租界の陰の金牛宮

 荒れた肌も、バランスのとれた食事と適度の運動と睡眠時間の管理とある程度のサプリメントで鍛え直せばたちまちの内にみちがえる美人が出現するはずなのに、彼女自身は俗世の美的センスは必要としていなかった。
 元はセミロングだったという黒髪も、今では背中の中ほどまでに伸び、整髪は何もしていないので鬱陶しいだけの髪は黒いシュシュでまとめられている。
 不健康にやつれた顔は、角度によっては出産と育児に疲れた主婦のような美しさを伴うやつれ具合にも見えるが、彼女は未婚だ。
 ゴミの山の中で、咥え煙草でパソコンのモニターを睨む美女になり損ねている女。それが情報屋・高市久野だ。
 綾左の昨夜の仕事も久野から情報を買い取って決行した。
 もっと詳しい情報が欲しかったが、久野が綾左の足元をみ過ぎて値段を吊り上げた結果、綾左は頭にきて、完全でない情報を頼りに倉庫に乗り込んだ。
 敵の数が不明の倉庫にドロップキックで華麗に登場した経緯はそれが原因だ。
 値段の交渉にしくじった綾左が悪いのだが、綾左としても久野を手放したくはない。
 金さえ出せば、交渉が巧くまとまれば、この上ない情報を提供してくれる存在だ。
 それにセキュリティやコンプライアンスやこの世界でのみ通用する社会通念も通用する。
 あらゆる勢力のダブルスパイの端末として働くことを拒否しているという意味では、情報屋界隈での一匹狼といえた。
 同じ一匹狼気質の綾左は彼女に何かしらのシンパシーを感じたのだろう。いつの間にか2人の距離は近くなっていた。
「それで……今日は何の用件?」
「仕事。何かない? 私も毎日働かないと食い扶持に困る身分なんでね」
 眠そうにマルボロの煙を大きく吐く久野に対し、嫌味を篭めた綾左の台詞が迎撃に向かうが、久野にはノーダメージだった。
 肩を竦めて綾左も口に銜えたままのゴロワーズ・レジェールの先端をフリント着火式ライターで炙って煙を吸い込む。
 喉に絡む、重みのある煙が質量を伴って肺に侵入していくのを感じる。
 黒煙草は総じて独特の甘味と濃厚な煙が売りものだ。
 生産国のフランスではゴロワーズと、同じく黒煙草のジタンといえば日本でいうところのセブンスターとメビウスと同じくらいにメジャーな煙草である。
 ニューヨーク市警のタフな刑事が占拠されたビルで孤軍奮闘する映画の中で「煙草からして連中はヨーロッパ人だ」という台詞があるが、このときにプロファイルのヒントにしていたのが黒煙草だった。
 重い煙が喉の奥から吹き上がり、口腔と鼻腔を通過して体外へ排出される。
 好きな煙草を好きなときに好きなだけ吸い込んで好きなだけ吐き出せる空間は貴重だ。自宅でさえベランダでゴロワーズ・レジェールを嗜む。
 無論、クライアントがホストの空間ではできる限り自重する。
 久野のマンションだけは全く意に介さずに喫煙できる貴重な空間といえる。
「食い扶持、ねぇ。仕事はあるわよ。でも暗殺目的のカチコミ専門で絞り込むと数は少ない。それに相場の金額じゃないわよ?」
「相場の金額じゃない?」
「危険なだけで安いのよ」
「あらあらあら。私の身の危険を心配してくれてるの? 痛み入ります」
 綾左は足元の確保が難しい床に座ることもできずに、仕方なく、彼女の体臭が染み付いたベッドに腰掛けた。
 7.55畳の部屋にはパソコンの乗ったテーブルとベッドと衣服が納まっている箪笥以外に何もない。
 もう一間あるが、そこには本棚があるだけで、特長的なものは何もない……否、本棚の部屋には足の踏み場もないくらいに書籍や雑誌が散乱している。
 主にITやプログラム関連が記された本ばかりで、既に読み終えたものだという。
 整理するのが面倒臭いだけで、この本棚の6畳の部屋も片付け甲斐がありそうだ。
 いずれの部屋にも押入れがあったが、内側から何かが突っ張っているのか、襖の表面が丸く歪んでいるので開ける勇気がない。
 そもそもこんなに歪んでいるとまともに開閉できるのか?
 2人分の煙草の煙で呼吸困難に似た不快感を覚える。
 この部屋にきていつも先に窓を開放するのは綾左の仕事だ。
 無残な台所へ行って油汚れがこびりついた換気扇を作動させるのも彼女の仕事だった。
 こんな生活力皆無の久野だが、意外にも綾差がアンダーグラウンドで最初に出会い、最初に懇意の仲になったのは彼女だった。
 綾左が高校を2年生で中退し、街中をうろついていたときに出会ったのが久野。
 彼女も高校を中退したばかりだった。
 だが、彼女はすでに情報屋見習いとして使いっ走りをさせられて、いつか独立するのだと息巻いていた。あの頃の久野はあどけなさの抜けない、女性からみても母性が擽られる魅力的な美少女だった。
 その当時の久野に一番狙い目の地下社会の仕事は何かと尋ねたら、常に人員不足のカチコミ屋だと返答がきた。
 非常に食指が動いたが、命の遣り取りを聞かされて断念した。……だが、路上の娼婦として生きようと決心したその日。そのときの最初の客と路地裏で商売を始めようとしたときに転機が訪れる。
 五十絡みの禿頭の、鰐よりも愛想のいい顔をした男と向かい合ってベッドなしの状態で体を重ねていた。
 服の上から体を弄られていたが、早くも不快感に吐き気を覚えていた。
 壁を背に、慣れない、ぎこちない娼婦の仕草。
 どこかの組事務所の庇護を受けているわけではないので、この辺りを仕切っている三下に出会うと面倒臭い。早く終わらせて早く金を貰って逃げたかった。
 唇を男の分厚い唇で吸いたてられる。
 目を硬く閉じて不快感と戦う。
 最初の客だからビギナー向けの優しい客が必ず現れるとは限らない。世は無常と痛感。向かいの壁の非合法薬物販売の隠語で埋められたチラシでも読んでいればすぐに終わるとでも思っていたが甘かった。
――――!
――――え?
 彼女なりの愛想で男に抱きついたが、男の左腋に拳銃が納まったショルダーホルスターが吊られているのに気がつく。
 人生で初めての実銃との邂逅だ。
 冬の寒い時期だ。
 分厚いジャケットを着ていても不思議ではないと思っていた。
 だが、その筋の人間が最初の客に当ったのだ。
 状況によっては三下に見つかるより危険。場合によってはこの男に囲ってもらう可能性も出てきた。
 頭の中で性的サービスの手順を計算する速度が鈍る。
 元から性的興奮を覚えていない彼女は冷静だった。
 18にも満たない彼女が脳内のあらゆる部署をマルチタスク化して計算する。
 様々な角度から、打算と希望的観測が入り混じった計算を行う。
 体と脳が解離せずに自分の命令を実行している感覚。
 遊離感を伴いながら解離感がない。
 精緻な時計の歯車が正確に確実に堅実に作動する感覚。その感覚が計算する領域は、この男との関係性から、この路地裏の幅や全長、邪魔なだけの出っ張った室外機にも及ぶ。
 綾左の衣服が捲り上げられ、男のグローブのような手が遠慮なくブラを押し上げる。
 豊かな張りを保つ限りなくEカップに近いDカップが仄かに甘い果実の香りとともに外気に晒され、ゼリーのように揺れる。
 それでも尚、冷たく計算する綾左。
 そんな綾左の耳に飛び込んできたのが外野の……この男の仲間と思われる若い三下然とした男の登場だった。
「何してんすか。もうすぐ車、出ちゃいますよ?」
 20代後半と思しきホスト崩れを髣髴とさせる赤髪の優男は、目上であろう禿頭の男の情事を無遠慮に邪魔して、ガムを噛みながらやってくる。
 ……綾左の興味はその青年にはない。その男とこの禿頭との関係性ではない。
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