租界の陰の金牛宮

 ベッドから転げ落ちる。
 彼女からすれば転げ落ちたのではなく、飛び降りたつもりなのだが。
 急いで寝巻き扱いのスエットパンツとジャージを脱ぐ。
 クローゼットに吊り下げていたズボン――既にベルトには予備弾倉のポーチとダンプポーチが通されている――を穿き、深夜の寒気にも耐えられる厚手の生地のシャツを着る。
 寝室を右往左往してあらゆる抽斗や棚から予備弾倉を1本ずつ取り出し、予備弾倉ポーチに差し込む。
 ショルダーホルスターに腕を通し、ホルスターをズボンと連結させるサスペンダーを固定させると、腰でブラブラと揺れる予備弾倉ポーチがある程度固定される。
 最後に、今し方寝ていたベッドに近付き、無造作に枕をどけてその下に敷いてあったタウルスPT-908を手に取り、弾倉を引き抜く。弾倉と薬室を確認するとタウルスPT-908をショルダーホルスターの左脇に差す。
 常にスタンバイできている予備弾倉を部屋の各所に置いておくメリットは、住居内に篭城した際、室内ならばどこでも弾薬の補給ができるようにするためだ。無論、デメリットもそれなりに存在する。今回のように少ない動作でスタンバイ中の弾倉をまとめて回収できないことだろう。
 綾左は弾倉のバネのへタリを防ぐために、手持ちの全ての弾倉に最大数の弾を詰めてはいない。常に予備の予備として温存している未使用の弾倉の方が多い。
 返り血で汚れた仕事着のフィールドコートに袖を通し、身支度を整えると寝室を駆けて出る。
 ……が、再び戻り、ベッドサイドのテーブルから開封したゴロワーズ・レジェールと未開封のソフトパック2個をフィールドコートのポケットに押し込む。
――――『起きてる? 今すぐきて。煙草は買わなくても良いからすぐにきて』ですって!?
――――久野に『何か』あったわね!
 文面を思い返す。明らかに非常事態だ。
 前々から打ち合わせをしておいた文面そのものだ。
 書き出しが疑問符だと久野に、感嘆符だと綾左に身に迫る危険や異常が発生した事を報せ、『煙草を買う』場合は速やかな移動を、『煙草を買わない』場合は留まれとの暗号だ。すなわち、『久野に留まらなければならない非常事態』が発生したことになる。
 その文面から得られるのは、篭城を強いられている久野の姿だ。
 暗号を交えたメールを打電した辺りを察するに、同業者――情報屋界隈――から情報をリークされて久野がピンチに陥ったと思われる。その上で自宅周辺を囲まれているのだろう。
 速やかに逃げることもできない状況。
 あらゆる勢力が不可侵条約を結んだはずの安全地帯である、あのゴミだけの部屋が危険に陥るとすれば、確かに非常事態だ。
 ああ見えて久野は常に安心安全の上に胡坐をかいていない。
 具体的な火力武力を持ち合わせない久野は情報網を監視して先手を打つことで自分を守ってきた。
 そして万が一の、最後の保険として綾左と久闊を取らないように仕事の依頼や情報で以って繋がりを強調してきた。
 実に狡猾で打算的な思考だが、感情を交えずにロジカルに綾左に久野の重要性を訴える手腕は確かなものだ。綾左も久野を失うのは非常に痛い。彼女ほどの都合のいい情報屋はそう簡単に見つからないだろう。この業界は情報の鮮度が銃弾を制する威力を発揮する。
 綾左は自分にいい聞かせる……否、いう。
 久野を失えば食い扶持を失う、と。
 ただそれだけ。
 それだけだ。
 彼女の電脳情報が欲しいから彼女の元に駆けつけるだけだ。
 狭い部屋で窮する彼女を救い出し、恩を売り、今後の交渉をスムーズに進めるためだ。
 暗号のメール。
 久野の身柄が取り押さえられたわけではなさそうだ。
 踏み込まれるのは時間の問題で、送受信の履歴から久野と綾左の挙動が悟られないようにするための暗号だと分かった。
 以前、久野の部屋で中古品のコルト25オートをみかけたが、やや錆が浮いており、手入れもされていないのが明らかだった。
 あの銃を頼るとなると久野が本当に危ない。暴発で大怪我をしてしまう可能性の方が高い。
 一番コンディションのいい運動靴を履きながら、不安や苛立ちを整えるべくゴロワーズ・レジェールに助けを求める。
 渇き気味の唇に1本銜え、駐車場に向かいながら火を点ける。
 味わう活力。活力を味わう。
 自分の飯の種に危機が迫っているのに鏡の前で眉を書いている暇はない。好きな色のルージュを引いている暇はない。フレグランスで黒煙草の臭いを誤魔化している暇はない。
 駐車場に向かい、不正登録でない、自分で購入した中古車の日産ラシーンに体を滑り込ませる。
 車内で左手首に巻いたタグホイヤーに視線を落とす。
 光源が乏しいので使い捨てライターを着火させてその灯りで時刻を確認。
 午前2時22分を15秒ほど経過したことを正確に告げていた。
 キーを捻ってエンジンを叩き起こす。
 自分の世間向きの姿を韜晦するためだけに買った自動車だ。
 この件が済んだらできるだけ早く盗難扱いにしてヤードで解体してもらう必要がある。
 根元まで灰燼に帰して、フィルターが焼けたゴロワーズ・レジェールを携帯灰皿に押し込む。ハンドルを握り、ギアを入れる。
 走りながら、全くの手探りの怖さと戦っていた。
 今までの仕事なら有料でも久野が情報を集めて提供してくれた。
 見取り図、人員、火力、配置、標的。
 だが、今回はSOSの暗号メールのみで、掻い摘んだ部分しか解らない。
 暗号メール自体を疑うことも考えた。
 暗号メールの存在を知る者が綾左を誘き出すために久野を脅して暗号を打たせたとも考えられる。
 考えれば考えるほど思考の深みに嵌っていく。
 マーブル模様の脳内を整理させるために、またもゴロワーズ・レジェールを銜えて車内のシガーライターで火を点ける。
 久野の家まで車で10分。
 敢えて国道を使わずに一般道を使う。
 颯爽と駆けつける援軍たる綾左が、最短距離を通るのなら国道を利用する。
 その出入り口付近で前方と後方を挟まれたら、ドライビングテクニックに特筆すべきものがない綾左は苦戦させられる。少なくとも綾左が襲撃犯のリーダーで増援を警戒しているのなら『太い道』に手勢を配置する。尤も、現実に久野を射程に捕らえた襲撃犯が単独なのか集団なのかも不明だ。
 久野の家まで3分という場所でラシーンを停め、降車して徒歩で目指す。
 早足。
 嫌な予感しかしない。
 雑多な住宅地。
 寝静まった時間。
 昼間なら子供が行き交い、自転車が往来し、井戸端会議が普通にみられるであろうロケーションも深夜2時半過ぎだと流石に静かだ。静寂が席巻する世界となる。遠くのパトカーや救急車のサイレンがその静間を時折、破壊する。
 等間隔の街灯がその仕事を果たしているのにも関わらずに、どこか物憂げで悲しく存在をアピール。
 人気がないからこそのメランコリックな印象なのだろう。
 児童公園の遊具もこんなに暗いと児童向けの遊具にはみえない。ジャングルジムなど何かの猛獣を押し込める檻を連想させる。
 何本目かのゴロワーズ・レジェールを携帯灰皿に押し込み、それを左内ポケットに直す。左脇に手を伸ばし、タウルスPT-908のグリップを握る。未だ抜かない。
 親指をセフティに掛けてゆっくり撃鉄を起す。
 コック&ロックで待機。
 街灯のお陰でこの暗い中でも様々な陰影が浮かび上がってみえるので助かる。
 微風。
 僅かな風が僅かな煙草の臭いを運ぶ。
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