夜、灯りの後ろにて。

 またも……足で踏むのに度胸が試される絢爛なデザインの緋毛氈。
 20畳相等の広さの部屋に、こんなに大きな敷物をどうやって持ち込んだのか不思議だ。
 矢鎚という人物はさぞや綾羅錦繍で飾った、貧相なイメージに浮かび上がる金持ちの図に出てくるでっぷりと肥えた老人を想像させる。
 この部屋の拵えからして、応接間だけの使い方に留まらず、多目的室にも変貌するのだと解ってはいたが、ここまで圧巻だと恐縮の連続で心が尻込みを禁じえない。
 拳銃を呑んだチンピラが招かれるには場違いにもほどがある。
 早紀の後ろで音もなくドアが閉じる。
 背後をみたわけではないが、空気の流れで察する。暖炉の火が気流の変化でゆらりと少し大きく揺れる。
 奥まった壁……左右に合計3箇所あるうちの右手側のドア――木製の造りだが、9mmパラベラム程度は簡単に停止できる厚みがあるだろう――が開いてパンツスタイルのスーツに身を包んだ女性が現れる。
 黒を基調に、白い細い縦縞が彼女のボディラインを美しく表現する。出る部分は出て締まる部分は締まっている見事なプロポーション。卑屈にも自分の体型をダシを取りきった鶏がらに喩えてしまう。
 自分と同じ年齢であろう、その女性はアルカイックスマイルを浮かべている。
 愛想笑いやビジネスライクの関係に向ける笑顔でなく、笑顔だけで空間を演出できるレベルの、静かなれど豊かなものを内応した笑顔を絶やさない。
 時折、彼女の赤茶けたポニーテールが揺れる。
 早紀はそのポニーテールにすら卑屈な面持ちになる。自分と同じポニーテールなのにまるで王侯貴族のような流麗な雰囲気を漂わせている……。
 ニット帽に押し込んだポニーテールの根元が不意に窮屈に感じてニット帽を脱ぐ。
 様々な意味合いの恥ずかしさが込み上げて、顔を赤らめながら視線を女性から外して俯き加減になる。
――――こ、こんな羞恥プレイ……。
――――拳銃で撃ち合っている方が楽よ!
 早紀の唇の端が小刻みに震える。
「ようこそおいでくださいました。お座りください」
 女性が部屋の中央に構えられた応接セットに向かいながら早紀に話しかける。
 弾かれたように、早紀は頭が上がりきらないバッタのように会釈を繰り返しながら、応接セットの一つである一人掛けのソファに腰を掛ける。
 空間が広過ぎてがっつりと商談をする気概が消沈しそうだ。いつもの商談は暗がりで後ろめたさを感じながら一言二言の会話で陰気に展開していくものだが……。
 名も知らぬ、秘書のような低く控えめな物腰の女性も対面に座る。
「?」
――――状況的に考えてそこは矢鎚が座る場所でしょ?
 眉毛の端を僅かに歪ませることで、不審な表情を作る。
 その小さな、見落としても仕方のない変化を読み取ったのか、スーツの女性はすうっと息を呑んで、深く頭を垂れて謝罪する。
「申し訳ありませんでした」
「?」
――――嵌められた!?
 危機的状況に叩き落されたと一気にアドレナリンが沸騰する。鳩尾が熱く冷たい。視界がやや狭くなる。
「……私が『矢鎚孝明』です。危険な商談だと聞き、敢えて偽名と偽のプロフィールを使わせていただきました」
「……」
 悋気の遣り場に困る早紀。
 掌は冷や汗で濡れており、いつでも右懐に左手を差し込める準備が出来上がっていただけに毒気を抜かれてしまう。膨れ上がった殺気が萎んでいく。
 女性が偽名を使っている事実をあと2秒バラすのを遅らせていれば、確実にS&W M64を抜き放ち、女性の喉元に銃口を突きつけていただろう。
 テーブルの上での粗相を無視してそこに飛び乗り、卓上ライターやバカラの灰皿、卓上シガーケースも蹴散らして、女性を盾に脱出するシミュレーションが紫電の速さで構築されたのに……呆気ない幕切れ。
 女性にも敵意殺意は感じられない。
 行った故意を謝罪する申し訳なさしか感じない。
「話を……聞かせてもらえますか? はっきりさせておきますが、この業界では『我々の方が』目上で、与える側だと認識していただきたいのですが」
 早紀は鼓動を抑えつけながら、できるだけ平常の抑揚で質問する。
 女性は小さく頷くと、顔から全ての笑顔の雰囲気を消し去り、訥々と語り出した。
「狩野派の掛け軸……を集めているのは確かです。そのためには金銭に糸目は付けません。端的にいうと、以前に私が女で年齢や素性を明かすと足元をみられて健全な商談が進まなかったので、このようなスタイルであなたとコンタクトを取らせていただきました。矢鎚孝明……恐らく調べられたのでしょう。それなりの資産家でフィクサーのような阿漕な口入で財をなした人物です」
 早紀の表情が少し曇る。
 嘘はついていない。本当のことは話していない。口調の端にそれがみえ隠れする。
 早紀は、自分はリラックスしているというジェスチャーのつもりでMA―1フライトジャケットのハンドウォームから、ネスミニレゼルバの平たい缶を取り出す。無造作にそれを銜える。卓上に喫煙セット一式が並んでいるのにまさか喫煙厳禁とはいわないだろう。
「……資産家、ねえ……」
 事前に買い取り人の情報は入手している。
 闇社会に流通する情報自体を欺瞞するのなら、さらに大きな嘘が必要で、それを流布するには莫大な金額が必要だ。
 さらに疑問が浮かぶ。
 資産にモノをいわせた情報統制や情報操作が可能な人物、あるいは団体ともなると『カタギの素人』というわけではなさそうだ。
 カネの使いどころを心得ている。カネの力を過信しないタイプの人間だ。
 自分を偽装するのに徹底している辺り、欺瞞だらけの日常生活を送る早紀とは近似値の人間なのかもしれない……なのに……なのにだ。何故、折角の秘密主義を今、ここで面と向かって自分で明白にする必要があるのだ?
 黙っていれば……偽装のためにエキストラでも雇えば間に合うだろう。役者を雇う金くらいなら困らないはずだ。
 その疑問と同時に、情報をリークしてくれている顔馴染みの情報屋の情報を全て丸呑みにするのは危険だと自分を戒める。
 稼業を始めた当初の慎重さが薄れている証拠だと紫煙の中で表情を歪ませて自戒する。
「矢鎚孝明は実在し、存命します。それなりの名士で通っていますが、余命幾ばくもありません……矢鎚の生命の危険については秘匿中の秘匿です……矢鎚孝明のために所蔵を明るくし、せめての手向けとしたいのです」
 話は少しみえてきた。
 矢鎚孝明という先の短い人物のためにこの女は彼の所有欲だけでも満たして、満足な最期を飾ってやろうという願いなのだろう。
 価値観は様々だろうが、たったそれだけのためにアンダーグラウンドの人間と接触を持つのは危険だ。
 どうせなら代行業者を雇ってワンクッション置いてから接触したほうがいいですよ、と忠告したくなる。
 彼女は続ける。
「そこで矢鎚家に仕える執事、秘書、警護を統括する部門を代々世襲で受け持ってきた『我が家』が密かに矢鎚の所蔵を増やすために……贓品であろうと……集めることを新しい目的としたのです。この山荘も矢鎚孝明は存命であると世間にアピールするための欺瞞です……だからこうして『我が家』の人間は自由に使えるのです」
 その台詞の語尾は悪戯っぽく明るく声が踊っていた。表情が何処となく重苦しい身内話に救いをもたらしているようだった。
「つきましては……狩野派を含め狩野の掛け軸をできる限り私たちに売りつけてください」
 彼女は若い身空で余程の重責を負わされているのだろう。
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