租界の陰の金牛宮

 熱く焼けた針金を押し当てられているような鋭い痛みを堪えながら現場を後にする。
 頼りない光源が等間隔で並ぶ廊下をひっそりと歩く。
 その紫煙を漂わせる後ろ姿がテナントビルの正面玄関から出て夜陰に紛れるまで続く。
 カチコミ屋は、結局はみた目が華々しいだけの、寂しく報われない職業だ。
  ※ ※ ※
 タウルスPT-908。
 路上娼婦の卵だった頃に初めて握ったベレッタM92FSを基準に様々な拳銃を渡り歩いた。
 15連発のダブルカアラムマガジンを呑み込むグリップは太くて自分の掌では握りこみ難かった。シングルカアラムの自動拳銃を模索したが最初の鉄火場で覚えた各レバー類のインプレッションが忘れられず、ベレッタの大型拳銃に回帰するが、今度は長いスライドに難儀した。カタログでみるよりも想像以上に……1cmは長い。10g以上の重さは重い。
 一時はベレッタM84Fに落ち着きそうだった。カチコミの最中の軽快な取り回しの良さは大変気に入っていたが、9mmショートの停止力不足はいかんともし難く、9mmパラベラムを使う8連発のベレッタM92FSタイプMを握って現場に挑んだ。
 暫くはベレッタM92FSタイプMに異存はなかった。
 シングルカアラムマガジンで握りやすく、全長も20cm以下ですぐにハンマーを安全位置にできるハンマーデコッキング連動セフティも搭載し、9mmパラベラムの火力も文句なしだった。
 だが、歯牙にも掛けなかったタウルスのベレッターコピーの真骨頂はハンマーデコッキングとコック&ロックが状況で選択できるセフティを搭載していることを知った。綾左は早速、シングルカアラムマガジンで全長ができるだけ短いモデルをタウルスのカタログから探した。
 その結果、タウルスPT-908に到る。
 全長18cm。
 大部分のメカニズムはベレッタのコピー。
 レバー類の操作にも違和感はない。単価的に安い弾倉やパーツ。命中精度は中の上程度だが、至近距離から9mmパラベラムを撒き散らすのがメインなのでその程度の命中精度で充分。
 押さえるべきポイントを押さえてコピーされた製品が元祖なので、土壇場での信頼性は高い。
 いまだに致命的なジャムは経験していない。
 ベレッタM92を始めとする大きな排莢口がないので最初は心配だったが、弾薬の相性を間違えなければ問題はないのだと理解した。
 取り回しやすく、軽量。それでいてハイパワー。それにプラスしてヨーロッパを転戦して修行した技術。足りない部分は親から授かった身体能力と持ち前の天稟でカバー。
 どこの鉄火場でもすぐに拵えた死体を遮蔽兼防弾板とする発想に対して即座に対抗できる連中は少なかった。
 僅かな隙から耳朶や頚部を掠る銃弾を叩き込んでくる腕利きもいたが、冷静に沈黙させる優先順位を立てて排除すれば大きな問題には発展しなかった。
 自動小銃や散弾銃、徹甲弾を装填したマグナムリボルバーとも戦った。
 流石に死体を利用した遮蔽兼防弾板は通用しないので、恥じも外聞も捨てて頭を抱えて床にうつ伏せに寝そべり、リロードの隙を窺いながら散発的な牽制の中に狙撃を織り込んで抵抗するしかなかった。
 冬の東欧の石畳の冷たさは今でも忘れられない。
 今でも、使い捨てカイロがあればもっと活力が湧いたのに、と悔いる。
 今後も何かの宗旨替えでタウルスPT-908を手放すこともあるだろう。だが、次もタウルスの製品を使いたいと考えている。
「……まだ使える、わね……」
 片目を閉じ、分解したタウルスPT-908の銃身を前後から交互に覗き込む。
 定期的な通常分解でのメンテナンス中だ。
 昼間は心地良い春風が感じられる。その時間帯に窓を全て開け放ち、台所の換気扇も稼働させて、バス、トイレも解放して徹底的に換気しながらのフィールドストリッピング。
 クリーニングリキッドから揮発する気体は人体に有害で引火性だ。換気には注意するし、分解中は煙草は吸わない。
 スライドレールに薄くグリスを吹き付ける。
 可動部位にも適量のグリスを注す。
 元通りに組み直すと全ての動作を実弾を使わずに行う。
 撃芯の打撃力を測る、専門のダミーカートでも試す。
 愛銃タウルスPT-908には殆どカスタムを施していない。自分の掌にカスタマイズした拳銃に慣れると、その拳銃を失った場合、代替の銃で即応できる自信がないからだ。
 同じ拳銃でもグリップのチェッカリングパターンが違うだけで違和感に悩まされ、本来の実力が発揮できない場合も多々ある。
 サイトなどもそうだ。目視で照準を行う重要な部位なので自分の目に合わせてカラードットをサイトに打ち込むと、その色彩に慣れてしまい、同じ形状のサイトでもカラーリングが違うだけで命中精度が低下することもある。慣れてしまえば何ということもない。だが、慣れるまで仕事をしないわけにはいかない。
 充分に習熟するまで敵は待ってくれない。
 依頼人からすれば注文のハードルを引き下げてはくれない。
 確実な仕事を提供するためにも、普段からスッピンの相棒に愛情を抱く努力をした方が効果的だ。そもそも、同じ銃を買い換えたとして、同じカスタムパーツが入手できるという保証もない。
 ともあれ、今の大事な相棒はタウルスPT-908だ。今だけでも末永く使えるように手入れだけはしておきたい。
 デニムパンツに黒いトレーナー姿のままで床に胡坐を書き、メンテナンス。銃の部品を紛失したりクリーニングリキッドを溢さないように、白い1m四方のウエスを敷く。
 何度も使っているので薄っすらと灰色に変色している。
 メンテナンスに必要なキットやウエスをホームセンターで買ったツールボックスに押し込む。
 そのままベランダに出ていつものゴロワーズ・レジェールを銜える。大した風景ではないが、揮発性の気体で充満した室内よりは過ごしやすい。
 3LDKのベランダの手摺にもたれ、暫し、放心したように呆けて紫煙を吐くだけのオブジェとなる。
 耳の遠くで正午を報せるどこかの工場のサイレンが聞こえてきた。聴いてはいなかった。音が耳の穴を右から左に通過しただけだ。
 腹の虫に急かされて昼食の用意をするのはそれから15分後のことだった。
  ※ ※ ※
 久野から急な入電。
 深夜2時。
 一昨日に急な仕事が差し込み、充分な休息が取れていない。
 社会通念的にも眠りの世界の時間である。
 久し振りにゆっくりと睡眠をとろうと、ベッドに沈んだのは3時間前。
 つい先日の鉄火場で負った左脇の擦過傷も薄皮が張って風呂に入るのにも苦痛を感じなくなっていた。思いっきり寝返りを打っても皮が破れて出血することもないだろうと、思い切ってベッドに横たわった。
 全くの不意打ちの電話。
 携帯電話がプリインストールの着信音でけたたましく報せる。
 深夜だと音量を下げているはずの電子音が必要以上の大音量に聞こえる。殺意を覚えるよりも何ごとか理解できない焦りの方が大きかった。
 久野から電話。
 深夜に突然の。
 確かに久野には仕事の窓口で、綾左の斡旋も受け持ってくれている。しかし、久野は綾左のマネージャーではない。
 その久野が何の権利あって綾左の睡眠を妨害するのか?
「……!」
 メール。その本文を読む。
 眠い目で何度もその文面を読み返す。
 読み返すほど眠気が覚めてくる。
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