夜、灯りの後ろにて。
何もしない何もない一日。
無為にだらしなく過ごす一日。
この時間の有り難さを享受できる人間でなければ、ストレス社会は生きていけない。
ことに、アンダーグラウンドの人間ともなると、いつ司直の手が及んで捕縛されて禁固刑を喰らうか解らない。そうでなくとも普段の商売が綱渡り状態なのだ。
護身用に拳銃を持ち歩かなければならぬほどに殺伐としている。
人間味のある暖かい話と出会う確率は、宝くじで1等前後賞を当てるのと同じ確率だ。
欺瞞の日常生活を送るにしてもそれだけで既に大きなストレスだ。
自分を殺して機械的に一般人を装う。二重のIDを与えられたのと同じだ。
一人分の人生でも苦難の連続なのに、それを表の顔として過酷な状況で転売人を生業とする。
生きるためには仕方がないにしても、人生の四則演算でいえば大きなマイナスだろう。
真っ当な人生を歩けなかった、明るい世界を謳歌できなかった早紀に対する天罰は重いストレス社会だった。
※ ※ ※
休日。と、認識される、何もなかった昨日。
本日は仕事がある。
拳銃が手放せない血腥い仕事になる確率が高いが……。
パソコンを立ち上げて舞い込む依頼を閲覧していると、『買いたし』との文言が。
依頼人は狩野常信の掛け軸を大層、所望のようだ。
以前、とある転売人から入手し、表向きだけ真っ当な画廊――実際は偽物を高額で吹っかけるぼったくりの専門店――の管理室に預けて商品を管理しているのをすぐに思い出した。
普通は在庫の検索に5分ほど――ネット経由のパソコン管理。非合法なサーバーを経由するごとにIDとパスを求められるのでスムーズに進まない――掛かるのだが、早紀はすぐに、脳裏に商品が浮かんだ。
何しろ時価1000万の大物だ。
預けている画廊にも「万が一商品にキズを付けたら命を奪うだけでは済まさない」と直接、拳銃を突きつけて脅してある。
売買価格が印象深いのですぐに売りたかった。
もっと高額な取引を持ちかける商談相手の出現を待つより、瑕が付く前の、ベストな状態で保存されている狩野の掛け軸を早く売り払ったほうが得策だと考えたのだ。
長期の保存ともなると高額商品に常に気を払う……預け先に金も払うというリスクが付きまとう。ライバル意識の高い同業者が安く仕入れたより良い品をさらに高く商談相手にチラつかせて顧客を奪われる。
転売稼業は基本は、信用商売でスピードが命だ。
早速、返信。
恐らく、提示する価格で購入されるだろう。
此方のリスク代――リスク代と謂う名の管理費――と保険を加えて1400万円で手打ちとなれば万歳だ。
折り返しのメールを送信し、取引方法や販売価格を報せる。
管理を任せている画廊にも保存状況の確認と出庫の準備を促すメールを送信する。
実をいうと早紀自身、高額商品の度が過ぎて持て余していたのだ。同業者の会合やオークションで出品して掃こうとさえ考えていた。
1年ほど前に件の掛け軸を販売リストに載せて売りに出し、ようやく相応しいであろう、買い手に巡り合った嬉しさが膨らむ。
自虐的にいうのなら、彼女は豚に真珠、猫に小判辺りの言葉がピッタリなほど、モノ――商品――の本質を理解していない。ゼロが沢山並ぶ商品程度の認識だ。
出自不明の掛け軸を非合法に入手したのだ。手元から離れるときも非合法な手段だ。
右手首のGショックは午前8時半を経過。
自宅のパソコンを閉じると、仕事用のメールアカウントに着信を待つだけだ。
この時間が異様に長く感じられる。この感覚は初めて転売稼業を始めたときから変わっていない。
……結局、返信メールが出揃い、本格的に自宅から出立したのは翌日の午前4時だった。
二つ返事で提示する金額にOKサインを出す依頼人。
『袖の振り方』からして資産家のご老体かと思ったが……指定された時間に指定された場所――午後9時。県境の山間部。瀟洒な一軒家の別荘。大型ロッジと見紛う木彫を活かした概観が印象的。暗がりの中でもこの近辺だけは街灯や水銀灯で照らし出され、盗難車で辿り着くのに大した心労を伴わなかった――にやってきたが、邸内に入ると自宅マンションの専有面積の半分がすっぽりと入るかと思うロビーに圧倒される。
無垢の木の豪奢な内装は外観を裏切らないデザインで早紀を出迎える。
同時に、センスが若いと直感。
掛け軸を欲しがるご老体がホイホイと移動できる階段の量ではない――デザインとシステムが織りなす階段と高低差を取り入れた視覚的奥行きは年齢層の若い人間が好む趣味に多い――と、見た。
重いドアを開いてエスコートしてくれるメートル・ド・テル調の黒いスーツに身を包んだ30代後半と思しき男性の物腰は、徹底して優しく滑らかで一分の澱みもみせない。
ジャケットのいずれの部位も膨れ上がっていないことから、いきなりズドンと撃たれることはないと安心する。
何より、礼儀として、早紀が携える商品を気にかける仕草をみせずに、早紀自身を丁重にもてなす佇まいに好感が持てた。
依頼人の名前は矢鎚孝明(やづち たかあき)。
年齢は60を越え、資産に対する税金対策として掛け軸を所望しているとのこと。馬鹿正直に購入理由を晒す辺り、この手の暗い世界の商売人と接するのは経験が浅いのだろう。
ドアを開けるだけの仕事に留まらず、エスコートしてくれるスーツの男。
このメートル・ド・テルのスーツもテイラーで仕立てたように男の体にフィットしている。
促されるままにその男の後ろを歩く。長い廊下。一枚板のマホガニーの廊下。これだけの長く分厚く廊下に適した一枚板で拵えるともなると、国産の樹木では入手が困難だろう。
計り知れない樹齢を踏みしめて歩いているという満足感を与えてくれる。
ただの板張りの廊下とバカにするのは早計だ。
何しろ靴底から伝わる優しく心地良い反動は歩いているだけで心が躍る。
資産家であれ成金であれ、スムーズに商売が進めば問題はない。懐に呑んだS&W M64の出番がなければそれでいい……そんなことよりも……自分のコーディネートが壊滅的に残念なので少しは衣装に気を使おうと固く誓う。
動きやすさと機能性だけを求めて、MA―1フライトジャケットにジーンズパンツ姿なのだ。山間ということを考慮して、マフラーとニット帽を被っている。
ハンドウォームに突っ込んだ薄いフリース生地の100円均一で買った手袋は左手の人差し指、中指、親指をハサミで切断し、S&W M64を扱いやすいようにしてある。
内装の金のかけよう通りに、贅沢に全館にエアコンを稼動させている温かい室内では、廊下を進めば進むほど消え入りたくなる思いになる。……自分の衣服が場違い過ぎて。
今すぐ右手に携えた商品を執事然とする、目前を歩くスーツの男に手渡して帰りたいとさえ思ってしまう。今度からは自分の宣伝用ページにドレスコードの明記も付け足そう……。
「こちらです」
エスコートしてくれていた男は、両開きのドアの前に立つと慇懃に礼をしてまたも早紀に代わってドアを開放してくれる。
一歩、入る。爪先が中々着地しない。たった一歩踏み込むのに躊躇する。
自分のマンションの部屋が2つくらいすっぽりと入る応接室。
広いだけが能じゃないといわんばかりに設えられた音響や撮影機材を設置する金具が壁や天井にみえる。
大きな暖炉で熾されている火は、エアコンが機能するこの空間で必要なのかと疑問が浮かぶ。
無為にだらしなく過ごす一日。
この時間の有り難さを享受できる人間でなければ、ストレス社会は生きていけない。
ことに、アンダーグラウンドの人間ともなると、いつ司直の手が及んで捕縛されて禁固刑を喰らうか解らない。そうでなくとも普段の商売が綱渡り状態なのだ。
護身用に拳銃を持ち歩かなければならぬほどに殺伐としている。
人間味のある暖かい話と出会う確率は、宝くじで1等前後賞を当てるのと同じ確率だ。
欺瞞の日常生活を送るにしてもそれだけで既に大きなストレスだ。
自分を殺して機械的に一般人を装う。二重のIDを与えられたのと同じだ。
一人分の人生でも苦難の連続なのに、それを表の顔として過酷な状況で転売人を生業とする。
生きるためには仕方がないにしても、人生の四則演算でいえば大きなマイナスだろう。
真っ当な人生を歩けなかった、明るい世界を謳歌できなかった早紀に対する天罰は重いストレス社会だった。
※ ※ ※
休日。と、認識される、何もなかった昨日。
本日は仕事がある。
拳銃が手放せない血腥い仕事になる確率が高いが……。
パソコンを立ち上げて舞い込む依頼を閲覧していると、『買いたし』との文言が。
依頼人は狩野常信の掛け軸を大層、所望のようだ。
以前、とある転売人から入手し、表向きだけ真っ当な画廊――実際は偽物を高額で吹っかけるぼったくりの専門店――の管理室に預けて商品を管理しているのをすぐに思い出した。
普通は在庫の検索に5分ほど――ネット経由のパソコン管理。非合法なサーバーを経由するごとにIDとパスを求められるのでスムーズに進まない――掛かるのだが、早紀はすぐに、脳裏に商品が浮かんだ。
何しろ時価1000万の大物だ。
預けている画廊にも「万が一商品にキズを付けたら命を奪うだけでは済まさない」と直接、拳銃を突きつけて脅してある。
売買価格が印象深いのですぐに売りたかった。
もっと高額な取引を持ちかける商談相手の出現を待つより、瑕が付く前の、ベストな状態で保存されている狩野の掛け軸を早く売り払ったほうが得策だと考えたのだ。
長期の保存ともなると高額商品に常に気を払う……預け先に金も払うというリスクが付きまとう。ライバル意識の高い同業者が安く仕入れたより良い品をさらに高く商談相手にチラつかせて顧客を奪われる。
転売稼業は基本は、信用商売でスピードが命だ。
早速、返信。
恐らく、提示する価格で購入されるだろう。
此方のリスク代――リスク代と謂う名の管理費――と保険を加えて1400万円で手打ちとなれば万歳だ。
折り返しのメールを送信し、取引方法や販売価格を報せる。
管理を任せている画廊にも保存状況の確認と出庫の準備を促すメールを送信する。
実をいうと早紀自身、高額商品の度が過ぎて持て余していたのだ。同業者の会合やオークションで出品して掃こうとさえ考えていた。
1年ほど前に件の掛け軸を販売リストに載せて売りに出し、ようやく相応しいであろう、買い手に巡り合った嬉しさが膨らむ。
自虐的にいうのなら、彼女は豚に真珠、猫に小判辺りの言葉がピッタリなほど、モノ――商品――の本質を理解していない。ゼロが沢山並ぶ商品程度の認識だ。
出自不明の掛け軸を非合法に入手したのだ。手元から離れるときも非合法な手段だ。
右手首のGショックは午前8時半を経過。
自宅のパソコンを閉じると、仕事用のメールアカウントに着信を待つだけだ。
この時間が異様に長く感じられる。この感覚は初めて転売稼業を始めたときから変わっていない。
……結局、返信メールが出揃い、本格的に自宅から出立したのは翌日の午前4時だった。
二つ返事で提示する金額にOKサインを出す依頼人。
『袖の振り方』からして資産家のご老体かと思ったが……指定された時間に指定された場所――午後9時。県境の山間部。瀟洒な一軒家の別荘。大型ロッジと見紛う木彫を活かした概観が印象的。暗がりの中でもこの近辺だけは街灯や水銀灯で照らし出され、盗難車で辿り着くのに大した心労を伴わなかった――にやってきたが、邸内に入ると自宅マンションの専有面積の半分がすっぽりと入るかと思うロビーに圧倒される。
無垢の木の豪奢な内装は外観を裏切らないデザインで早紀を出迎える。
同時に、センスが若いと直感。
掛け軸を欲しがるご老体がホイホイと移動できる階段の量ではない――デザインとシステムが織りなす階段と高低差を取り入れた視覚的奥行きは年齢層の若い人間が好む趣味に多い――と、見た。
重いドアを開いてエスコートしてくれるメートル・ド・テル調の黒いスーツに身を包んだ30代後半と思しき男性の物腰は、徹底して優しく滑らかで一分の澱みもみせない。
ジャケットのいずれの部位も膨れ上がっていないことから、いきなりズドンと撃たれることはないと安心する。
何より、礼儀として、早紀が携える商品を気にかける仕草をみせずに、早紀自身を丁重にもてなす佇まいに好感が持てた。
依頼人の名前は矢鎚孝明(やづち たかあき)。
年齢は60を越え、資産に対する税金対策として掛け軸を所望しているとのこと。馬鹿正直に購入理由を晒す辺り、この手の暗い世界の商売人と接するのは経験が浅いのだろう。
ドアを開けるだけの仕事に留まらず、エスコートしてくれるスーツの男。
このメートル・ド・テルのスーツもテイラーで仕立てたように男の体にフィットしている。
促されるままにその男の後ろを歩く。長い廊下。一枚板のマホガニーの廊下。これだけの長く分厚く廊下に適した一枚板で拵えるともなると、国産の樹木では入手が困難だろう。
計り知れない樹齢を踏みしめて歩いているという満足感を与えてくれる。
ただの板張りの廊下とバカにするのは早計だ。
何しろ靴底から伝わる優しく心地良い反動は歩いているだけで心が躍る。
資産家であれ成金であれ、スムーズに商売が進めば問題はない。懐に呑んだS&W M64の出番がなければそれでいい……そんなことよりも……自分のコーディネートが壊滅的に残念なので少しは衣装に気を使おうと固く誓う。
動きやすさと機能性だけを求めて、MA―1フライトジャケットにジーンズパンツ姿なのだ。山間ということを考慮して、マフラーとニット帽を被っている。
ハンドウォームに突っ込んだ薄いフリース生地の100円均一で買った手袋は左手の人差し指、中指、親指をハサミで切断し、S&W M64を扱いやすいようにしてある。
内装の金のかけよう通りに、贅沢に全館にエアコンを稼動させている温かい室内では、廊下を進めば進むほど消え入りたくなる思いになる。……自分の衣服が場違い過ぎて。
今すぐ右手に携えた商品を執事然とする、目前を歩くスーツの男に手渡して帰りたいとさえ思ってしまう。今度からは自分の宣伝用ページにドレスコードの明記も付け足そう……。
「こちらです」
エスコートしてくれていた男は、両開きのドアの前に立つと慇懃に礼をしてまたも早紀に代わってドアを開放してくれる。
一歩、入る。爪先が中々着地しない。たった一歩踏み込むのに躊躇する。
自分のマンションの部屋が2つくらいすっぽりと入る応接室。
広いだけが能じゃないといわんばかりに設えられた音響や撮影機材を設置する金具が壁や天井にみえる。
大きな暖炉で熾されている火は、エアコンが機能するこの空間で必要なのかと疑問が浮かぶ。