租界の陰の金牛宮

 自棄をおこしてはいけない。自分を戒める。
 牽制の域を出ない発砲を散発的に繰り返す。
 車体下部やウインドの隙間を縫った発砲。
 それも発砲できれば幸いだ。頭を出せばタウルスPT-908の銃口とは違う方向から9mmが飛来する。
 決定的な、大きな隙が欲しい。
 そろそろ近隣の住人も睡眠妨害で目を覚ましだした。
 とばっちりと流れ弾を恐れて顔こそ出さないが、警察に通報されているだろう。
 駆けつける警官が昨今の腰抜けと同様に銃撃戦が落ち着いてから登場する腑抜けであることを願う。
 隙。大きな隙が欲しい。
 連中は隙を誘う。
 わざと自分たちの銃撃を時折止ませ、綾左が頭を出す機会を与えている。
 その隙に頭を出したところを銃撃されて、先程から何も進展していないのだ。
 時間だけが恐ろしく速く長く過ぎていく。
 愛用のタグホイヤーの秒針は数十秒しか経過していないことを持ち主に報せているが、持ち主たる綾左が認識していないのだから時計としての用を足していない。
 被弾を覚悟して退路に転進することを強いられる。
 恐らく連中の連携振りからすると、退路に進ませるのも作戦のうちだろう。
 打って出ても退いても無傷ではすまない。致命的な被弾の確率が非常に高い。
 呼吸が荒くなる。喉が渇く。ニコチンへの渇望が一段と強くなる。現実から解離する自分をみている錯覚に陥る。
 さらに遠くなる聴覚。
 視界が狭い……視野狭窄を起す。
 状況を把握するための頭脳のマルチタスク化が困難になる。
 銃声が近いのに遠く、鼓動と脈拍と呼吸と筋肉のうねりが五月蝿い。
 絶対の10m。
 絶対に近寄らせてはいけないと目測で仕切りを付けていた半径10m以内に連中が踏み込んだ。
 あれだけの手練からすれば10mなど至近距離だ。
 自分のものでない空薬莢が転がる音が聞こえる。
 銃声も聞こえる。足音も聞こえる気がする。グロック17Lを使う男の呼吸や体臭も感じられるのではないかと肌が尖る。
 久野に対する、命懸けの救出劇を展開している自分の思考すら疑い始めた。
 9mmパラベラムと比較するのもおこがましい銃声が遠く、遠くに、遥か遠くに、聞こえる。
 実際はもっと近いのだろう。
 緊張の頂点付近で思考が停止している綾左の耳では、その銃声を聞き取ることができたのは天佑だった。
――――!
 撃て、と誰かが叫んだ。
 撃てと誰かが叫ぶのと同じ速さで綾左は撃った。
 何故なら、小さな銃撃が、全く非力な銃声が、ゆっくり連なって聞こえたのと同時に放たれた2人組の銃声は明らかに……綾左が潜む方向とは明後日の方向に向いていたからだ。
 予想外の小さな銃声に2人は反応を過敏にみせて綾左から銃口を正反対に逸らした。
 咄嗟。発作的。平伏解除。
 立ち上がり、腰を落とし、アソセレス、フィストグリップ、ダブルタップ、2回……弾き出される合計4個の空薬莢。
 空薬莢が地面に激突して跳ねるまでに片がつく。
 暗がり。夜陰。街灯の灯りが及ばない世界。
 その世界の中で、硝煙を銃口から立ち昇らせるグロック17Lを両手で保持した男はそれぞれ、脇腹に9mmのジャケッテッドホローポイントを2発ずつ叩き込まれ、脱力するように足下から地面に崩れる。
 2人の表情は明らかな自分たちの失策に対する悔悟に染められていた。
 小さな銃声に助けられた。
 小さな銃声に奪われた。
 転機となった小さな銃声を発した主はアパートの2階廊下で倒れる。
「……」
 茫然とした顔の綾左。
 自分でも何が起きたのか理解していない顔。
 撃ち殺されると思ったら、連中は揃いも揃って全く明後日の方向に銃口を向けて発砲していた。
 その無防備な横腹に向けて引き金を引いただけだ……引けと乖離した自分に命令されただけだ。
 体が覚えた癖でタウルスPT-908にセフティを掛ける。コック&ロックの状態で待機。
 無力化されたグロック17Lを使う2人組には一瞥をくれただけで、走り出す。
 安普請のアパートの階段を駆け上がる。
「! ……久野!」
 廊下で倒れている久野。
 彼女の両手は後ろ手に結束バンドで縛られている。
 その右手には、危険極まりないコルト25オートが握られている。
 返事のない彼女を見守るように転がる6個の小さな空薬莢。
 血の池はどんどん大きくなる。
 眼鏡は掛けていない。
 顔面が赤く腫れて鼻血を流している。
 眼鏡のレンズで負傷したのか眉間に切り傷がある。
 右足ふくらはぎからも出血がみられる。
 肉体的苦痛を与えられていた最中に綾左がやってきたのだと想像に難くない。
 不自由な両手と負傷した右足――拳銃弾による貫通創――を引き摺って殆ど唯一である、彼女の物理的暴力である懐中拳銃で綾左に加勢したのだ。
 久野は自分が大きな戦力になるとは思っていなかったのだろう。
 最初から、廊下の床面に向かって25口径を乱射した。浅い弾痕が床に見える。
「や……やあ……首尾はどうか……な?」
 消えそうに震える久野の声。アーミーナイフのハサミで結束バンドを切断する。
 久野の胸部真ん中に盲管銃創。
 体内に銃弾が残っている。その孔からコルク栓を抜いたように血液が流れ出す。
 まだ心臓は健在だが、心臓から伸びる太い動脈が負傷している可能性が高い。
 タウルスPT-908をショルダーホルスターに突っ込んで、急いで携帯電話を取り出す。
 玉のような脂汗を額にびっしりと浮かべる久野をここで死なせるわけにはいかない。
 自身のためにも、久野のためにも、この界隈の安寧のためにも。
 力無く横たわる久野がいつものジャージのポケットからマルボロを取り出して震える指先で1本銜える。
 火を点けずに霞が掛かるような瞳孔で綾左に語りかけるが、彼女の目に綾左の姿が写っているのか疑問だ。
 顔色が土気色を帯び始める。
 久野はどこか遠くをみるように語り出す。
 綾左に語っているつもりだろうが、綾左には彼女の生気を失いつつある顔色の方が最大の関心事だった。
「私の……話が済んだら……救急車でもなんでも呼んでよ…………私のアソコの中に……ピンク色のオモチャを改造した……カプセルが……入ってる」
 久野は綾左の携帯電話をプッシュする手を握りながらいう。
 綾左は勿論、堅気の医者なんか呼んでいない。
 金次第で何とでもなり、何とでもいえる腕利きの闇医者をアドレスから検索していたのだ。その最中に久野が語っている。
「その……カプセルの中……マイクロSDカードが……入ってるわ……この街一帯の……大物の不正……表に出せない……公開されると……ヤバイ……」
 久野の言動が短い文節で区切られていく。
 綾左はその言葉を聴きながら『闇医者を今すぐ運んでこいと運び屋に連絡した』。
「そのカードを……私の……携帯電話の……335番目に登録し……ている……女……に、渡して……それで……『今夜のことは……なかった……ことになる』……綾左に飛び火……しない……」
 綾左はそれらの文言を耳に留めながらフィールドコートを脱ぎ、久野に覆い被せる。
 ハンドタオルで被弾した傷を押さえる。ハンドタオルがみるみるうちに赤くなる。
「馬鹿! 勝手に死なないで! ここまできて只働きなんていやよ! 絶対助ける! 永い友達のいうことも聞けないの?」
 思わず声を張り上げる綾左。
 『友達』と初めて声に出した人物が息絶えようとしている。
 涙も何も出ない。そもそも人間の最期はこんなにも渇いたものなのだろうか?
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