租界の陰の金牛宮
女だからと舐めて掛かり、獲物を前に弄びすぎたのだ。
左手を離さず、大きく両手を広げて弓を射るような恰好で自動拳銃を右横倒しにして綾左も距離を取る。
突然大きく開いた距離。
このときの男の覚悟した顔だけは今でも忘れられない。
引き金、引く。
男のコルトパイソンとは質の違う発砲音を響かせ、綾左の自動拳銃は2発の銃弾を吐いた。
違わず、2発とも男の胸部に命中し、侵入し、停止力を撒き散らした。
背後からの足音を思い出した綾左はコルトパイソンを力無く手放して膝から崩れつつある男の背後に回りこみ、膝立ちの体勢になっている男の体を盾にする。
またも襟首を左手で握ってのスタイルだ。
だが、今度は左右にも奥にも移動できない。
目前に現れる追っ手をこの場所で迎撃するまでだ。
奥には逃げられない……死体同然の男の体を放り出せば走り出すことができるだろうが、がら空きの背中に熱い銃弾を叩き込まれるのは目にみえている。
そういえば、脳天の銃火が原因と思われる火傷も疼く。
顔面に浴びた火薬滓も痒みを伴う不快感がする。
体力も限界が近い。
夜更けの時間帯だが、この街は眠ることを知らない。
人だかりができて逃走するどころではなくなる。
そもそも逃走する必要があるのか? 人目を憚って逃走する必要があるのか? 自分は巻き込まれただけの被害者だ! 正当防衛が認められても仕方がないシチュエーションだと思うのだが、司法的にはいかなものか? 今すぐ速やかな治療と熱い食事と大きなバスタブと柔らかいベッドを所望する!
頭の中が混沌とする。
疲労。糖分の急激な不足による思考の停滞。
論理的に建設的な意見を導き出せない自分。
何かが、何もかもが、何でもかんでもが、どうでもよくなる。
どうでもよくなるが……追撃者だけは片付けておきたいと考える。
その心境はエアクッションの粒を全部潰すまで何もしたくないという手軽な理由と同じだった。
片付けておきたい。
――――片付けておきたい……。
どうしても片付けておきたいのだ。
後腐れの話ではなく、生理的判断として。片付けておきたいのだ。
……路地の角から既に決着がついたのだと信じ込んで、コルトパイソンの男が勝利したのだと信じきっている連中が、ぞろぞろと銃口を地面に向けてやってきた。
ほぼ直列の状態から、何故か膝立ちをしているコルトパイソンの男を怪訝に思いながら近付いてくる3人の男を案山子でも撃つように躊躇せず撃ち倒していく。
どいつもコイツも信じられないという表情のまま、体を折って地面に倒れる。
3人分の血液は大きな血の池を形成した。
恐らく即死には繋がらないだろうが、この場所では誰も救急車は呼んでくれないだろう。
「……」
後に名前を知ることになる、この夜に使用した拳銃にセフティを掛ける。
ひずみの大きな三角形の部品が頼りなく、起き上がり、軽くスライドの後ろを叩く。
引き金が軽く弾かれて前進。これがハンマーデコッキング連動のセフティだと知るのも後の話だ。
コルトパイソンの男の死体を投げ捨てるように突き放す。
完全に脱力して、腰から下が寒気に襲われたように震えて今更ながらに恐怖に呑み込まれた。
疲労や空腹や睡魔も入り混じる、名状し難い恐怖。
大声で絶叫したくても腹腔に力が入らないので掠れ声すら出ない。
そんな散々な綾左の背後から能天気に現れ、百面相で恐怖を表現する綾左の右肩を叩いたのは高市久野だった。
「さ。ウチに帰ろう?」
ボアの入ったブルゾンジャンパーを着た久野の、そのときにみせた優しい微笑みはこの夜以降、みたことがない。
……然し、世の中は巧く廻っているもので、高市久野はちょっとした知人程度の加代綾左という人物を『カチコミ屋としてレクチャーすれば必ず大成する大型新人』というセールス文句で、師匠に内緒で築いたばかりの独自情報網に密かに流し、彼女の与り知らぬ場所で彼女……綾左を売り買いしていた。
綾左も綾左でほとぼりが冷めるまでどこにも逃げられないと観念して国外に逃げる算段を本気で考えていた。
その綾左を国外へ連れてヨーロッパを転戦させて本物の本当に使えるカチコミ屋として育て上げた人物は、女性のトカレフ遣いだったとされているが、その人物の情報は未だに掴めず、綾左も電子メールで指揮指導されていただけだという。
銀行口座には毎月、生きている限り生活費を入金するという約束だったので反発する理由もなく、左右の思想を問わずに殴り込みを装う暗殺の術を叩き込まれた。
叩き込むのはいつも現地の外国人。
言葉は通じないが命懸けなので見様見真似だけで体得した。
基本も基礎も基盤もない。
常に力技を押し通す。
常に力技を効率よく押し通す戦術を覚えた。
……これが綾左のカチコミ屋としての顛末で、久野との長い付き合いのファーストコンタクトだった。
帰国してからも久野を何だかんだと贔屓の情報屋の筆頭として扱う理由でもある。
その久野が今ではゴミが堆積する部屋の奥で、モニターを見つめて情報集に余念がない。
時間とは冷酷なもので、まだまだ磨く余地があった美女の原石が見事に台なし。
女子力を数値化する技術があるのなら彼女は確実にプラスの数値でそこそこいい線を狙えるのではなかろうか。
ただの無頓着ならそこまで評価しないが、コンビニで貰える手拭用のウエットティッシュで顔を拭き、頚部を拭い、胸元まで拭くさまをみせつけられ、体臭が染み付いて洗濯すら面倒臭がった末にスプレー式の消臭剤で衣服を除菌消臭し、その微香で誤魔化す。
専用のクリーニング業者――死体処理専門業者ではなく、本物の掃除請負業者――に今すぐ電話してこの部屋を片づけてもらいたい気分。
どうせパソコンのハードディスク以外に価値のあるものがこの部屋にあるとは思えない。
今し方、2人分の煙草の煙を抜くために窓を開け放ったが、恐らく久し振りの室内の換気だろう。
この環境で慣れ親しんだとはいえ、体調に変化をもたらさない久野もやはり、どこかタガの外れた人物だったのだ。
「楽な仕事……ってね……労働と対価が微妙に拮抗した仕事ならあるけど?」
久野がマルボロを銜えたままキーボードを叩いて気怠そうにいう。
何も指示しなくても依頼内容をプリントアウトしてくれる。
彼女としてはモニターの前から移動してそのモニターを綾左にみせる動作をするのが面倒臭いだけなのだろう。
「……これでいいわ。で、これ、有料?」
「有料。クーリングオフなんてできないわよ」
「解ったわよ。買い取らせていただきます」
細かな部分で守銭奴な性分を発揮する久野に軽く辟易。
情報屋として扱っているつもりの高市久野という人物だが、綾左にとっては良心的な値段で仕事を斡旋してくれる窓口でもあるのでビジネスライクな部分でも彼女を手放したくない。
久野からすれば本職以外の副業程度の観念だが、小遣い程度に金が稼げるので綾左は貴重なお客だ。
金の損得でしか結ばれていない間柄だが、人の命など1発数十円の銃弾で消え失せる世界なので、その価値観は表の世界とは事情が違う。
映画の中では使い捨ての空弾倉にも単価がある。
銃火器をメンテナンスするのにも道具一式を揃えるのに金が掛かる。 ホルスターやポーチの有用性は誰しもが知るところなので、誰しもが前提として欲しがるアイテムだ。
故に金で金を買うとも謂える。
左手を離さず、大きく両手を広げて弓を射るような恰好で自動拳銃を右横倒しにして綾左も距離を取る。
突然大きく開いた距離。
このときの男の覚悟した顔だけは今でも忘れられない。
引き金、引く。
男のコルトパイソンとは質の違う発砲音を響かせ、綾左の自動拳銃は2発の銃弾を吐いた。
違わず、2発とも男の胸部に命中し、侵入し、停止力を撒き散らした。
背後からの足音を思い出した綾左はコルトパイソンを力無く手放して膝から崩れつつある男の背後に回りこみ、膝立ちの体勢になっている男の体を盾にする。
またも襟首を左手で握ってのスタイルだ。
だが、今度は左右にも奥にも移動できない。
目前に現れる追っ手をこの場所で迎撃するまでだ。
奥には逃げられない……死体同然の男の体を放り出せば走り出すことができるだろうが、がら空きの背中に熱い銃弾を叩き込まれるのは目にみえている。
そういえば、脳天の銃火が原因と思われる火傷も疼く。
顔面に浴びた火薬滓も痒みを伴う不快感がする。
体力も限界が近い。
夜更けの時間帯だが、この街は眠ることを知らない。
人だかりができて逃走するどころではなくなる。
そもそも逃走する必要があるのか? 人目を憚って逃走する必要があるのか? 自分は巻き込まれただけの被害者だ! 正当防衛が認められても仕方がないシチュエーションだと思うのだが、司法的にはいかなものか? 今すぐ速やかな治療と熱い食事と大きなバスタブと柔らかいベッドを所望する!
頭の中が混沌とする。
疲労。糖分の急激な不足による思考の停滞。
論理的に建設的な意見を導き出せない自分。
何かが、何もかもが、何でもかんでもが、どうでもよくなる。
どうでもよくなるが……追撃者だけは片付けておきたいと考える。
その心境はエアクッションの粒を全部潰すまで何もしたくないという手軽な理由と同じだった。
片付けておきたい。
――――片付けておきたい……。
どうしても片付けておきたいのだ。
後腐れの話ではなく、生理的判断として。片付けておきたいのだ。
……路地の角から既に決着がついたのだと信じ込んで、コルトパイソンの男が勝利したのだと信じきっている連中が、ぞろぞろと銃口を地面に向けてやってきた。
ほぼ直列の状態から、何故か膝立ちをしているコルトパイソンの男を怪訝に思いながら近付いてくる3人の男を案山子でも撃つように躊躇せず撃ち倒していく。
どいつもコイツも信じられないという表情のまま、体を折って地面に倒れる。
3人分の血液は大きな血の池を形成した。
恐らく即死には繋がらないだろうが、この場所では誰も救急車は呼んでくれないだろう。
「……」
後に名前を知ることになる、この夜に使用した拳銃にセフティを掛ける。
ひずみの大きな三角形の部品が頼りなく、起き上がり、軽くスライドの後ろを叩く。
引き金が軽く弾かれて前進。これがハンマーデコッキング連動のセフティだと知るのも後の話だ。
コルトパイソンの男の死体を投げ捨てるように突き放す。
完全に脱力して、腰から下が寒気に襲われたように震えて今更ながらに恐怖に呑み込まれた。
疲労や空腹や睡魔も入り混じる、名状し難い恐怖。
大声で絶叫したくても腹腔に力が入らないので掠れ声すら出ない。
そんな散々な綾左の背後から能天気に現れ、百面相で恐怖を表現する綾左の右肩を叩いたのは高市久野だった。
「さ。ウチに帰ろう?」
ボアの入ったブルゾンジャンパーを着た久野の、そのときにみせた優しい微笑みはこの夜以降、みたことがない。
……然し、世の中は巧く廻っているもので、高市久野はちょっとした知人程度の加代綾左という人物を『カチコミ屋としてレクチャーすれば必ず大成する大型新人』というセールス文句で、師匠に内緒で築いたばかりの独自情報網に密かに流し、彼女の与り知らぬ場所で彼女……綾左を売り買いしていた。
綾左も綾左でほとぼりが冷めるまでどこにも逃げられないと観念して国外に逃げる算段を本気で考えていた。
その綾左を国外へ連れてヨーロッパを転戦させて本物の本当に使えるカチコミ屋として育て上げた人物は、女性のトカレフ遣いだったとされているが、その人物の情報は未だに掴めず、綾左も電子メールで指揮指導されていただけだという。
銀行口座には毎月、生きている限り生活費を入金するという約束だったので反発する理由もなく、左右の思想を問わずに殴り込みを装う暗殺の術を叩き込まれた。
叩き込むのはいつも現地の外国人。
言葉は通じないが命懸けなので見様見真似だけで体得した。
基本も基礎も基盤もない。
常に力技を押し通す。
常に力技を効率よく押し通す戦術を覚えた。
……これが綾左のカチコミ屋としての顛末で、久野との長い付き合いのファーストコンタクトだった。
帰国してからも久野を何だかんだと贔屓の情報屋の筆頭として扱う理由でもある。
その久野が今ではゴミが堆積する部屋の奥で、モニターを見つめて情報集に余念がない。
時間とは冷酷なもので、まだまだ磨く余地があった美女の原石が見事に台なし。
女子力を数値化する技術があるのなら彼女は確実にプラスの数値でそこそこいい線を狙えるのではなかろうか。
ただの無頓着ならそこまで評価しないが、コンビニで貰える手拭用のウエットティッシュで顔を拭き、頚部を拭い、胸元まで拭くさまをみせつけられ、体臭が染み付いて洗濯すら面倒臭がった末にスプレー式の消臭剤で衣服を除菌消臭し、その微香で誤魔化す。
専用のクリーニング業者――死体処理専門業者ではなく、本物の掃除請負業者――に今すぐ電話してこの部屋を片づけてもらいたい気分。
どうせパソコンのハードディスク以外に価値のあるものがこの部屋にあるとは思えない。
今し方、2人分の煙草の煙を抜くために窓を開け放ったが、恐らく久し振りの室内の換気だろう。
この環境で慣れ親しんだとはいえ、体調に変化をもたらさない久野もやはり、どこかタガの外れた人物だったのだ。
「楽な仕事……ってね……労働と対価が微妙に拮抗した仕事ならあるけど?」
久野がマルボロを銜えたままキーボードを叩いて気怠そうにいう。
何も指示しなくても依頼内容をプリントアウトしてくれる。
彼女としてはモニターの前から移動してそのモニターを綾左にみせる動作をするのが面倒臭いだけなのだろう。
「……これでいいわ。で、これ、有料?」
「有料。クーリングオフなんてできないわよ」
「解ったわよ。買い取らせていただきます」
細かな部分で守銭奴な性分を発揮する久野に軽く辟易。
情報屋として扱っているつもりの高市久野という人物だが、綾左にとっては良心的な値段で仕事を斡旋してくれる窓口でもあるのでビジネスライクな部分でも彼女を手放したくない。
久野からすれば本職以外の副業程度の観念だが、小遣い程度に金が稼げるので綾左は貴重なお客だ。
金の損得でしか結ばれていない間柄だが、人の命など1発数十円の銃弾で消え失せる世界なので、その価値観は表の世界とは事情が違う。
映画の中では使い捨ての空弾倉にも単価がある。
銃火器をメンテナンスするのにも道具一式を揃えるのに金が掛かる。 ホルスターやポーチの有用性は誰しもが知るところなので、誰しもが前提として欲しがるアイテムだ。
故に金で金を買うとも謂える。