夜、灯りの後ろにて。

 今すぐにこの場で彼女を生まれたままの姿にできないのが残念なところだ。
 周防早紀。
 彼女はただの転売人でしかない。
 彼女はただの闇社会専門の転売人でしかない。
 彼女はただの闇社会専門の転売人でしかない……はずだ。
 転売を生業としているが、取引自体は古典的な対面取引だ。
 つまり、売る側と買う側が面と向かって対峙して商談を進める、旧いスタイルだった。
 このようなデジタル時代にそぐわない手法は、闇社会では案外と現役で用いられている。
 何しろ、商売自体が確実なのだ。
 売る側、買う側としても後々まで遺恨を残すような齟齬が発生し難く、発生したとしても当事者同士が再び顔を合わせ、交わした書面を元に問題の解決に取り組みやすく、早く解決する。
 デジタル機器に依存したアンダーグラウンドの転売行為はIP、リモート、リファラーといった形で痕跡が残りやすく、いずれも時間を掛ければ解析が可能で、司直の手が及んだ際には手が後ろに回る確率が高くなる。
 それに、転売人としてデジタル機器に細心の注意を払っていても、コンタクトをとる相手がデジタルの世界に疎い人間であれば元も子もない。
 転売人。
 早紀の場合は売りも買いもする。
 よい品を安く仕入れて高く売りつける。
 通常レベルのよい品を更に付加価値を付け、見栄え以上に高価な商品にみせつけて単価以上に高く売りつける。
 そういった意味では、広義の意味での転売人とは少し違う。
 中国人マフィアのシノギで用いられる転売行為が一般的な定義だろう。そしてその定義は正しい。
 早紀の転売人としての……この界隈の転売人としての相違点はただ一つ。
 信用商売だということだ。
 ブローカーとバイヤーのハイブリッドだ。
 自分でも仕入れ、自分でも買い、自分でも売る。そして自分で管理する。
 後ろ盾のない個人経営の転売人だ。顧客の取り合いが激しい、生き馬の目を抜く世界。
 どんなに身体能力が優れていようとも、女の細腕は『細腕』だ。
 拳銃の一つでも持ち歩いて防御的行動に出たくもなる。
 実際に転売の品を持参して会合の場所に出向いたら、襲いかかられて商品を奪われそうになった。なされるがままにされていたのなら今頃は干渉の難しい国の紛争地帯で慰安専門の道具として自分が売り飛ばされていただろう。
 恐怖を味わう前に用意しておくべきだたと思い、慌てて非合法火器の流通を扱うロシアンマフィアに拳銃の購入を持ちかけると、丁度、全ての在庫が掃かれた後で、倉庫には何もないと無碍にされた。
 電話口のカタコトよりまともな日本語を喋る、年配の女性と思われる密売人は自分が携行している輪胴式なら今すぐ配送してやると宣ったので二つ返事でオーダーした。
 とにかく、火力が欲しかった。
 自分の力では生み出すことができない具体的物理的直接的防衛力が欲しかった。今から考えれば25口径の懐中拳銃でも喜んで飛びついていたのかもしれない。
 1万円前後で購入した中古のS&W M64。2インチのスナブノーズはどこか愛嬌があって三枚目な雰囲気をまとう。
 中古と思って携えていたS&W M64だったが、練習として実際に発砲してみると、馬鹿にできないリコイルとブラストに驚いたものだ。 即座に精密射撃に適さないサイトを悟り、輪胴の薬室の使い道を考えつく。小型のグリップにアダプター。握りやすく大きなリコイルもストレスなく掌が吸収する。
 唯一の難点は早紀が左利きだったことだ。
 輪胴式拳銃で左利きだとデメリットの方が多い。
 特にリロードの際に大きなアクションが要求されるためにロスタイムが命取りだと体が覚えた。
 そこで考え付いたのが、左手の親指でサムピースを押しつつ、左腰前方付近の骨盤の角に輪胴部を叩きつけ、軽い打撃でスイングアウトさせる方法だ。
 輪胴式拳銃は余程使い込んでいなければ、映画でみるように、手首のスナップだけで輪胴部をサイドに振り出すことができない。
 ほとんどの場合、サムピースと噛み合わせて輪胴の中心軸と、本体を甘く固定する凹みがある。この部分が適度に磨耗していないと映画のようなアクションは難しい。
 そしてその手首のスナップだけで振り出す行為ができるまで使い込むと、メーカー送りにして部分交換してもらう必要がある。
 早紀が思いついた方法は些か乱暴ではあるが、最終的にスピードローダーを用いるという点では、右利きと変わらない速度でリロードが可能だった。
 右利きで、正統な使い方をするのなら、サムピースを押し、左手で輪胴の右サイドから押してやり、スイングアウトさせてからエジェクター先端を押し込まないと空薬莢は棄てられない。
 どうせスネークショットの有用性に凝っている間は、倒すべき標的は目前の1人か2人だろう。
 それ以上の数ともなれば、スネークショットでは解決できない数と火力を携えている。
 現実として悠長にスネークショットが初弾として撃てるように輪胴を巧く嵌め込む時間など見当たりはしない……それらは後の、何度かの鉄火場で経験として学習し、勘や感覚や感性として体得していくことになった。
「……ちっ」
 小さく舌打ち。
 S&W M64をショルダーホルスターに落とし込み、爪先で頭部を激しく損壊した男の死体を蹴り上げ、すぐに踵を返す。
 間違えてもこの男が商談相手ではない。
 あらかじめ、連絡で聞いた背格好や年齢から逸脱している。
 そして手はずではどちらかにトラブルが発生した場合は、落ち合う場所で10分以上経過しても何の連絡も遣さなければ、自動的に破談となると話をつけてある。
 今回の商品は落とし損ねたかもしれないが、命と自由を守るためだ。致し方ない。
 それもこれも、この場の闖入者である、射殺した男が原因だと思うと立腹以外のリアクションが取れない。
 どこかで相手側がこのハプニングを監視していて、こちらが不意なトラブルに巻き込まれたのを確認して、破談する時刻まで姿を表さなかったと考えると自然な流れだが、暴力の闖入だけは許せなかった。
 犯罪の発生率の急上昇が叫ばれて久しい昨今、どこの誰がどこでどのような犯罪に巻き込まれても不思議ではない。
 それを鑑みれば、人気のない夜更けの港湾部で取引を行うという行為自体が犯罪の遭遇率を助長しているといえた。
 ともかく、今夜の商談は一度、破棄だ。
 日を改めて相手が売る相手に困っていたら、早紀は喜んで取引に応じる。この件に必要以上に後ろ暗い噂がないので、早紀の方から商談を持ち掛けることも考えている。
――――面白くない夜になったわ。
――――何だか無駄に睡眠時間を削ったみたい。
 踵を返す。早紀はパーカーのハンドウォームに両手を突っ込んでやや猫背気味な姿勢で小走りに走って現場を去る。
 霧笛がもの哀しく泣き続ける風の強い夜だった。
   ※ ※ ※
 賃貸マンション。7階建て。3階フロア。東側4LDK。
 近隣は雑多な住宅街。同程度の、中流階層が賃貸・購入しそうなマンションがいくつか密集して立ち並ぶ風景。
 あたかも眼下に広がる戸建ての家々が荒れた地表を再現し、ところどころで密集して日照権を侵害するマンションの集合地が、荒々しく斧で切り倒された切り株のように朽ちていくのを待っているようだった。
 荒んだ世界観を連想させる住宅街。
 踏み潰せる錯覚すらする、一軒一軒に家族や家庭のドラマツルギーが封じ込められていても、どこか無機質で乾燥したアトモスフィアを滲ませる。
 賃貸マンション。7階建て。3階フロア。東側4LDK。
 そこが周防早紀のねぐらだった。
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