租界の陰の金牛宮
安普請のドアを蹴り破るのではなく、その蝶番を捩じ込んだ脆いトタンの壁を全身全霊のドロップキックで破砕し、突入に成功したのは、助走をつけた位置の地面に吐き出した煙草がフィルターを焼き始めた頃だった。
夜の静間を汚く彩る金属音。
ブリキでできた昔懐かしいゴミ箱を蹴り飛ばしてもこんなに見事な汚い音は奏でないだろう。
其処へ更にシロアリが巣食った意味をなさない柱や梁の一部までもが崩れる音色が交じり合うのだから、近所迷惑も甚だしい。
真夜中の近所迷惑。
真夜中の近所迷惑といえば騒音問題だと相場は決まっているが、この場合はそれに適応されにくい状況が揃いすぎていた。
何しろ居住地が密集する地域ではない。
廃棄された港湾部の、倉庫しか群生しない寂れた一角に誰が好き好んで住まいとするのか? 即座にホームレスだと返答する知識人ぶった賢人モドキが胸を張って主張しそうだが、残念ながら、ホームレスでさえ近寄らない一角なのだ。
なぜなら、生活臭がするインフラが何一つない。
ホームレス生活の最大の問題点はトイレだ。
引いては水道。
そして集めた雑誌や空き缶を売り捌けるだけの窓口がある雑居地区の裏口。
都会の街中のやや外れた路地でホームレスが屯している理由がなんであるのか理解していただけたであろうか?
……ここにはホームレスが欲するものは何もない。
放置された山のようなスクラップや鉄屑は自力で持ち運べてこその収入だ。
これらを一度に大量に運んで換金したとしても労働力と仕事量とトラックのレンタル料金等が割に合わないだろう。
ホームレスすら近寄らない。では、暴走族の集合場所としては? ……残念ながらそれも、この場に限っては例外としかいえない。
まず、路上に散乱する鉄の屑がかなりの高確率でパンクを引き起こす。次に彼らが自己顕示欲を満たしたがる一般道や国道までに距離がある。
パンク修理もガソリン代も馬鹿にならない昨今では倉庫街は一律、暴走族の根城というテンプレートも通用しなくなっている。
何より、反社会性を武器に反骨精神を発散させるために迷惑行為を企てる、気骨のある暴走族は既に絶滅している。
今時の暴走族の倉庫街の使い道といえば掻っ攫った獲物の分配場か都合の良い輪姦現場でしかない。……それも暴走せずに徒歩でやってきての話だ。
となると、この場に相応しい人物像と謂えば、それ以外の社会不適合者といえる。
この倉庫街をアジトとする者も、この倉庫街で本領を発揮できる者も、決して明るい世界を歩ける人物ではないわけだ。
風声鶴唳と潜んでいた人間一人を屠るためだけに、でき損ないのシンバルを乱打するのに似た騒音を撒き散らして参上した長身のフィールドコート姿の人物も、明るい世界を歩ける人物ではない。
ドロップキックで脆い壁を蹴り破って登場。
蹴るというより、体重を運動エネルギーとして物体に衝突させたのだから、足の裏で体当たりをしたと表現した方が正しいのかもしれない。
着地後は3mほどのスライディング。
そしてホームに華麗に滑り込んだランナーのようにすっくと体勢を立て直し、立ち上がると左右に首を振り、左右に視線を振り、左右に大きく腰を軸に上半身を反転させる。
オリーブドラブのフィールドコートの裾が大きく捲れ上がり、人の形を象った黒い影となる。
倉庫内の裸電球の下で缶ビールを煽りながら苦い顔をしていた男たちは一斉に振り返った。
これで振り返らずにいられるほどの、豪胆の持ち主ならもっと違った道で成功しているはずだ。
頼りにしていた鋼鉄製のドアを、防弾板として活用させる機会が恐ろしく低下。
何しろ、闖入者は鋼鉄のドアではなくそのドアを建て付けている脆い壁を破壊して乱入してきたのだ。
全員は虚を突かれた。
警護するべき人物を守るべく配置された人員ではあったが、予想を簡単に裏切る展開が押し付けられたのだ。
40平米以下の倉庫。
パーテーションで仕切ってあるので、嘗ては事務所として使われていたのかもしれない。
その事務所かもしれない倉庫内部に鮮やかにブレイクスルーを敢行した人物は女。
170cm以上の長身に普通のショートカットと同じくらいにまで伸びた黒いベリーショートが抽象的な人物像を描いている。
絶食させられている山猫のように飢餓感を覚えている切れ長の双眸は、眼光だけで心の弱い者をその場に射すくめる威力があった。
薄いピンク色のルージュが引かれた唇から吸血鬼のような八重歯が覗いても誰も不思議に思わない。……そう思わせる神秘性と畏怖感に満ち溢れている。
小さく纏まった可憐な唇から覗く八重歯はもちろんのことながら人間のものであった。
鋭く、精悍で、シャープな、白皙怜悧。
彼女の容貌から窺える印象はそれしかない。
理知的な眼鏡を掛けていれば、こんな埃と黴が蔓延する場所より学校の教壇のほうが絶対に似合っている。
彼女が……白皙怜悧の印象を纏った、ボーイッシュな肉食系美女が、この倉庫に突入してきて早くも3秒が経過した。
外見年齢で察するに三十路に達していない顔。
美貌と凶相が共存する美しい顔。
彼女の目蓋がやや下がる。
予めフロントジッパーが開けられたフィールドコートに彼女の右手がするりと滑り込む。
彼女の脳内では左右に大きく視線を振った時点で戦力の分析はできている。
40平米の空間。遮蔽物はほぼ皆無。右手側に2人。左手側に1人。正面に3人。距離は一番近い左側の1人。一番遠いのは今回の獲物としている四十絡みの男……目測で20m。
コンマ数秒後には彼女は右手を抜き放ち、自動拳銃の銃口を左手側の男に向けて発砲していた。
ほぼ同じモーションで彼女の左手は親指が左耳孔を押さえ、掌の甲と4本の指は銃口から迸る火薬滓の眼球直撃を防ぐべく壁をなす。
彼女の右掌で号砲に似た初弾が放たれる。
9mmパラベラム。ジャケッテッドホローポイント。
フィヨッキ社のハイベロシティ。約7gの弾頭を音速以上の速さで弾き出し、600J以上の初活力を約束する。
カタログスペックだけの比較なら数字だけの世界なので無機質だが、実際にその弾頭が人体に命中し、一瞬で瀕死の重傷に陥れる状況を目の当たりにすれば、世界中を敵に廻しても勝負できると錯覚する心強さを体感する。
彼女の自動拳銃が全ての先途となり、辺りに居た5人が色めき立つ。
男連中は缶ビールの酔いなど忘れたかのように次々と拳銃を抜く。
コッキングの音が連なって聞こえる。……彼女は膝から崩れ落ちつつあった最初の被害者の背中に回り、左手で虫の息をしている男の後ろ襟首を掴んで即席の遮蔽にする。
遮蔽の少ない空間で多方向から銃口に狙われている場合は遮蔽の確保と同じくらいに、陣取りゲームのように空間のどこに自分の体を置くかが命題となる。
彼女は背中を守るために壁を背後にすることはなかった。
みた目以上に強靭で強力な膂力を秘めた腕で、死に掛けの男を防弾を兼ねた遮蔽として小刻みな移動を繰り返す。
発砲。移動。発砲。移動。
肩幅分の小刻みな移動と、一発必中を狙わない、擦過傷を拵える程度の発砲。
左右に位置していた連中のポジションが彼女の真正面に箒で掃かれるように集められていく。
連中の弾が当たらないのではない。
連中の弾が当たらない場所に移動しているだけだ。
連中の弾が当る場所にくれば必ず被弾している。……左手で掴んだ虫の息の男が被弾した。もう虫の息すらしていないかもしれない。
夜の静間を汚く彩る金属音。
ブリキでできた昔懐かしいゴミ箱を蹴り飛ばしてもこんなに見事な汚い音は奏でないだろう。
其処へ更にシロアリが巣食った意味をなさない柱や梁の一部までもが崩れる音色が交じり合うのだから、近所迷惑も甚だしい。
真夜中の近所迷惑。
真夜中の近所迷惑といえば騒音問題だと相場は決まっているが、この場合はそれに適応されにくい状況が揃いすぎていた。
何しろ居住地が密集する地域ではない。
廃棄された港湾部の、倉庫しか群生しない寂れた一角に誰が好き好んで住まいとするのか? 即座にホームレスだと返答する知識人ぶった賢人モドキが胸を張って主張しそうだが、残念ながら、ホームレスでさえ近寄らない一角なのだ。
なぜなら、生活臭がするインフラが何一つない。
ホームレス生活の最大の問題点はトイレだ。
引いては水道。
そして集めた雑誌や空き缶を売り捌けるだけの窓口がある雑居地区の裏口。
都会の街中のやや外れた路地でホームレスが屯している理由がなんであるのか理解していただけたであろうか?
……ここにはホームレスが欲するものは何もない。
放置された山のようなスクラップや鉄屑は自力で持ち運べてこその収入だ。
これらを一度に大量に運んで換金したとしても労働力と仕事量とトラックのレンタル料金等が割に合わないだろう。
ホームレスすら近寄らない。では、暴走族の集合場所としては? ……残念ながらそれも、この場に限っては例外としかいえない。
まず、路上に散乱する鉄の屑がかなりの高確率でパンクを引き起こす。次に彼らが自己顕示欲を満たしたがる一般道や国道までに距離がある。
パンク修理もガソリン代も馬鹿にならない昨今では倉庫街は一律、暴走族の根城というテンプレートも通用しなくなっている。
何より、反社会性を武器に反骨精神を発散させるために迷惑行為を企てる、気骨のある暴走族は既に絶滅している。
今時の暴走族の倉庫街の使い道といえば掻っ攫った獲物の分配場か都合の良い輪姦現場でしかない。……それも暴走せずに徒歩でやってきての話だ。
となると、この場に相応しい人物像と謂えば、それ以外の社会不適合者といえる。
この倉庫街をアジトとする者も、この倉庫街で本領を発揮できる者も、決して明るい世界を歩ける人物ではないわけだ。
風声鶴唳と潜んでいた人間一人を屠るためだけに、でき損ないのシンバルを乱打するのに似た騒音を撒き散らして参上した長身のフィールドコート姿の人物も、明るい世界を歩ける人物ではない。
ドロップキックで脆い壁を蹴り破って登場。
蹴るというより、体重を運動エネルギーとして物体に衝突させたのだから、足の裏で体当たりをしたと表現した方が正しいのかもしれない。
着地後は3mほどのスライディング。
そしてホームに華麗に滑り込んだランナーのようにすっくと体勢を立て直し、立ち上がると左右に首を振り、左右に視線を振り、左右に大きく腰を軸に上半身を反転させる。
オリーブドラブのフィールドコートの裾が大きく捲れ上がり、人の形を象った黒い影となる。
倉庫内の裸電球の下で缶ビールを煽りながら苦い顔をしていた男たちは一斉に振り返った。
これで振り返らずにいられるほどの、豪胆の持ち主ならもっと違った道で成功しているはずだ。
頼りにしていた鋼鉄製のドアを、防弾板として活用させる機会が恐ろしく低下。
何しろ、闖入者は鋼鉄のドアではなくそのドアを建て付けている脆い壁を破壊して乱入してきたのだ。
全員は虚を突かれた。
警護するべき人物を守るべく配置された人員ではあったが、予想を簡単に裏切る展開が押し付けられたのだ。
40平米以下の倉庫。
パーテーションで仕切ってあるので、嘗ては事務所として使われていたのかもしれない。
その事務所かもしれない倉庫内部に鮮やかにブレイクスルーを敢行した人物は女。
170cm以上の長身に普通のショートカットと同じくらいにまで伸びた黒いベリーショートが抽象的な人物像を描いている。
絶食させられている山猫のように飢餓感を覚えている切れ長の双眸は、眼光だけで心の弱い者をその場に射すくめる威力があった。
薄いピンク色のルージュが引かれた唇から吸血鬼のような八重歯が覗いても誰も不思議に思わない。……そう思わせる神秘性と畏怖感に満ち溢れている。
小さく纏まった可憐な唇から覗く八重歯はもちろんのことながら人間のものであった。
鋭く、精悍で、シャープな、白皙怜悧。
彼女の容貌から窺える印象はそれしかない。
理知的な眼鏡を掛けていれば、こんな埃と黴が蔓延する場所より学校の教壇のほうが絶対に似合っている。
彼女が……白皙怜悧の印象を纏った、ボーイッシュな肉食系美女が、この倉庫に突入してきて早くも3秒が経過した。
外見年齢で察するに三十路に達していない顔。
美貌と凶相が共存する美しい顔。
彼女の目蓋がやや下がる。
予めフロントジッパーが開けられたフィールドコートに彼女の右手がするりと滑り込む。
彼女の脳内では左右に大きく視線を振った時点で戦力の分析はできている。
40平米の空間。遮蔽物はほぼ皆無。右手側に2人。左手側に1人。正面に3人。距離は一番近い左側の1人。一番遠いのは今回の獲物としている四十絡みの男……目測で20m。
コンマ数秒後には彼女は右手を抜き放ち、自動拳銃の銃口を左手側の男に向けて発砲していた。
ほぼ同じモーションで彼女の左手は親指が左耳孔を押さえ、掌の甲と4本の指は銃口から迸る火薬滓の眼球直撃を防ぐべく壁をなす。
彼女の右掌で号砲に似た初弾が放たれる。
9mmパラベラム。ジャケッテッドホローポイント。
フィヨッキ社のハイベロシティ。約7gの弾頭を音速以上の速さで弾き出し、600J以上の初活力を約束する。
カタログスペックだけの比較なら数字だけの世界なので無機質だが、実際にその弾頭が人体に命中し、一瞬で瀕死の重傷に陥れる状況を目の当たりにすれば、世界中を敵に廻しても勝負できると錯覚する心強さを体感する。
彼女の自動拳銃が全ての先途となり、辺りに居た5人が色めき立つ。
男連中は缶ビールの酔いなど忘れたかのように次々と拳銃を抜く。
コッキングの音が連なって聞こえる。……彼女は膝から崩れ落ちつつあった最初の被害者の背中に回り、左手で虫の息をしている男の後ろ襟首を掴んで即席の遮蔽にする。
遮蔽の少ない空間で多方向から銃口に狙われている場合は遮蔽の確保と同じくらいに、陣取りゲームのように空間のどこに自分の体を置くかが命題となる。
彼女は背中を守るために壁を背後にすることはなかった。
みた目以上に強靭で強力な膂力を秘めた腕で、死に掛けの男を防弾を兼ねた遮蔽として小刻みな移動を繰り返す。
発砲。移動。発砲。移動。
肩幅分の小刻みな移動と、一発必中を狙わない、擦過傷を拵える程度の発砲。
左右に位置していた連中のポジションが彼女の真正面に箒で掃かれるように集められていく。
連中の弾が当たらないのではない。
連中の弾が当たらない場所に移動しているだけだ。
連中の弾が当る場所にくれば必ず被弾している。……左手で掴んだ虫の息の男が被弾した。もう虫の息すらしていないかもしれない。
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