛追跡中。
　世の中、世知辛いもので賞金稼ぎに有力な情報を売りつけて賞金のおこぼれに与るハイエナのような人種が存在し、それもまた賞金稼ぎ専門の情報屋として機能しているのだから気が抜けない。
　その賞金稼ぎの情報のみをリークしてくれる情報を高く買ったのだから追い掛け回さない手はない。
　どんなにとんとん拍子で賞金を手にしても、交渉で失敗すると３割は情報屋の取り分となる。
　最近では口下手な賞金稼ぎのために情報屋との交渉を生業とする『交渉屋』まで存在する、コミュニケーション能力の不足が目立つ世界だ。
　西部劇の時代にガンマンが悪人を馬で追い掛け回していた世界がどんなに暢気な雰囲気であるか、解ろうというものだ。
　今追跡している賞金首は生死不問ではないが、生きていれば問題はない標的だ。
　最悪、口が聞けたらそれでいいという、実に乱暴な手配書だった。
　仕事としてのレベルは高い方だ。
　殺してはいけない。活きがよすぎてもダメ。
　路地裏をひた走る。
　黴臭い空間を何度か角を曲がり、何度も勝手口付近のエアコンの室外機を飛び越えた。
――――あ……。
――――『空気』が変わった。
　走りながら彼女の目が細くなる。