租界の陰の金牛宮

 綾左は自分の感情の冷たさを呪った。
 心理的に感情の切り替えを頻繁に激しく切り替えられることによる心因的な感情の停止だと、理屈で考えることすらできない。
 それにこんな経験は人生で初めてだ。自分が殺してきた人間にもこれだけの終末のドラマがあったのかもしれない。
 無造作に殺した人間にも、殺される瞬間まで歴史が続いていた。
 綾左が無理矢理歴史を閉じさせただけなのだ。
 閉じた歴史を読み返さないだけなのだ。
 自分以外の人間に命の尊さをみせつけられるが、自分がなぜ、都合のいい情報屋にこんなにも感情を込めているのかそれが一番理解できなかった。本当に他人のために自分の稚拙さを恨んだ。
「……煙草……火、貰える?」
 久野が精一杯の笑顔でいう。
 綾左も笑顔でポケットフィールドコートを探って使い捨てライターを探す。
 その時だ。
 銃声。
 軽い小さな、しかし、この後の人生で二度と忘れられない銃声を聞く。
 手放していたコルト25オートを再び構えた久野。
 全力で腕を動かし、全力で握り、全力で引き金を引いた、懐中拳銃。
 その銃弾はライターを探すために身を屈ませていた綾左の左頬を掠った。
 綾左の背後……階段の折り返しに震える足で立ち、グロック17Lを構えた男の左肩に浅くめり込んだ。
「コノヤロー!」
 既に腹に2発の9mmパラベラムを被弾している男は精一杯の怒声と共にグロック17Lを構えなおすが、それよりも早く振り向いて左腋からタウルスPT-908を抜き放っていた綾左の敵ではなかった。
 綾左の渾身の1発は、男の顔面の真ん中に風穴を拵え、鼻血を噴出させながら白目を剥き、首を不自然な方向に折り曲げて息絶えた。
「……私……拳銃は……『フルロードしか』……しない主義なの……ね……」
 薬室に残されていた最後の25ACP。
 弾倉分は確かに発砲した。
 普通は懐中拳銃をフルロードで待機させないものだ。実に危なっかしい話だ。
 こんな錆の浮いた拳銃でそんな危ない運用をして、このように一大事な局面で全ての生命エネルギーを用いて発砲するには勿体なさすぎだ。
 少量の硝煙が纏いつくコルト25オートを右手から滑り落とした久野は、人を小馬鹿にした笑顔を、忘れられない笑顔を作ったまま息絶えた。
 友達と呼んだ女に末期の一服を吸わせてやれなかった記憶が綾左の心に刻み込まれる。


 この後、能面の顔で涙を流しながら彼女の下半身を剥き、回収すべき物――SDカードと携帯電話――を回収して夜陰に溶けるように姿を消す。

 希薄な感情だけで付き合っていると思い込んでいた大事な友達の屍を辱める行為を思い出しては何度も歯を食い縛った。

   ※ ※ ※
 
 セーフハウスを転々とし、今日、ようやく海外への渡航の準備が整った。
 この経路を安全に確保するために殆どの財力を費やした。

 SDカードは久野の携帯電話のアドレスにあったアドレス番号335番の人物に貸し金庫経由で手渡した。
 その人物とは最後まで名前をいわず顔も合わせずに、携帯電話に記されていたメールだけでコンタクトを取り、綾左自身もSDカードの中身をみることがなかった。
 久野のことだ。厳重なプロテクトでデータをソフト的に守っているのだろう。久野が少し本気になれば綾左では絶対に解除できない何かを仕込むのは始めから解っている。
 今となってはどのようなプロテクトだったのかも不明だ。
 何しろ、PCで読み込みさえしていない。
 あの夜の全ての傷は癒えたが、左頬を掠った25口径の擦過傷だけは何故か綺麗な一条の筋を描いて残った。
 今から考えれば、久野の拳銃の腕前も知らないし、あと数cmずれていたら致命的な負傷を負っていたのは綾左の方だ。
 思わず震えがくる。……そしてその震えに顔色を変える綾左をみてどこかで久野が腹を抱えて笑っている気がする。
 勿論、久野の遺体は既に荼毘に付された。
 彼女は物理的に存在しない。
 彼女に関連する人間の記憶の片隅で生きているのみだ。
 
 何故、あの夜に綾左はベストを尽くしたのか。命を賭けたのか。
  
 それが判明するのは人生の折り返しを過ぎた辺りのことだった。


 綾左は国際便のターミナルで、衆人環視の中で、こんなに混雑している人込みの中で、初めて本物の孤独なったと実感しながら禁煙パイプを銜えた。

《租界の陰の金牛宮・了》
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