夜、灯りの後ろにて。
目がまっすぐで曇りがない。
この業界で濁りも霞もない目をした人間は稀少。彼女の誠実さが痛鋭く刺さる瞳は暫くは忘れないだろう。
「貴女の心意気は了察しました。余程苦労されたのでしょうね。……苦労されているのでしょう」
3分の1ほどが灰になったシガリロを灰皿に押し付けて早紀は言う。
「商談の来客相手に茶も出さず、名前も名乗らず、こちらの商品に視線も向けない……それほどに焦っている……急いでいるのが良く解ります。いや、誤解なさらないで、嫌味や皮肉ではありません。あなた自身にもタイムリミットがあると思ったのです。その理由が本当に忠道大義で私としましてもお力になりたい思いで一杯になりました」
早紀の言葉に、本当に嫌味や皮肉はない。
ただ、偽装を凝らして結果的に早紀を謀った事実だけが許せなかった。
許せないといっても、彼女と早紀とでは棲んでいる世界が違う。
オトシマエのつけ方も大きく違う。それを取り出して彼女を非難する気は起きなかった。ビジネスライクにいうのであれば、双方とも今のところ、一銭も損害を蒙っていないので含むところはあっても恨みはない。
早紀の台詞に指で背中を突かれたような反応で背筋を伸ばし、大袈裟に両の掌で口元を覆った彼女は、またしても大きく頭を垂れて謝罪に徹した。
どの件から謝罪を述べれば解らず、あたふたとコメツキバッタのように頭を下げる彼女。
毅然とした姿勢と女性らしい柔和な表情が同居するクールビューティが浮き足立つさまなどそうそう見られたものではない。自分が放った言葉が原因とはいえ、何だかその仕草が可愛らしくて抱きかかえて頭を撫でてやりたくなる。
「あ、え、あ、遅れまして申し訳ありません! 以後お見知りおきを!」
彼女はスーツの内ポケットから名刺ケースを取り出して、早紀の前に名刺を提示する。今の今まで自分の名前や名刺を晒さなかったのは、闇社会に対して、よほど警戒していたからだろう。
矢鎚朋堂会事務管理部。河東美純(かとう みすみ)。
――――矢鎚朋堂会……。
――――ああ。税金対策で作っただけの財団法人ね。
――――朋堂会の名前は知ってるわ。あの朋堂会って矢鎚家関連だったの……。
――――財団の規模は確かに大きいわね。でも裏に顔を利かせるほどのコネもパイプも持っていない潔癖症で有名……だったと思う。
――――財産と税金管理で金目のモノを蒐集しているうちに引き込まれた……ミイラ取りがミイラになったってオチかな?
苦笑が出そうになるが、普段は一向に現れない鉄の意志をみせて、それを噛み殺す。
「解りました。こちらもできる限りの出品を当ってみます。お茶は結構ですから、商談を進めましょう」
早紀は右手側に大事に抱えていた細長い桐の箱をテーブルの上に静かに置いた。今夜の商談がようやく始まる。
※ ※ ※
それからは……河東美純との共同作業だった。
お世辞にも裏の世界に詳しいとはいえない美純。……金にモノをいわせた情報収集能力は強力だった。転売人の間では金は共通言語だ。
金で買い取れない情報はない。それらを統合した上で末端の回収作業を行うのが早紀だった。
いつまでも『地に足のついていない転売人』として危ない仕事を続けるのも無理があると薄々思い始めていた。その矢先、『地に足がついている転売人』に転職できるかもしれない機会。
明るい世界で綺麗な仕事を職掌とするのではないが、資産的にしっかりしたバックボーンに支えられて汚れ仕事をするのは、心にかかるストレスの度合いが違った。
楽なのだ。
後ろ盾があるという安心感。
今まで渇望していたスポンサー。
実のところ、河東美純はおっかなびっくりで、初めてアンダーグラウンドの転売人と接触する際に、「相手も同じ女性なら……」と早紀を選んだらしい。
結果として早紀は忙しい毎日を送る。
……それを鑑みても矢張り、危険には違いない。
何度もS&W M64の世話になった。
その度にかかる尻拭きの代金は矢鎚朋堂会から捻出してもらった。
金があるから危険度も低いとは限らない。
丁度、今のように……。
始めから嫌な空気を感じていた。
今回は現金ではなく、携帯電話の中に入ったURLが要だった。
今夜も掛け軸。表装された絵が狩野派なだけで、姿形が掛け軸なのは仕方がない。
現金を持ち歩かないだけ今夜は身軽に動けると思った矢先、嫌な空気を感じた。
盗難車を乗り換えてやってきた廃工場で相手の掛け軸とこちらの携帯電話の中に記されたURLが今回の主役だった。
要するに地下銀行への振り込みなのだ。URLにお互いがアクセスしてIDとパスを交換するだけで商談は成立。
相手は早紀に掛け軸を渡し、早紀は地下銀行に振込みがあったのを目視で確認すればいい。……それだけのはずだった。
盗難車から降り立つや否や、夜陰からの銃撃。
光源に乏しく、壁のように立つ工場のお陰で銃声が木霊して、人数や銃の種類も判然としない。
自分が嵌められたのは解る。遮蔽と思しきドラム缶やパレットを移動するたびに頼みの綱の盗難車――モデルチェンジ前のホンダ・ステップワゴン。白――から遠ざかる。
厚い生地のMA―1フライトジャケットの裾が冷たい空気を孕む。
それを合図のように右脇に左手を閃かせてS&W M64を抜き放つ。
銃声。銃火。
38口径の実包が薬室の中で出番を焦がれるも、敵の姿がみえないのでは仕方がない。
遁走と隠蔽に徹するしかない。
銃火の数から敵は複数だと判断した。ドラム缶を鋭い音を立てて貫通する銃弾があることから、自動小銃かそれ用の小口径高速弾を用いる銃を携えた者がいる。
折角掴んだ転職のチャンスも、死んでしまっては元も子もない。
一丁前に文句をいえるのも、自分が生きて帰還できたらの話だ。ここで泣き言を喚いても何も変わらない。
銃声、連なる。統一されていない口径。流れる銃声。咳き込む銃声。囀る銃声。
数で押すのがみえている火力。確かに今夜は大きな取引だ。
それなりの人数を引き連れて早紀もやってきたと思われても仕方が無い。
相手も恐らく人数で人数を押し返すつもりで頭数を揃えたのだろう。
矢鎚朋堂会……否、美純を社会的にも具体的にも危険に晒すわけにはいかないの。彼女との関連性はあくまで商談相手だ。
だからこそ警護の申し出を断った。
送迎のアシですら断っている。
情報収集の段階では健全な場合が多い。だが、どこからか集りの輩が噛んできて商談や取引を横取りして台無しにするケースが多い。今夜も漁夫の利を得ようとしているか、上前を撥ねるつもりのそれだ。有料の情報屋が完全に漏洩を防いでいても、情報屋の使う端末が『誰かにどこかで覗かれたのでは意味がない』。
ニコチンへの餓えと乾きに耐えられず、シガリロを銜える。
使い慣れたマーベラスB/Wで火を点ける。最初の一服を大きく吸い込んでいるうちに火種が弾けた。
銃弾が火種を消し飛ばした。
顔中にシガリロの粉葉を浴びて咽返る。肺まで吸い込んではいけない紫煙を思わず吸い込んでしまった。
中途半端な喫煙に不満が残る。無碍にされた一本。現在の価格で1本辺り50円もしないシガリロでも、口に銜えた瞬間から愛着が湧くのだ。それが葉巻やシガリロを愛する精神だ。
樹脂製のパレットの山を遮蔽に遁走を繰り返す。
左手に構えたS&W M64は全く持ち味を活かせないで無言で慟哭している。
右手の小指と薬指の間にスピードローダーを挟み、できるだけ早い再装填を心掛ける。
早紀を追う銃弾が空を切る。
向かい風に向かっての発砲が続くのか、狙いが定まっていない。
今のところ、アドバンテージはそれだけだ。風上に位置する優位性を何とか活かして逃げ果せたい。
この業界で濁りも霞もない目をした人間は稀少。彼女の誠実さが痛鋭く刺さる瞳は暫くは忘れないだろう。
「貴女の心意気は了察しました。余程苦労されたのでしょうね。……苦労されているのでしょう」
3分の1ほどが灰になったシガリロを灰皿に押し付けて早紀は言う。
「商談の来客相手に茶も出さず、名前も名乗らず、こちらの商品に視線も向けない……それほどに焦っている……急いでいるのが良く解ります。いや、誤解なさらないで、嫌味や皮肉ではありません。あなた自身にもタイムリミットがあると思ったのです。その理由が本当に忠道大義で私としましてもお力になりたい思いで一杯になりました」
早紀の言葉に、本当に嫌味や皮肉はない。
ただ、偽装を凝らして結果的に早紀を謀った事実だけが許せなかった。
許せないといっても、彼女と早紀とでは棲んでいる世界が違う。
オトシマエのつけ方も大きく違う。それを取り出して彼女を非難する気は起きなかった。ビジネスライクにいうのであれば、双方とも今のところ、一銭も損害を蒙っていないので含むところはあっても恨みはない。
早紀の台詞に指で背中を突かれたような反応で背筋を伸ばし、大袈裟に両の掌で口元を覆った彼女は、またしても大きく頭を垂れて謝罪に徹した。
どの件から謝罪を述べれば解らず、あたふたとコメツキバッタのように頭を下げる彼女。
毅然とした姿勢と女性らしい柔和な表情が同居するクールビューティが浮き足立つさまなどそうそう見られたものではない。自分が放った言葉が原因とはいえ、何だかその仕草が可愛らしくて抱きかかえて頭を撫でてやりたくなる。
「あ、え、あ、遅れまして申し訳ありません! 以後お見知りおきを!」
彼女はスーツの内ポケットから名刺ケースを取り出して、早紀の前に名刺を提示する。今の今まで自分の名前や名刺を晒さなかったのは、闇社会に対して、よほど警戒していたからだろう。
矢鎚朋堂会事務管理部。河東美純(かとう みすみ)。
――――矢鎚朋堂会……。
――――ああ。税金対策で作っただけの財団法人ね。
――――朋堂会の名前は知ってるわ。あの朋堂会って矢鎚家関連だったの……。
――――財団の規模は確かに大きいわね。でも裏に顔を利かせるほどのコネもパイプも持っていない潔癖症で有名……だったと思う。
――――財産と税金管理で金目のモノを蒐集しているうちに引き込まれた……ミイラ取りがミイラになったってオチかな?
苦笑が出そうになるが、普段は一向に現れない鉄の意志をみせて、それを噛み殺す。
「解りました。こちらもできる限りの出品を当ってみます。お茶は結構ですから、商談を進めましょう」
早紀は右手側に大事に抱えていた細長い桐の箱をテーブルの上に静かに置いた。今夜の商談がようやく始まる。
※ ※ ※
それからは……河東美純との共同作業だった。
お世辞にも裏の世界に詳しいとはいえない美純。……金にモノをいわせた情報収集能力は強力だった。転売人の間では金は共通言語だ。
金で買い取れない情報はない。それらを統合した上で末端の回収作業を行うのが早紀だった。
いつまでも『地に足のついていない転売人』として危ない仕事を続けるのも無理があると薄々思い始めていた。その矢先、『地に足がついている転売人』に転職できるかもしれない機会。
明るい世界で綺麗な仕事を職掌とするのではないが、資産的にしっかりしたバックボーンに支えられて汚れ仕事をするのは、心にかかるストレスの度合いが違った。
楽なのだ。
後ろ盾があるという安心感。
今まで渇望していたスポンサー。
実のところ、河東美純はおっかなびっくりで、初めてアンダーグラウンドの転売人と接触する際に、「相手も同じ女性なら……」と早紀を選んだらしい。
結果として早紀は忙しい毎日を送る。
……それを鑑みても矢張り、危険には違いない。
何度もS&W M64の世話になった。
その度にかかる尻拭きの代金は矢鎚朋堂会から捻出してもらった。
金があるから危険度も低いとは限らない。
丁度、今のように……。
始めから嫌な空気を感じていた。
今回は現金ではなく、携帯電話の中に入ったURLが要だった。
今夜も掛け軸。表装された絵が狩野派なだけで、姿形が掛け軸なのは仕方がない。
現金を持ち歩かないだけ今夜は身軽に動けると思った矢先、嫌な空気を感じた。
盗難車を乗り換えてやってきた廃工場で相手の掛け軸とこちらの携帯電話の中に記されたURLが今回の主役だった。
要するに地下銀行への振り込みなのだ。URLにお互いがアクセスしてIDとパスを交換するだけで商談は成立。
相手は早紀に掛け軸を渡し、早紀は地下銀行に振込みがあったのを目視で確認すればいい。……それだけのはずだった。
盗難車から降り立つや否や、夜陰からの銃撃。
光源に乏しく、壁のように立つ工場のお陰で銃声が木霊して、人数や銃の種類も判然としない。
自分が嵌められたのは解る。遮蔽と思しきドラム缶やパレットを移動するたびに頼みの綱の盗難車――モデルチェンジ前のホンダ・ステップワゴン。白――から遠ざかる。
厚い生地のMA―1フライトジャケットの裾が冷たい空気を孕む。
それを合図のように右脇に左手を閃かせてS&W M64を抜き放つ。
銃声。銃火。
38口径の実包が薬室の中で出番を焦がれるも、敵の姿がみえないのでは仕方がない。
遁走と隠蔽に徹するしかない。
銃火の数から敵は複数だと判断した。ドラム缶を鋭い音を立てて貫通する銃弾があることから、自動小銃かそれ用の小口径高速弾を用いる銃を携えた者がいる。
折角掴んだ転職のチャンスも、死んでしまっては元も子もない。
一丁前に文句をいえるのも、自分が生きて帰還できたらの話だ。ここで泣き言を喚いても何も変わらない。
銃声、連なる。統一されていない口径。流れる銃声。咳き込む銃声。囀る銃声。
数で押すのがみえている火力。確かに今夜は大きな取引だ。
それなりの人数を引き連れて早紀もやってきたと思われても仕方が無い。
相手も恐らく人数で人数を押し返すつもりで頭数を揃えたのだろう。
矢鎚朋堂会……否、美純を社会的にも具体的にも危険に晒すわけにはいかないの。彼女との関連性はあくまで商談相手だ。
だからこそ警護の申し出を断った。
送迎のアシですら断っている。
情報収集の段階では健全な場合が多い。だが、どこからか集りの輩が噛んできて商談や取引を横取りして台無しにするケースが多い。今夜も漁夫の利を得ようとしているか、上前を撥ねるつもりのそれだ。有料の情報屋が完全に漏洩を防いでいても、情報屋の使う端末が『誰かにどこかで覗かれたのでは意味がない』。
ニコチンへの餓えと乾きに耐えられず、シガリロを銜える。
使い慣れたマーベラスB/Wで火を点ける。最初の一服を大きく吸い込んでいるうちに火種が弾けた。
銃弾が火種を消し飛ばした。
顔中にシガリロの粉葉を浴びて咽返る。肺まで吸い込んではいけない紫煙を思わず吸い込んでしまった。
中途半端な喫煙に不満が残る。無碍にされた一本。現在の価格で1本辺り50円もしないシガリロでも、口に銜えた瞬間から愛着が湧くのだ。それが葉巻やシガリロを愛する精神だ。
樹脂製のパレットの山を遮蔽に遁走を繰り返す。
左手に構えたS&W M64は全く持ち味を活かせないで無言で慟哭している。
右手の小指と薬指の間にスピードローダーを挟み、できるだけ早い再装填を心掛ける。
早紀を追う銃弾が空を切る。
向かい風に向かっての発砲が続くのか、狙いが定まっていない。
今のところ、アドバンテージはそれだけだ。風上に位置する優位性を何とか活かして逃げ果せたい。