租界の陰の金牛宮

 彼女も、彼女は、彼女ではあるが、それ以前に人間に分類される常識の範囲内の生物だ。
 落ち込みもするし泣き言を飲み込めないこともある。
 睡眠導入剤に頼った不本意な睡眠からの起床。
 そして腹立たしいほどに寝覚めがよい。
 倦怠感や頭痛といった副作用も現れない。市販の薬とはいえここまで理想的に効果が現れると逆に腹が立つ。……もっと早く、この薬を頼るべきだったと。
 オーバーサイズのトレーナーに薄い生地のスエット。
 ちぐはぐな組み合わせの寝巻きが汗ばむ季節。
 4月も終わりだ。今年も桜の花見には出かけられなかった。毎年、テレビで報道される桜の狂い咲きをみて軽く拗ねる。
 ベッドから下りると部屋着とあまり変わらない寝巻きのまま台所に立つ。
 4枚切りの食パン2枚にピザ用ケチャップを塗り、ピザ用チーズをトッピング。それにスライスしたピーマンとベーコンを疎らに散らしてオーブントースターにセット。
 焼きあがるまでの間にコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、それを飲みながらレタス中心の簡素なサラダを作る。彼女はドレッシングは掛けない派閥だ。
 スマートフォンで月額料金を払って購読している新聞を流し読みしながら即席ピザが焼けるのを待つ。ドリップコーヒーの香ばしい匂いが鼻腔を擽る。
 いつもの朝の風景。
 陰鬱な部屋で干し肉を齧る人間しかアンダーグラウンドにいないと思い込むのは早計だ。
 彼女のように表社会の市井に紛れ込むべく、善良な市民のライフスタイルを取り込む人間も多い。
 腹の虫を騒がせる食欲をそそる匂いが漂い始める。
 オーブントースターの即席ピザがもうすぐ完成する。
 朝からハイカロリー。昼食が正午に摂れるとは限らない。これだけの脂や炭水化物を摂取しても、体は正直なもので昼前後には腹が減る。正午を経過した時計をみただけで腹が減る。
 彼女はそれだけ若くて健常な人間だということだ。
 鉄火場で神経が昂ぶり、寝つきが悪くなっても、自律神経は完全には崩れていない。
 毎回、睡眠導入剤で眠っているわけではない。
 昨夜の倉庫での銃撃戦のように知力と体力と神経を同時に大量に消耗すると、眠気を覚えながらも欠伸だけで睡魔はやってこない。 
そんなときに素直に服薬するだけだ。
 綾左は寝酒という習慣を身につけたくなかった。軽い飲酒から始まって人の路を踏み外したアルコール中毒の症例をみたことがあるのだ。麻薬と同等に危険な嗜好品だと認識している。
「……」
――――いただきます。
 声には出さないが、心で大きく叫ぶ。
 両手を合わせて即席ピザにややこうべを垂れる。
 そして……黙々と即席ピザ中心の朝食を胃袋に収めていく。
 いつもの朝食。4枚切りのパンのサクサクとした食感にピザケチャップの風味が大きく乗りかかり、パンの甘味と絡み合う。
 一緒に齧った、とろけるチーズの僅かな塩味を引き締めるピーマンの苦味。歯応えのアクセントと同時に口中に襲いくるベーコンの脂で滑る塩分。
 それらが口の中で噛めば噛むほど混ざり合い、空腹を満足させるに足る味わいの迷路を形成。
 口の中が脂でしつこくなっても、レタスに胡瓜と大根をスライサーで削ったものをトッピングしたサラダを一口二口頬張り、しっかり噛み締めればあっという間に口内の脂分は洗い流されて再びピザトーストに挑戦する意欲が湧き出る。
 本来ならタバスコの利用を考える。ハイカロリーにハイカロリーで刺激を上乗せしても味は変わらないので綾左は多用しない。
 綾左自身が素材の味や完成品の魅力を覆い隠すソースやタレといった分類の風味を好まない人間なのだ。
 最初は単なる健康志向だったが、体調管理を視野に入れた生活を心掛けるようになると、自ずとそれらから手が遠のいた。
 それらには否定もしないし唾棄もしない。自分には合わないと思っただけだ。
 目前の料理そのものに何かをプラスアルファとする行為が料理そのもののスペックを低下させる気がするのだ……勿論、何かに頼らなければならないほどに不味い食餌に当ったときは涙を飲んで何かしらの助っ人を手に取り、蓋を開けるのだが。
 香ばしい、脂っぽく、塩気が足り、それでいて口を洗いながら食したピザトースト。
 最後に余韻を味わうように2杯目のコーヒーを飲む。
 粗挽きの深い焙煎がセールスポイントのコーヒーはその熱と液体という特性で口の中を席巻していたピザの香りを優しく包みながら胃袋へ流し込んでくれる。
 愛用の青いマグカップに注がれたコーヒーを飲み干す頃には、彼女はしばしの満足感に包まれていた。
   ※ ※ ※
 全てのアンダーグラウンドの住人が市井に混じって司直の手を逃れているとは断言できない。
 ここにくるたびに綾左はそれを思い知らされる。
 陰鬱な部屋。
 黴臭く空気が澱んでいる部屋。
 煙草の臭いと片づいていない台所の悪臭がこの空間を汚染し、潔癖症の人間の侵入を拒んでいる。
 缶ビールの空き缶やカップラーメンの空の器がちょっとしたうずたかい山を築いている様子は誰がみても生活力を感じさせない。
 ここの住人はきっと一般常識すらも持ち合わせていないに違いないという偏見すら植えつけそうだ。
 この部屋の住人は高市久野(たかいち ひさの)。
 綾左と同い年の情報屋だ。守銭奴だが意地汚い手段は講じないので有料の情報屋としてはまともな部類の人間だといえる。
 窓を開け放つだけで、異臭の殆どは抜けるはずなのにそれすらも惜しむほどの無頓着。
 清潔な環境を維持することに興味がない人物で、やや変人寄りな気質だ。
 2DKのマンションの一室。ここにくるたびに綾左は鼻が曲がる気分を思い知らされる。
 今更空気が汚れても何も動じない久野だろう。
 そう思って綾左も薄いベージュのジャケットの右外側ポケットから愛飲している煙草を取り出す。
 綾左の『相棒』はゴロワーズ・レジェール。フランスの黒煙草だ。
 何かと着香料で誤魔化した国産煙草とは一線を画すと思っている。使っている煙草葉自体が収穫してわざと腐らせたために独特の発酵臭を発し、色合いも黒味がかっている。
 無漂白紙を使用しているが、国産の煙草よりも僅かに燃焼が早いことから、煙草の巻紙自体にも燃焼促進剤が混入されていると思われる。
 ソフトパックのそれから手首のスナップで2、3本を迫り出させ、その内1本を銜えて引き抜く。
 火を点けなくとも、黒煙草の独特の甘く重い香りが飛ぶ。
 綾左の視線の先で、安っぽい使い捨てライターの静電着火装置が火花を散らす音が聞こえる。
「……生きてたの?」
「それはこちらの台詞よ」
 使い捨てライターの持ち主――高市久野――は着火させたそれを横銜えにしたマルボロに移す。3秒ほどマルボロの先端を炙りながら大きく吸い込む。
「お蔭さんで生きてるわよ。昨夜も一軒片付けたわ。ちょっと苦労したけどね」
 綾左は山積するゴミの向こうにいる人影に向かって話す。
 その人物の左手側にはデスクトップパソコンが置かれているだけの折り畳みテーブルがある。
 床に胡坐をかいて座り、緑のジャージの上下に身を包んだ女性が、マルボロを横銜えに、横柄に紫煙を吐き散らす。
 その女性が高市久野だ。
 磨けば光る原石の集合体。それを無残に見事に台なしにしているライフスタイルとファッションセンス。
 シルバーフレームの眼鏡の向こうにある瞳には精気がなく、眼の下の隈が彼女の魅力の半分を消し飛ばしている。
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