租界の陰の金牛宮

 歩調を落とす。
「……」
――――煙草……。
――――この臭い……。
――――それに……。
 更に歩調を落とす。
 耳を研ぎ澄ます。
 自分の心臓の音が五月蝿いほどの世界に紛れ込む。
 複数の呼吸。砂利粒を踏む靴の音も複数。ただの路上。街灯の向こうに浮かぶ四辻の角に誰かがいる。警戒もしていない。その証拠に煙草を吹かしている。そして滑りを想像させる油の臭い。……ガンオイル。
 その四辻を左に曲がれば久野の部屋が入るアパートだ。
 アパートを緩く包囲している勢力がいる。
 正体不明の勢力は総数も不明。練度が低いのは確かだ。プロ意識に欠ける。小声で会話を交わす中に殺した笑い声が混じる。銃を持たされているだけの三下だろう。
 四辻の角にくると、足元の高さからコンパクトのミラーを突き出して角の向こうの情報を目視で確認する。
――――4人。
――――みえる範囲で……4人。
――――その程度なら久野はSOSなんか送らない。
――――もっと差し迫っている……部屋の中に踏み込まれているのか……?
――――久野が危険だと認識している、頭のおかしい腕利きがいるのか?
 久野の築15年ほどのアパートの部屋の前に、黒塗りの個性のないセダンが2台停まっていた。
 とにかく黒い車体で銀色のホイールと銀色のアクセサリーだけで縁取っただけの、判を押したようなトヨタカローラ。小金を稼いだ三下が背伸びして中古車を買って、無理に大金を叩いて飾ったような安い風貌のカローラ。貧困なセンスに彩られた車体が可哀想だ。
 連中はジャケットやスーツやサマージャンパーを着ていたがいずれも脇や腰の一部分が不自然に膨らんでいる。
――――4人。久野の部屋にも何人かいるのかな?
――――! ……向こうに……あれも仲間か?
 さらに夜陰の中に煙草の火種が赤く燃えているのを確認する。
 その数を含めると最低でも2人追加だ。
 視界に入るだけで合計6人。
 久野のアパートに視線を向ける。2階建ての小さな安普請だ。
 大勢の人間が一斉に乗り込めば混乱は必至。
 必ず、人数を捌く、陣頭指揮を執る幹部クラスがいるはずだ。
 三下連中がハジキを持たされて、現場で指揮なしで連携した行動が取れるとは考えられない。
 この場の勢力の幹部クラス。若しくはこの場を任せられたアンダーグラウンドの助っ人。
 理屈で考えると後者の可能性が高い。
 不可侵条約が締結されている聖域をぶち壊す行為を率先して行う勢力がいる。自分から火種を撒き散らす行為は自殺行為だ。それを厭わない連中がいる。
 助っ人を雇ったと考えるのが普通だろう。
 三下連中は勢力の末端組織から借りてきた使い捨てで、殆ど何も知らされていない連中の可能性が高い。口を割らせるのは無理だろう。
 怪しい奴は撃ち殺せ、程度の命令しか受けていないと思われる。
 会話に喫煙。警戒心の無い挙動。プロの所作ではない。数を揃えただけの人夫扱いだ。
 連中が久野のアパートの前でたむろする理由を考察。
 久野に用件がある。久野を連れ出したい。久野を連行して然るべき場所に押し込めたい。久野が各勢力に作り作らせた不可侵条約を破ってでも拉致したい理由がある。目的は久野。綾左ではない。
「……」
――――動きがない?
 久野の部屋に目を向けるが、電灯は点いていない。
 騒ぎ立てる雑音すら聞こえない。
 辺りを警戒するはずの三下連中の気分の緩み具合から、綾左へのSOSや到着は一切知られていないらしい。
 手をこまねき、指を銜えているうちに久野が室内で頭を吹き飛ばされている可能性を危険視した綾左は自分から打って出るべくタウルスPT-908をゆっくり抜く。
 片膝立ちの低い位置。ややウイーバースタンス気味。左腕を辻の角に添えて仮固定。サイトの蓄光ホワイトドットを頼りに照準を定める。
 棒立ちの男と思しきシルエットの1つを先途の餌食とする。
 確実に仕留めるために街灯に近い人影を狙う。
 セフティ解除。
 呼吸を吸い込み止める。
 深夜の冷たい空気が肺に流れ込み、心地良い。
 次の呼吸を求めるまでに引き金を冷静に引く。
 夜の寂しく静かで暗い空気を叩き壊す銃声。
 弾き出される空薬莢の転がる音を聞く間もなく、初弾の被害者の隣でいた、銜え煙草の人影に照準を振り、軽い引き金を引く。いつもながらの軽快な作動。軽快な発砲。しかし、与える打撃は15m先の人間を1発で黙らせるのに充分だった。
 泡を喰らう三下連中。
 2人の仲間が狙撃され、地面に沈むのを呆気に取られてみていたが、我に返り、懐や腰に手を伸ばす。……が、遅い。
 綾左は2発、発砲し、2人を無力化させる。即死には到らない。
 苦痛を無視するための、肉体的精神的な高度な訓練を積んでいるとは思えない三下連中はそれだけでパニックの坩堝に叩き落される。
 それまで影が深くてみえなかったその他大勢がその場からトリガーハッピーに発砲してくれるので、より正確な人数が掴めた。
 合計で6つの銃火。
 牽制程度に4発発砲した後、薬室が空になる前に空弾倉を交換。
 吶喊。
 心の中で一気呵成の雄叫び。
 2発の牽制の後にますます大きくなる人影の集団に飛び込む。
 連中は既に銃を抜いている。コッキングの音が聞こえた。罵声も混じる。
 この集団の中央に躍り出るまでに左太腿や左上腕部に鞭で打たれたような痛みが走る。被弾というほど大した負傷ではない。ただの擦過傷だ。
 耳朶を銃弾が掠ったときは流石に胆を冷やされたが、その危険を冒すだけの価値はあった。
 連中からすれば街灯の向こうから、低い姿勢で走りながら発砲する人影を視認して、慌てて拳銃を抜いたが気がつけばその人影は瞬時に、大きく、人の頭ほども飛び上がり自分たちがたむろするど真ん中に降り立ったのだ。
 即座に銃口を向けるが、それぞれの銃口の先には自分たちの味方が立っていて流れ弾で負傷させる危険性があった。
 味方の銃口とはいえ、その流れ弾を喰らうのは御免蒙りたい。
 フィールドコートを靡かせた人物に銃口を先に向けていながら、全くイニシアティブを活かしていない。
「!」
――――遅い!
 半径6m以内に合計6人の人影を視認。
 表情までは解らない。自分に殺意を向けている。その代弁者たる手にした銃口が、いずれも綾左を向いている。同士討ちの発生を恐れ、発砲できない心理的足枷が働いて引き金に命令を下すのが遅い。
 瞬き3回分もロスを作っている三下連中の心の準備に付き合ってやる必要はない。
 集団の真ん中に降り立った綾左は、膝のクッションを利かせて着地を和らげる。
 大きく伏せるようにしゃがみ込む。
 自分の体重から発生するエネルギーを緩和させるために、下肢のバネが働いているのだ。その間に上体と首から上に具わったセンサーは正確に働く。
 具体的かつ直接的最大の脅威を、目を振って検索と視認。
 死角は聴覚で情報を拾う。
 自分や連中が一発でも発砲すれば耳が聾するほどに研ぎ澄まされる鼓膜。
 瞬き4回目で連中は漸く発砲した。
 だが、綾左は遮蔽のない見通しのよい道路の真ん中で、極端な左半身を保持し、自分の胸にタウルスPT-908のスライドを押し当てるようにフィストグリットプで構え、足運と重心移動を繰り返しながら発砲する。
 勿論、最初に打ち倒されたのは、目が具体的かつ直接的最大の脅威と認識した標的からだ。
 2発目からは自分と連中の銃声で、聴覚による情報収集は不可能。
 最初に視覚で補足した順に9mmパラベラムを叩き込む。
 左手側の前方にいる標的が、今、撃ち倒される標的だ。
13/16ページ
スキ