租界の陰の金牛宮
連中は負った擦過傷に怯え、女の銃口の前から逃げるように体を避けるのだが、彼女の眼光と銃口に脅されるだけで自然と、彼女の真正面に整えるように集められる。
前後左右斜めに、肩幅1歩分を1単位とした移動をやや摺り足気味に素早く繰り返しただけに過ぎない。
連中の放つ銃弾はことごとく左手の握力だけで持ち上げた男の死体に吸収される。
散弾銃で撃たれたような、水袋同然の男の腹部や胸部からどす黒い血液が流れ出る。
腹部に張りがあったときは噴出していた血液も、今は脂分を含んだ松脂のように流れ落ちるだけだ。銃弾は全て男の胴体で停止する。
ここに踏み込んで視線を走らせたときに悟っていた。
この場の男たちは誰一人とて、強力な火器を持っていないと。
回りくどい下調べをしない彼女の性分ゆえに、何ごとも、良くも悪くも、現場主義が身につき、踏み込んでから考えるのが常態化しているのだ。
命の安売りも甚だしい。
だが、ただの安売りではない。
彼女の生命にタイムセールはまだ訪れていない。
32口径から38口径といった、今一つ打撃力に欠ける銃火器しか揃っていないのも看破していた。マグナムや短機関銃や長物は皆無。
特別な訓練を受けた警護要員ではない。
再装填のロスは大きいだろうし、各自が連携をとって行動するとは考えられない。……ここにドロップキックで突入して3秒間も呆気に取られていたのが何よりの証拠だ。
そして今、揃いも揃って再装填。
そして今、彼女も再装填。
連中が予備弾倉やスピードローダーを引き摺り出している内に彼女の左手はコートの内側の後ろ腰に廻り、予備弾倉を引き抜く。
スライドは後退していない。エマージェンシーリロードではない。薬室に1発残した状態での再装填。
マガジンキャッチを押す。空弾倉が地面に落ちると同時に、男の死体も漸く死体らしく地面に倒れることを赦された。
8連発の空弾倉が床と衝突して軽く跳ねる。
遅い。
連中は、遅い。
速い。
彼女は、速い。
その場にいた男たちは凍りついた。
自分たちが知らぬ間に密集していることに今更気がつかされた。
互いの体が邪魔で手にした得物を構え直しにくい。
彼女の、冷たくも熱い銃口は彼らの慄く顔をサイトに捉えた。
銃声。低速回転の短機関銃を思わせる発砲。
連なる銃声。咳き込むフルオートを思わせる速射。
空薬莢が8個、中空を舞う。
次々に地面に衝突して無秩序に跳ねて転がる。
標的は1人。
他の連中には無力化させるだけの負傷を負わせればいい。
5人の被害者。
うち4人は警護。警護には1発ずつ腹部に9mmパラベラムを叩き込み苦痛で以て無力化。
標的の1人には心臓に2発と頭部に1発を丁寧に叩き込む。
正面に立つ男から順を追うように片づけていくさまはレストマシーンに固定された拳銃が無機質に引き金を引き、数m先のターゲットペーパーに淡々と孔を開けていくのに似た作業だった。
薄っすらと硝煙が纏わり付く女の自動拳銃。
タウルスPT-908。
ベレッタM92のデットコピーを製造しているブラジルのタウルスといえば有名だ。
彼女の手の中で、今宵の仕事を終えたタウルスPT-908もそのベレッタM92のデッドコピーの流れを汲んでいる。
外見こそは全長180mmまでカットダウンされたシングルカアラムのコンシールドピストルだ。
タウルス社のラインナップに疎い人間が見ると、ベレッタM92FSコンパクトLのフレームにSIGザウエルP220のスライドを搭載したキメラモデルにみえる。
角ばったスライドが印象的で小型ながらもマッシブなイメージ。
スライドにはベレッタM92のコピーにありがちな、大きな排莢口がない。
フレームの左右に取りつけられ、どちらの手でも操作できるセフティレバーはタウルス社なりのベレッタコピーとの差別化を図る工夫が凝らされた、伝統的セフティだった。
セフティを跳ね上げれば切り欠けと噛み合い、コック&ロックが可能なマニュアルセフティ。
押し下げればハンマーデコッキングと連動した動作をみせるセフティ。
状況に応じて使い分けができるという意味では本家のベレッタM92よりも有用だった。
メカニズムとしては他の大型タウルス製品の多数が採用している独立ロッキングラグを用いたロッキングシステムなのに対し、このモデルは珍しくティルトバレル式をロッキングシステムとした。
構造上の差異であって、厳密に命中精度や信頼性に貢献しているか否かは論議が分かれるところだ。
このロッキングシステムが計算値でも、実測でも、優秀な成績を収めているのなら、世界中の自動拳銃はこれに倣うだろう。今以て半自動給填の世界はカンブリア紀だ。
彼女はタウルスPT-908のセフティを押し下げ、ハンマーをデコックする。
一度は無碍に落とした空弾倉を拾い上げる。それをフィールドコートのポケットに捩じ込んできびすを返す。
自らが開けた壁の大きな穴から出ずに、律儀に鋼鉄のドアのドアノブを捻って外に出た。
※ ※ ※
加代綾左(かしろ あやさ)。28歳。表向きは無職。
その筋の職業でいうのなら……カチコミ屋。
一山幾らで売り買いされる助っ人ではなく、暗殺目的の殴りこみ屋だ。
荒事を生業にする暴力のレンタリース。
徒党は組まない。組めば足手まといが増える。
一人だから気軽にできる。
一人ではあるが独りではない。
この界隈に巣食う足元しかみない情報屋全部が、残念ながら彼女の味方だ。
金を払っているうちは味方でいてくれる。
金の切れ目が縁の切れ目であると同時に命の切れ目でもある。
一匹狼の、今時珍しい昔気質な殺し屋ともいえる。
狙撃だの毒殺だのといった、小難しい理屈が必要な手段を用いないだけで、アンダーグラウンドでは都合よく使い捨てにされる普通の殺し屋だった。
昔気質だろうと今風だろうとプロとしての仕事を全うしてくれればクライアントとしては文句はない。
決して儲かる職業ではない。
アンダーグラウンドでも表の世界でも楽な仕事はどこにもない。
大金が転がり込んでくる仕事ではあるが、大半は情報屋を裏切らない程度に飼い慣らす費用と、仕事道具の流通経路確保のための課金で消える。
生活水準でいえば手取り28万に届かない会社員と同じ金額がコンスタントに稼げるだけの職業。
ボーナスはない。
楽に完遂する依頼がたまに入るが、恐らくそれがボーナスに相当する代物だろう。
3LDKのハイツで毎月6万円を払っている。
近場にはコンビニやドラッグストア、スーパーが乱立して競争が激化しているので常に安売りで家計が助かる。
駅まで徒歩20分。主な機動力は原付バイク。中古で購入した薄汚れた原付バイクだが、どこで失っても惜しくはない、そんな下駄ばき感覚。
仕事には仕事用で非合法の解体屋が経営するヤードから不正登録の車輌を借りる。
「……」
午前7時。起床。
昨夜の鉄火場の興奮が沈静せずに市販の睡眠導入剤を頼った。
彼女としても服薬で眠るのは不本意だが仕方がない。
体を休めるのもプロの仕事のうちだ。
疲れも眠りも知らずに黙々と孤立して世界中を走り回る殺し屋など、綾左の知る範囲内ではフィクションの世界だけだ。
少なくとも彼女は眠って、食べて、休養しなければ心の切り替えもできない。
生理のときなどは、緩い鎮痛剤を服用せずに依頼を遂行するのは不可能だと思っている。
いくら鎮痛剤で抑えても仕事に粗が出て間抜けな負傷をする確率が高い。
前後左右斜めに、肩幅1歩分を1単位とした移動をやや摺り足気味に素早く繰り返しただけに過ぎない。
連中の放つ銃弾はことごとく左手の握力だけで持ち上げた男の死体に吸収される。
散弾銃で撃たれたような、水袋同然の男の腹部や胸部からどす黒い血液が流れ出る。
腹部に張りがあったときは噴出していた血液も、今は脂分を含んだ松脂のように流れ落ちるだけだ。銃弾は全て男の胴体で停止する。
ここに踏み込んで視線を走らせたときに悟っていた。
この場の男たちは誰一人とて、強力な火器を持っていないと。
回りくどい下調べをしない彼女の性分ゆえに、何ごとも、良くも悪くも、現場主義が身につき、踏み込んでから考えるのが常態化しているのだ。
命の安売りも甚だしい。
だが、ただの安売りではない。
彼女の生命にタイムセールはまだ訪れていない。
32口径から38口径といった、今一つ打撃力に欠ける銃火器しか揃っていないのも看破していた。マグナムや短機関銃や長物は皆無。
特別な訓練を受けた警護要員ではない。
再装填のロスは大きいだろうし、各自が連携をとって行動するとは考えられない。……ここにドロップキックで突入して3秒間も呆気に取られていたのが何よりの証拠だ。
そして今、揃いも揃って再装填。
そして今、彼女も再装填。
連中が予備弾倉やスピードローダーを引き摺り出している内に彼女の左手はコートの内側の後ろ腰に廻り、予備弾倉を引き抜く。
スライドは後退していない。エマージェンシーリロードではない。薬室に1発残した状態での再装填。
マガジンキャッチを押す。空弾倉が地面に落ちると同時に、男の死体も漸く死体らしく地面に倒れることを赦された。
8連発の空弾倉が床と衝突して軽く跳ねる。
遅い。
連中は、遅い。
速い。
彼女は、速い。
その場にいた男たちは凍りついた。
自分たちが知らぬ間に密集していることに今更気がつかされた。
互いの体が邪魔で手にした得物を構え直しにくい。
彼女の、冷たくも熱い銃口は彼らの慄く顔をサイトに捉えた。
銃声。低速回転の短機関銃を思わせる発砲。
連なる銃声。咳き込むフルオートを思わせる速射。
空薬莢が8個、中空を舞う。
次々に地面に衝突して無秩序に跳ねて転がる。
標的は1人。
他の連中には無力化させるだけの負傷を負わせればいい。
5人の被害者。
うち4人は警護。警護には1発ずつ腹部に9mmパラベラムを叩き込み苦痛で以て無力化。
標的の1人には心臓に2発と頭部に1発を丁寧に叩き込む。
正面に立つ男から順を追うように片づけていくさまはレストマシーンに固定された拳銃が無機質に引き金を引き、数m先のターゲットペーパーに淡々と孔を開けていくのに似た作業だった。
薄っすらと硝煙が纏わり付く女の自動拳銃。
タウルスPT-908。
ベレッタM92のデットコピーを製造しているブラジルのタウルスといえば有名だ。
彼女の手の中で、今宵の仕事を終えたタウルスPT-908もそのベレッタM92のデッドコピーの流れを汲んでいる。
外見こそは全長180mmまでカットダウンされたシングルカアラムのコンシールドピストルだ。
タウルス社のラインナップに疎い人間が見ると、ベレッタM92FSコンパクトLのフレームにSIGザウエルP220のスライドを搭載したキメラモデルにみえる。
角ばったスライドが印象的で小型ながらもマッシブなイメージ。
スライドにはベレッタM92のコピーにありがちな、大きな排莢口がない。
フレームの左右に取りつけられ、どちらの手でも操作できるセフティレバーはタウルス社なりのベレッタコピーとの差別化を図る工夫が凝らされた、伝統的セフティだった。
セフティを跳ね上げれば切り欠けと噛み合い、コック&ロックが可能なマニュアルセフティ。
押し下げればハンマーデコッキングと連動した動作をみせるセフティ。
状況に応じて使い分けができるという意味では本家のベレッタM92よりも有用だった。
メカニズムとしては他の大型タウルス製品の多数が採用している独立ロッキングラグを用いたロッキングシステムなのに対し、このモデルは珍しくティルトバレル式をロッキングシステムとした。
構造上の差異であって、厳密に命中精度や信頼性に貢献しているか否かは論議が分かれるところだ。
このロッキングシステムが計算値でも、実測でも、優秀な成績を収めているのなら、世界中の自動拳銃はこれに倣うだろう。今以て半自動給填の世界はカンブリア紀だ。
彼女はタウルスPT-908のセフティを押し下げ、ハンマーをデコックする。
一度は無碍に落とした空弾倉を拾い上げる。それをフィールドコートのポケットに捩じ込んできびすを返す。
自らが開けた壁の大きな穴から出ずに、律儀に鋼鉄のドアのドアノブを捻って外に出た。
※ ※ ※
加代綾左(かしろ あやさ)。28歳。表向きは無職。
その筋の職業でいうのなら……カチコミ屋。
一山幾らで売り買いされる助っ人ではなく、暗殺目的の殴りこみ屋だ。
荒事を生業にする暴力のレンタリース。
徒党は組まない。組めば足手まといが増える。
一人だから気軽にできる。
一人ではあるが独りではない。
この界隈に巣食う足元しかみない情報屋全部が、残念ながら彼女の味方だ。
金を払っているうちは味方でいてくれる。
金の切れ目が縁の切れ目であると同時に命の切れ目でもある。
一匹狼の、今時珍しい昔気質な殺し屋ともいえる。
狙撃だの毒殺だのといった、小難しい理屈が必要な手段を用いないだけで、アンダーグラウンドでは都合よく使い捨てにされる普通の殺し屋だった。
昔気質だろうと今風だろうとプロとしての仕事を全うしてくれればクライアントとしては文句はない。
決して儲かる職業ではない。
アンダーグラウンドでも表の世界でも楽な仕事はどこにもない。
大金が転がり込んでくる仕事ではあるが、大半は情報屋を裏切らない程度に飼い慣らす費用と、仕事道具の流通経路確保のための課金で消える。
生活水準でいえば手取り28万に届かない会社員と同じ金額がコンスタントに稼げるだけの職業。
ボーナスはない。
楽に完遂する依頼がたまに入るが、恐らくそれがボーナスに相当する代物だろう。
3LDKのハイツで毎月6万円を払っている。
近場にはコンビニやドラッグストア、スーパーが乱立して競争が激化しているので常に安売りで家計が助かる。
駅まで徒歩20分。主な機動力は原付バイク。中古で購入した薄汚れた原付バイクだが、どこで失っても惜しくはない、そんな下駄ばき感覚。
仕事には仕事用で非合法の解体屋が経営するヤードから不正登録の車輌を借りる。
「……」
午前7時。起床。
昨夜の鉄火場の興奮が沈静せずに市販の睡眠導入剤を頼った。
彼女としても服薬で眠るのは不本意だが仕方がない。
体を休めるのもプロの仕事のうちだ。
疲れも眠りも知らずに黙々と孤立して世界中を走り回る殺し屋など、綾左の知る範囲内ではフィクションの世界だけだ。
少なくとも彼女は眠って、食べて、休養しなければ心の切り替えもできない。
生理のときなどは、緩い鎮痛剤を服用せずに依頼を遂行するのは不可能だと思っている。
いくら鎮痛剤で抑えても仕事に粗が出て間抜けな負傷をする確率が高い。