租界の陰の金牛宮

 綾左はプリントアウトされた1枚の紙を折り畳んでズボンの前ポケットに押し込んだ。
 フィルター辺りまで短くなってケミカルな不味さが加わったゴロワーズ・レジェールを久野が灰皿代わりに使っているビールの空き缶に押し込む。
「何かあったらまたくるわね」
「偶には手土産くらい持ってきてよ」
「手土産を持ってきたくなるようないい仕事をガンガン紹介してくれたら考えるわ」
 嫌味半分冗談半分の短い会話。2人とも表情の変化に乏しかったが、互いに不満を抱いているのではない。
 綾左に限っては、この意外と脱力できる空間で、命の危険性から開放された錯覚が抑えられずに……しかし、抑えようと必死になって融解する表情の筋肉をポーカーフェイスで保っているだけだ。
 機嫌がよさそうな笑顔でもみせようものなら、久野に何をいわれるか解らない。
 メシを奢れとか肩を揉めとか部屋の中に真っすぐ歩ける道を作ってくれとか……それらを笑顔の瞬間を捉えた隠しカメラで撮影した画像で脅されそうだ。
 久野がこの界隈でも一目置かれている腕利きの情報屋だから、あらゆる勢力に重宝されている。
 彼女が全力を出せば、この界隈一帯の主だった勢力を満遍なく半壊させる爆弾に相当する情報を無差別にばら撒き、久野を殺しても殺した側やそれに関連する勢力の敵味方は関係なくとばっちりを受ける。
 しかもデジタルデータゆえのデジタルタトゥーを最大限に活用しているというオマケがついてしまい、彼女を畏怖する勢力すら存在する。
 だからこそ、この汚い限りの空間は、みえない勢力同士の不可侵条約で保障された安全地帯だ。……いざというときにここに逃げ込めない確率が高いのが難点だが。
 今から思えば綾左は久野がヨーロッパで命懸けのカチコミ屋としての修行を行っているうちに恐ろしく成長したものだと感心しているしている。
 久野は久野で生還率の低い『トカレフを遣うあの女』の指示で修行させられてよくもまあ生きて帰ってきたものだと感心している。
 出会ってから今に至るまでに10年の歳月が経過しているが、人の成長は生きて成ればこそだと2人は互いに互いを尊重している……かもしれない。
   ※ ※ ※
 ヤードから借りてきた不正登録のナンバーをつけたマツダデミオ。
 マイナーチェンジ前のモデルでカラーリングは白だ。
 商用車として使われていたらしく個性を感じない車内だった。
 足回りも全くの無改造で目立った癖もなく、素直に運転できるのでこのまま買い取りたいくらいだった。尤も、燃費の面で少々泣かされそうだった。
 低燃費を謳い始めた時代のモデルなので、現行モデルと比較するとやや劣る。それにエンジン各部位の劣化も鑑みると燃費で悩みそうだ。
 悪い音は聞こえていないが、時折、ピーキーな走りに変わるのでエンジンの寿命そのものにも少し不安。買い取ってエンジンだけをオーバーホールすれば何とかなるか……と考え始める。
 右腕のタグホイヤーは11時を経過したことを報せていた。午後11時だ。
 天候は快晴。
 なれど夜空では太陽よりも欠けた月の天下だった。
 瞬くような星がみえるわけでもない夜空。
 今時、月と星がまとめて視界に納まる状況などあり得ない。大気汚染も深刻だ。
 久野の家でプリントアウトされた紙を脳内で広げる。
 この紙切れにちりばめられた情報の裏づけをするために、さらに有料の情報屋をハシゴして精度を確認した。
 繁華街からやや離れた雑居ビル群。
 駅前の開発から取り残された、寂れた地域。自治体に財力や財源があればすぐにでも開発できるだろう。メインの駅から何割の利用者をここに惹きつけられるかが鍵になるだろう。
 ビル群の間を縫う小規模な典型的シャッター街。
 落書きされていないシャッターを探すほうが難しい。
 明滅する街灯が幾つか見受けられる。メンテナンスされている様子はない。電源が落とされて久しい自動販売機もみかける。今時珍しい電話ボックスには内側四面にチラシが張られて思わず苦笑い……あんなチラシの中にある番号をプッシュするだけで簡単に堅気が暗黒社会の住人と連絡が取れるのだから世の中油断ならない。
 少々五月蝿いがエアコンがすぐに温まるので助かる。
 4月下旬の夜なのに未だ冷える。
 夕陽が沈むと体感温度が4度以上の寒さを訴える。まだまだフィールドコートはクローゼットに押し込めないでいる。
 フィールドコート。
 血飛沫や返り血で染みが付いたオリーブドラブのフィールドコート。大量生産のノンブランドだが長く愛用している。
 カチコミの際に「フィールドコートを着た女」という印象を植えつけるためでもある。
 夏でも冬でもカチコミのときはフィールドコート。
 生存者の口伝から綾左の情報が伝わっても「フィールドコートを着た女」以上の情報が即座に伝達される可能性は低い。
 フィールドコートの下には動きやすさと防寒を重視した、黒いタートルネック。
 惜しげもなく豊かな膨らみが主張している。鉄火場で色気が武器になった例はないし、そんなものにまで期待は込めない。
 ショルダーホルスターの左脇に納まるタウルスPT-908。右脇には2本の予備弾倉が収まるポーチ。
 それ以外にもジーパンのベルトポーチに合計9本の予備弾倉をポーチに差し込んでいる。
 後ろ腰には空弾倉回収用のダンプポーチ。弾倉も無料ではない。弾を詰めれば何回でも繰り返して使える。
 暗い車内でタウルスPT-908を引き抜き、そろそろとスライドを引く。
 月明かりにキラリと浮かぶ薬室に送り込まれた実包の尻。
 スライドを戻すと撃鉄を起してセフティを掛ける。
 コック&ロックで待機。装弾数8+1発。
 今夜もエマージェンシーリロードに陥らないように厳密に発砲数と装弾数の計算を徹底することを心にいい聞かせる。
 タウルスPT-908を左脇に戻すと同時に左内ポケットからゴロワーズ・レジェールのソフトパックを取り出し、手首のスナップで2、3本を迫り出させ、その内の1本を銜える。
 先端を使い捨てライターで炙りながら大きく紫煙を吸い込む。
 濃厚な重い煙が喉を通過して肺にズシンと落ちる。
 目を閉じ3秒ほど呼吸を止めゆっくり煙を細めた唇からスーッと長く静かに吐き出す。
 独特の甘味を含む煙が喉を再び通過して体外へ。 
全てを吐ききると、深みのあるコクが残り味として口中に残留する。 
 口の中の黒煙草の残り香を鼻腔から抜くと鼻の奥に酔いしれるような甘さが広がり長く楽しめる。酸味が豊かな深煎り焙煎のコーヒーが欲しくなる。
 しみじみとゴロワーズ・レジェールを楽しみ、灰と吸殻は携帯灰皿に押し込む。間違えても車内に残さない。
 左腕のタグホイヤーに単3電池ほどの大きさのLEDライトを当てて時間を確認。
 午後11時半までもう少し。
 実測で燃焼が早いとされるゴロワーズ・レジェールを7分も楽しめたのだから御の字としよう。
 緊張を適度に解す手段も知らない奴は、表の世界でも裏の世界でも長く活躍はできない。
 不正登録のデミオから降り立つ。
 人気はない。
 違法駐車の車列にデミオを停めてあるが違和感なしだ。
 目的の場所はこの近くの4階建てのテナントビル。
 標的はそこを不法に占拠し、根城にしている麻薬の密売人の溜まり場を荒らすこと……とみせかけてリストアップされていた中心人物3名を射殺すること。
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