夜、灯りの後ろにて。

 女性の一人暮らし。彼女のコケットリーな外見を裏切らない女性らしい室内。
 そこそこ実入りの良いOL。
 マガジンラックには女性ファッション誌。機能性よりデザイン性を優先した家具と調度品。無価値に等しいラッセンの絵をパズル用の大型の額に嵌めて、絵を下地にしてカラフルな粘着紙テープでメモ書きや写真を貼り付けてある。玄関には出勤用と下足用の靴。冷蔵庫周りには独り暮らしでスペースを持て余していながらも、角や中空のデッドスペースに自作の棚を設置する若者らしい発想を添える……。
 勿論、これらは全て欺瞞工作だ。
 ラッセンの絵をボード代わりにしているメモ書きや写真も尤もらしく書かれたもので無意味だ。
 玄関に並べている靴も彼女を韜晦するための演出でしかない。急なカタギの来客でも彼女のバックボーンを隠し通すために普段から、偽装には神経を使っている。
 ダイニングのテーブルの上の小さなガラスの灰皿とそこに置かれたメビウスのソフトパックと静電式使い捨てライターも欺瞞の一環だ。香木を焚くのと同じ感覚で紙巻煙草の吸殻を拵えるが、彼女自身はシガリロ派で台所の換気扇の直下か、屋外でしかシガリロを嗜まない。吸殻も毎回トイレに流して、彼女がシガリロスモーカーであることも消し去っている。
 水色のスエットの上下に綿入れを羽織り、ボアの入ったルームシューズを履き、髪を二つに分けてゴムで留める。
 台所でフライパンと格闘中の早紀の後姿をみても、誰もアンダーグラウンドの人間だとは思わないだろう。
 彼女は意外にもこまめに台所に立ち、自炊をする。この行動も欺瞞だ。体に染み付いたガンオイルの臭いを誤魔化すための手段だ。
 豚バラを放り込んで脂を滲ませながら調理した野菜炒めに、麩とわかめだけのあわせ味噌の味噌汁。
 描かれたデザインは可愛らしくも、やや大きめの茶碗に湯気が立ち上る白飯。
 それに一昨日に作りすぎた南瓜の煮物を小鉢に盛る。栄養価を計算しつつ、独り暮らしの女が自炊していれば作りそうな、差しさわりのない献立。
 一人だけの食餌。
 モソモソと寂しく食す光景はそこにはなく、ひたすら咀嚼して、嚥下して、頬張る幸せそうな20代の女性がいた。
 頬を緩ませ、眦を下げた幸せそうな食事の風景。食べているときだけは誰にも邪魔されたくない。……孤独を愛する性分なのだろう。
 食事も佳境に入り、ラストスパートで目前の食器を殲滅せんと意気込み、鼻息を荒くした早紀の耳に携帯電話の着信音が聞こえる。
 プリインストールの可愛げのない着メロ。抑揚はあるが耳に触る電子音。
 一番邪魔して欲しくないタイミングでの着信。この着メロは仕事関係だ。
 箸を置き、水で口中の食物を一気に嚥下して、口元を手近に有ったボックスティッシュで拭く。身を捩じらせて少し離れた位置にある卓上ホルダーにセットしてあるフィーチャーホンを取る。
 自ずと大きく床に伸びきった姿勢になる。そのために胃袋のモノが食道を通り抜けてきそうな不快感を覚える。……が、それすらも嚥下して、仕事用の無機質な声を作って応対に出る。
「……もしもし?」

 
 2日前に野菜炒めがメインの昼食を邪魔されただけの甲斐がある商談であることを願い、波止場に面した倉庫街へと通じる道を行く。
 マイカーでもレンタカーでもない。
 盗難車だ。
 日産のモコの白。ありふれた、女性ユーザー向け軽四自動車。セキュリティが厳しいドアキーとスターターだが、メーカーや車種別の電子開錠ソフトと、表の世界では出回らない複数の工具を用いれば発車させるのに大した時間は掛からない。
 尤も、それらの購入のために自分が車になった気分で働きまわったものだが……。
 MA―1フライトジャケットにジーンズパンツにスニーカー。ネックウォーマーにニットキャップ。ジッパーを開きっぱなしのフライトジャケットの下には黄土色のセーター……フライトジャケットがややオーバーサイズなのは右懐に呑み込んだS&W M64の膨らみを誤魔化すためだ。
 今回は買取にきた。
 電話での遣り取りで大まかな落札価格を話してある。
 その上で品物を売りたいといってきたのだから、今回の商談はほぼ丸く収まったも同然だ。
 出品者の身元も洗ってあるが、珍しくもなんともない、ただの盗品だった。
 向こうの出品物は南北朝時代に焼失したとされるはずのシャムの香木。
 早紀の提示した落札価格は2000万。
 即金だ。
 勿論、借金。2000万円借り、その金で品物を2800万円で売り、借金元の地下金融に利息分合わせて2200万を返し、残りの600万円を自分の実入りとする。
 勿論、表向きの生活を送る以外にも、販売経路や地下金融へのみかじめ料、非合法取引の情報をリークしてくれる情報屋などにもかなりの金額を払わねばならない。
 賃貸マンションを維持しつつ、僅かに遊ぶ金が入る若手のOLと同じ生活レベルを維持しているので、欺瞞だらけの賃貸マンションは計算しつくされた、『身の丈にあった生活レベル』だといえた。
 アンダーグラウンドの住人全てが薄汚く大金を掴む商売をしているとは限らない。
 薄汚くも赤貧を心掛けなければならない人種も存在する。
「……」
――――嫌な空気。
――――早く取引を終わらせてくれるかしら?
 見慣れた黄土色の平べったい缶――シガリロ。ネオスミニ・レゼルバ――を取り出し、中身の細長いそれを口に銜える。ハバナフィラーを50%の割合でブレンドした機械巻きのシガリロ。ハバナの高級な葉巻とは違い、泥臭いインドネシア原産のフィラーの風味を消すのに役立っている程度の安価な製品だ。個性的でキックの強い味わいは割りと支持者が多い。
 シガリロの先端をマーベラスB/Wで炙る。
 国産オイルライターのマーベラスB/Wは四角くズッシリと重い、ジッポーの蓋無しを連想させるデザインで、オイルを溜め込んでおくタンク部分はジッポーのようにコットンではなく、液体オイルをダイレクトに注いで溜め込んでおく文字通りのタンクなのだ。
 火力が強く、風の強い日でも快調に火が点く。
 難点は純正フリントを使わないと途端に調子が悪くなることと、純正フリントを扱う店舗が極端に少なく、通販でしか気軽に買えないことだ。
 個性的で濃厚な、然し芳醇とは違う、腐葉土を思わせる、ドロリとした煙が口中に流れ込む。
 右手首のカシオGショックは午後10時を指していた。
 背後からのヘッドライトの照射。時間通りに商談相手は波止場の倉庫街入り口にやってきた。
「!」
――――ご挨拶ね!
 銜えシガリロのまま、唐突に早紀は盗難車のモコの陰に身をひそめる。
 背後からやってきた商談相手と思しき人物が乗った、いかつい黒が印象的なクライスラーPTクルーザーの陰で、覆われるフロントガラスにカービン銃と思われる銃口が押し当てられるのを認識したからだ。
 フロントガラス越しに伝わる殺意。射手は迷わず車中で引き金を引いた。
 PTクルーザーのフロントガラスは瞬く間に風通しの良い仕様に早変わり。
 車中の人物が伺えないほどの弾幕。指切り連射でも3バーストでもなく、今時珍しい、フルオート搭載のカービン銃。
 弾倉1本分をたっぷり使ってモコを万遍無く襲撃したカービン銃を携えた男が降車する。
 早紀は銃撃を浴びて小刻みに震えていた軽四自動車の陰で、大して短くなっていないシガリロの吸い口を噛み潰す。抜いたS&W M64のシリンダーからスネークショットをジャケッテッドホローポイントに入れ替えるのに必死だった。
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