租界の陰の金牛宮
綾左は視ていた。その上で計算していた。『自分は助からない』と。
視界の端で赤髪の三下がスローモーションで独楽のように突然回転する。
綾左は視ていた。
赤髪の三下は左肩を被弾した。
体が大きく反転したときに腹部辺りが血飛沫を上げ、水風船が爆ぜる光景すらスローモーションに見えた。
視神経と聴覚が連携していないのか銃声がやや遅れて聞こえる。
自分に覆いかぶさるようにして唇を貪っていた禿頭の男が体から離れる動作すら、スローモーション。
「いたぞ!」
「撃て! 殺せ!」
「女がいる!」
「そいつも殺せ!」
複数の男の声。その様子を綾左は視ていた。故に『自分は助からない』と。
普通にしていれば助からないだろう。
普通に怯えて命乞いをしても助からないだろう。
普通に逃げても最終的に助からないだろう。
その間も禿頭の男は襲撃者の方向を振り向きながら右手を左腋に差し込もうとする。
綾左はそのときに起こした自分の行動を信じるしかなかった。
そして自分の行動の不可解さを嘆く暇を除外した。
禿頭の男の左足の甲を踏みつけ、右肩をドンと強く押し、襲撃者の方向に禿頭の男の背中を晒す。
禿頭の男は自分が嵌められたと思い込んでいる眼光で綾左を睨んでいたが、その問いに対する答えを今すぐに律儀に答える暇はなかった。
何もかもが成り行きの末の取捨選択に、問いも答えもない。
綾左の右手が男の左脇に素早く忍び込み、拳銃を引き抜く。自動拳銃。
使い方は知らない。
安全装置の存在は知っている。
引き金を引く前に、後に名前を知る、スライドというものを引かねばならないのも知っている。
映画で観た主人公が持っていた拳銃と同じ。
人間が扱うようにデザインされたマテリアルだ。
片手で一通りの操作が行えるようにデザインされているに違いない。安全装置なるものも指が届く範囲に設置されているはずだ。
人が操作するものだ。後にスライドという名前を知る部分は人間の握力で操作できるように取り付けられているはずだ。
自動拳銃に対する素人の独自の見識が生体電流の速さで末端組織に命令を下す。
禿頭の男の右手が振り上げられる。
綾左を殴ろうと振りかぶったのだろう。
その拳を振り下ろす前に、黒く無骨なれど流麗なデザインの自動拳銃のスライドを引いて確実に、何かが何かと噛み合う音を掌で聞く。
同時に引き金が一段深く後退する。
安全装置は握った瞬間に判別できた。
スライドの後端近くに左右に取り付けられている安全装置と思しきもの、それを親指で押し下げる。
基礎的な身体能力だけでそれらを完了させたとき、禿頭の男の大きな体躯が小刻みに震える。
禿頭の男の短い呻き声が頭の上から聞こえる。
男は脱力して綾左に凭れかかる。
綾差は禿頭の男の襟首を左手で掴み、足腰を踏み縛ってその場に立つ。
男の体を遮蔽の一部としている……そして右手に構えた自動拳銃は禿頭の男の左腋から腕ごと突き出して発砲する。
重く硬く冷たい自動拳銃を初めて撃った感想は、反動が制御できない、だった。
初弾がラッキーパンチなのか、15m離れた辻の角から頭を出していた1人の頭部に命中して射入孔を拵え、そこから脳内の圧力で脳味噌を形成する組織が砕かれたものが噴出した。それに関しては別段、何の感想もなかった。敢えていうなら、反撃が遅ければ自分がああなっていた、くらいのものだ。
それにしても軽い引き金だった。
拳銃は素人には当らないという説は当て嵌まったが、引き金を引くのに指先に力が必要だという話を聞かないのは本当だと思った。
禿頭の男の体に顔を埋め気味に遮蔽にしているので、発砲音はかなり軽減されていた。
耳を劈く音ではあったが、聾するほどの大音声とは思えない。
左右の壁の幅が狭い路地裏でも、空に向かって遮るものがないのが鼓膜の負担が少ない理由の一つなのかもしれない。上空に音響が逃げたのだろう。
淡々と、自動拳銃の感想だけが心中に浮かぶ。
弾倉の弾が切れたときが自分の命の終わりだということも知っていた。
普通の神経をした人間なら、ここまでの自分の行動に、自棄が差して自動拳銃を乱射して僅かな弾幕を張っただけで終わるのが常だろうが、綾左は、太く広く長いグリップに飲み込まれている弾の数を13発と仮定した。
何故13発と定義したのかは解らない。
直感だ。
直感こそは当たり外れの多い判断ばかりであったが、彼女の体感から計算された感覚上の推測は殆ど合っている。装弾数13発の根拠……世に聞く9mm口径を直径9mmとして、自分が握っている自動拳銃のグリップ部分の長さを当て嵌めたのだ。
ダブルカアラムというものの存在は知らない。
綺麗な複列で9mmの筒が並んでいると仮定し、指の関節と掌の人差し指から小指までの距離を物差しにして、グリップの長さと太さを計測し、その間に収まる前後の数値が装弾数だと体が感じていた。
実際は彼女が握る拳銃はベレッタM92FSなのでダブルカアラムだ。装弾数は15発。13発という数字は当たらずしも遠からずだ。
深く握りこめない自動拳銃は発砲の度に大きく銃口が跳ねた。
乱射はしない。
背中の退路を確保するまで10発そこそこの弾で牽制しながら逃げなければならない。
左手で掴む男の体は重い。
左手の握力と腕力が限界だ。
男の左腋下から自動拳銃を握る腕を差し込み、その腕にも荷重を分散させているが、脱力した人間は想像以上に重い。
肩幅一ひろ分の歩幅で移動を繰り返すのが限度だった。
辻の角から上半身を覗かせて発砲してくる襲撃者に対してモグラ叩きのように発砲を繰り返すだけだが、全員を撃退するだけの決定打は求めていない。
禿頭の男の死体を歯を食いしばって掲げながら弾除けとしてゆるゆるとジグザグに移動を繰り返す。
その内に、出っ張った室外機や僅かな雨樋の張り出しが、連中からすれば大きな遮蔽物になっているのか、発砲されて飛来する銃弾が綾左とは関係のない場所に被弾するのがみえた。音で分かった。
銃弾の弾道がみえたのではない。
室外機や雨樋が直線状に来るポイントで、着弾点が大きくずれているのだ。
その僅かな、銃弾でも貫通できそうな部分でも標的がみえないと、相手は見当違いの場所に無駄弾を叩き込んでいるのだと気づく。
仮定13発。うち1発で1人の頭部に孔を開けた。5発を牽制で発砲した。残弾7発。
あと5m。あと5m後退すれば路地裏の曲がり角に飛び込める。
その場所は安全が約束された場所ではないが、猪のように前方しかみていない連中の死角に入ることができる、一時の安全地帯であった。……すぐに移動することが大前提だが。
仮定13発。
今し方3発を牽制で発砲。
うち1発が5人以下の襲撃者の誰かに命中したらしく、大きな罵声が聞こえた。
声の具合からして手か足に被弾したのだろう。戦力低下が見込めたので牽制としては大成功だ。
綾左は銃弾による確実で的確な一発必中一撃必殺よりも、1発で戦意を挫くだけの負傷を負わせればこちらにイニシアティブが移動する理屈を学んだ。
――――残り4発……
正確にはプラス2発で6発だ。
凄まじい速さで体力も気力も削がれていく。初めての鉄火場で弾倉を引き抜いて残弾確認孔を目視する余裕などない。弾倉を抜く方法を知らない。
退路まで2mの辺りまで死体を盾として引き摺りながら引き下がる。残弾の限りを撃ち尽くすつもりで、初めて自棄気味な乱射をした。
鼓膜に悪い轟音。
発砲のたびに聞こえる空薬莢が壁に当たる甲高い金属音が癪に障る。
視界の端で赤髪の三下がスローモーションで独楽のように突然回転する。
綾左は視ていた。
赤髪の三下は左肩を被弾した。
体が大きく反転したときに腹部辺りが血飛沫を上げ、水風船が爆ぜる光景すらスローモーションに見えた。
視神経と聴覚が連携していないのか銃声がやや遅れて聞こえる。
自分に覆いかぶさるようにして唇を貪っていた禿頭の男が体から離れる動作すら、スローモーション。
「いたぞ!」
「撃て! 殺せ!」
「女がいる!」
「そいつも殺せ!」
複数の男の声。その様子を綾左は視ていた。故に『自分は助からない』と。
普通にしていれば助からないだろう。
普通に怯えて命乞いをしても助からないだろう。
普通に逃げても最終的に助からないだろう。
その間も禿頭の男は襲撃者の方向を振り向きながら右手を左腋に差し込もうとする。
綾左はそのときに起こした自分の行動を信じるしかなかった。
そして自分の行動の不可解さを嘆く暇を除外した。
禿頭の男の左足の甲を踏みつけ、右肩をドンと強く押し、襲撃者の方向に禿頭の男の背中を晒す。
禿頭の男は自分が嵌められたと思い込んでいる眼光で綾左を睨んでいたが、その問いに対する答えを今すぐに律儀に答える暇はなかった。
何もかもが成り行きの末の取捨選択に、問いも答えもない。
綾左の右手が男の左脇に素早く忍び込み、拳銃を引き抜く。自動拳銃。
使い方は知らない。
安全装置の存在は知っている。
引き金を引く前に、後に名前を知る、スライドというものを引かねばならないのも知っている。
映画で観た主人公が持っていた拳銃と同じ。
人間が扱うようにデザインされたマテリアルだ。
片手で一通りの操作が行えるようにデザインされているに違いない。安全装置なるものも指が届く範囲に設置されているはずだ。
人が操作するものだ。後にスライドという名前を知る部分は人間の握力で操作できるように取り付けられているはずだ。
自動拳銃に対する素人の独自の見識が生体電流の速さで末端組織に命令を下す。
禿頭の男の右手が振り上げられる。
綾左を殴ろうと振りかぶったのだろう。
その拳を振り下ろす前に、黒く無骨なれど流麗なデザインの自動拳銃のスライドを引いて確実に、何かが何かと噛み合う音を掌で聞く。
同時に引き金が一段深く後退する。
安全装置は握った瞬間に判別できた。
スライドの後端近くに左右に取り付けられている安全装置と思しきもの、それを親指で押し下げる。
基礎的な身体能力だけでそれらを完了させたとき、禿頭の男の大きな体躯が小刻みに震える。
禿頭の男の短い呻き声が頭の上から聞こえる。
男は脱力して綾左に凭れかかる。
綾差は禿頭の男の襟首を左手で掴み、足腰を踏み縛ってその場に立つ。
男の体を遮蔽の一部としている……そして右手に構えた自動拳銃は禿頭の男の左腋から腕ごと突き出して発砲する。
重く硬く冷たい自動拳銃を初めて撃った感想は、反動が制御できない、だった。
初弾がラッキーパンチなのか、15m離れた辻の角から頭を出していた1人の頭部に命中して射入孔を拵え、そこから脳内の圧力で脳味噌を形成する組織が砕かれたものが噴出した。それに関しては別段、何の感想もなかった。敢えていうなら、反撃が遅ければ自分がああなっていた、くらいのものだ。
それにしても軽い引き金だった。
拳銃は素人には当らないという説は当て嵌まったが、引き金を引くのに指先に力が必要だという話を聞かないのは本当だと思った。
禿頭の男の体に顔を埋め気味に遮蔽にしているので、発砲音はかなり軽減されていた。
耳を劈く音ではあったが、聾するほどの大音声とは思えない。
左右の壁の幅が狭い路地裏でも、空に向かって遮るものがないのが鼓膜の負担が少ない理由の一つなのかもしれない。上空に音響が逃げたのだろう。
淡々と、自動拳銃の感想だけが心中に浮かぶ。
弾倉の弾が切れたときが自分の命の終わりだということも知っていた。
普通の神経をした人間なら、ここまでの自分の行動に、自棄が差して自動拳銃を乱射して僅かな弾幕を張っただけで終わるのが常だろうが、綾左は、太く広く長いグリップに飲み込まれている弾の数を13発と仮定した。
何故13発と定義したのかは解らない。
直感だ。
直感こそは当たり外れの多い判断ばかりであったが、彼女の体感から計算された感覚上の推測は殆ど合っている。装弾数13発の根拠……世に聞く9mm口径を直径9mmとして、自分が握っている自動拳銃のグリップ部分の長さを当て嵌めたのだ。
ダブルカアラムというものの存在は知らない。
綺麗な複列で9mmの筒が並んでいると仮定し、指の関節と掌の人差し指から小指までの距離を物差しにして、グリップの長さと太さを計測し、その間に収まる前後の数値が装弾数だと体が感じていた。
実際は彼女が握る拳銃はベレッタM92FSなのでダブルカアラムだ。装弾数は15発。13発という数字は当たらずしも遠からずだ。
深く握りこめない自動拳銃は発砲の度に大きく銃口が跳ねた。
乱射はしない。
背中の退路を確保するまで10発そこそこの弾で牽制しながら逃げなければならない。
左手で掴む男の体は重い。
左手の握力と腕力が限界だ。
男の左腋下から自動拳銃を握る腕を差し込み、その腕にも荷重を分散させているが、脱力した人間は想像以上に重い。
肩幅一ひろ分の歩幅で移動を繰り返すのが限度だった。
辻の角から上半身を覗かせて発砲してくる襲撃者に対してモグラ叩きのように発砲を繰り返すだけだが、全員を撃退するだけの決定打は求めていない。
禿頭の男の死体を歯を食いしばって掲げながら弾除けとしてゆるゆるとジグザグに移動を繰り返す。
その内に、出っ張った室外機や僅かな雨樋の張り出しが、連中からすれば大きな遮蔽物になっているのか、発砲されて飛来する銃弾が綾左とは関係のない場所に被弾するのがみえた。音で分かった。
銃弾の弾道がみえたのではない。
室外機や雨樋が直線状に来るポイントで、着弾点が大きくずれているのだ。
その僅かな、銃弾でも貫通できそうな部分でも標的がみえないと、相手は見当違いの場所に無駄弾を叩き込んでいるのだと気づく。
仮定13発。うち1発で1人の頭部に孔を開けた。5発を牽制で発砲した。残弾7発。
あと5m。あと5m後退すれば路地裏の曲がり角に飛び込める。
その場所は安全が約束された場所ではないが、猪のように前方しかみていない連中の死角に入ることができる、一時の安全地帯であった。……すぐに移動することが大前提だが。
仮定13発。
今し方3発を牽制で発砲。
うち1発が5人以下の襲撃者の誰かに命中したらしく、大きな罵声が聞こえた。
声の具合からして手か足に被弾したのだろう。戦力低下が見込めたので牽制としては大成功だ。
綾左は銃弾による確実で的確な一発必中一撃必殺よりも、1発で戦意を挫くだけの負傷を負わせればこちらにイニシアティブが移動する理屈を学んだ。
――――残り4発……
正確にはプラス2発で6発だ。
凄まじい速さで体力も気力も削がれていく。初めての鉄火場で弾倉を引き抜いて残弾確認孔を目視する余裕などない。弾倉を抜く方法を知らない。
退路まで2mの辺りまで死体を盾として引き摺りながら引き下がる。残弾の限りを撃ち尽くすつもりで、初めて自棄気味な乱射をした。
鼓膜に悪い轟音。
発砲のたびに聞こえる空薬莢が壁に当たる甲高い金属音が癪に障る。