夜、灯りの後ろにて。
近付いては、近付かせてはダメだ。
彼は目前150m先の動体標的である女をサイト越しに見ながら誓う。
最終的に3億円の地下銀行への『招待状』を入手すれば彼の勝ちだ。手下は失ったが、その金でまた人手を雇えばいい。
両の目を開いている。
自動小銃を扱う上で、ワークスペースを確保しているのなら両目は開いていた方が照準が定めやすい。今は精密な狙撃など必要ない。
人体の適当な部位に命中すればそれでことが足りる。
ましてや150mという普通なら絶対に当てられると自負する距離であっても、このように複雑怪奇に強風が入り乱れて光陰が点在する場所で、尚且つ遮蔽の多い状況では5.56mmの小口径高速弾は確かな弾道を描いて直進してくれない。
風読みを立てる暇もない。スポッターもいない。そもそも狙撃手ではない。M16を扱う荒事専門の強盗でしかないのだ。
フルオート射撃を放つ。すぐに弾倉は空になった。足止めの役にも立たない無駄弾に舌打ち。ワークスペースを保持したまま空の弾倉を自重で落とし、左手に用意していた予備弾倉を叩き込む。
「?」
妙だ。
あの女は同じルートを辿っている……同じルートだと思われる通路を逃げ道に選んでいる。
つまり、折角、今し方遁走を始めたのに、廃工場から倉庫街、廃工場へとグルグルと走り回っている。
流石に、風が一旦落ちつく倉庫の隙間に飛び込む真似はしなかった。風が1秒でも止まれば音よりも早く小口径高速弾が女の背中を捉えられるのに。……恐らく、向かい風に向かって突き進んでいるのだろう。
「?」
妙だ。
あの女、フライトジャケットのハンドウォームから携帯端末を取り出して、頻繁に左右のハンドウォームやズボンの尻ポケットに入れ替えている。何が狙いだ?
幾つかの角を曲がる。視界から1、2秒、女の姿が消えるたびに不安が募る。
――――まさか……。
携帯端末がどのポケットに押し込められているのか解らなくなった。
不用意に女をフルオートや指切り連射で蜂の巣にできなくなった。
セミオートでの足止めを目的とする、頼りない射撃しかできない。
それも狙い難い頭部か、常に大きく動いている脚部しか狙えない。
『体のどこに携帯端末を避難させたのか解らないのだ』。それをも構わず、被弾させて万が一にでも携帯端末が破損すれば女を仕留めても彼の大敗北だ。
舌打ち。
彼女の背中を狙うとみせかけた指切り連射を見舞う。
当てるつもりはない。執拗に追い立てている者がいると思わせればそれでいい。
彼自身がもっと速く走り、女に追い付けば問題ないだろうが、追い付きはできるが、それだけ彼女の拳銃の射程に納まるということだ。乱射しながらの追撃は無駄弾をばら撒くだけで神頼みでしかない。
理想は真正面からバイタルゾーンに……心臓に、セミオートで1発。風が止む。あるいは吹き込まない場所で、真正面から、風上を取り、的確な狙撃が必要だ。
無風状態なら250m程度の距離なら射的屋でない彼でも充分に勝算はあった。
彼の頭の中で風の影響を受けないポイントを基準にしたマッピングが展開される。
この場所での銃撃戦は初めてだが、かなり走らされたので空間感覚は掴んだ。
――――先回りできる!
――――あの場所なら風は一旦途切れる!
彼はきびすを返して倉庫と倉庫の隙間の保守点検用通路に飛び込んで先回りを目論む。
彼の脳内では完璧だった。
彼の脳内では不確定要素が存在するという点を除けば完璧だった。
走りながらも彼は、尚も銃撃を続ける追撃者を演じるために虚空に向かって発砲を続けた。
セミオート。フルオート。指切り連射。
走る。女も走っているはずだ。風下にいる彼の耳に女の足音が届く。
歩幅は一定。しかし、彼は近年でも覚えがないほどに必死で走った。過呼吸に似た息苦しさを覚えたとき、視界が広がり、あれほど全身を叩きつけていた風がふっと不意に止む。
走っていた時間は2分もない。
ショートカットを繰り返し、女の先に回り込むことに全力を注いだ。肩で息をしていた。前方150m左手側で煌々と大きな光源を提供してくれる自動販売機を見た。
季節と場所柄を弁えない清涼感のあるペインティングが肩で息をして喉を嗄らしている彼にはオアシスにしか見えなかった。
――――さっさと仕上げて……。
――――冷たい水を買おう!
彼は立ち止まると同時に地面に伏せてベトナム仕様のM16をプローンで構える。
彼の勘では女との邂逅まであと5秒。
地面の冷たさが彼の体温を急激に下げる。
地面が濡れているわけではないのでクールダウンには打ってつけだった。
クールダウンでも長いプローンを維持するのは危険だ。
今度は逆に冷たく硬い地面に体力を奪われて極度の疲労に襲われる。
女がそこの角から飛び出るまでの3秒が長い。
ほんの少し前は自動販売機の向こうで立射に専念したのでミスを犯したが、今度は違う。
確実に、仕留められる。
呼吸に逸る震動を抑え、乾燥する空気に晒されて涙が滲む目を堪えてそのときを待つ。
彼の計算なら150m以上先の辻から飛び出した女はこちらに背後を向けて走り去る。
陰から飛び出る影。
「!」
予想外。影の主……女はこちらに向かって走ってくる。
錯乱したか、血迷ったか、気が触れたか、のいずれかのようなバタバタとした無様な走り方。
大きなアクションの割りには全然、速度が出ていない。
狙ってくれといっているようなものだ。特に心臓を。
フライトジャケットを胸の下まで締めた格好。
左右の腰や腹部に照準は定めない。携帯端末が入っているかもしれない。
腕部頭部は的としては小さ過ぎる。脚部は無様で大きな動作の走り方のお陰で照準が定め難い。
自ずと、狙うは……左胸。
だが、5.56mmの銃口はコンマ数度横に振り、右胸を狙った。
あの女はこれを狙っているのだ。……彼が左胸を射抜くのを狙っているのだ。
定番としてフライトジャケットの左胸には差し入れ形の内ポケットが付いている。そこに携帯端末を仕舞っているのなら不用意に心臓を狙う1発を叩き込むことはできない。
ハンドウォームに流れ弾が当るよりも高確率で内ポケットの内部にあるかもしれない携帯端末に被弾する……従って、狙うのは右胸だ!
胸骨を挟んで、大きな標的で、バイタルゾーンで、狙い易い右胸に向かって発砲。
150m先で女の体は独楽が回転するように軸足を中心に華麗に踊る。
手応えはあった。
女の体は軸足を中心に一回転した後、地面に大の字に倒れる。
携えていたと思われるスナブノーズらしいシルエットの拳銃が苦し紛れに発砲されたが、それは恐らく、全身が硬直した際に引き金を引き絞っただけだろう。
その証拠に明後日の方向を向いている銃口から弾き出された拳銃の弾頭は暗がりに消え失せ、次弾の撃発はなかった。
女は冷たいコンクリの地面で横たわったままだ。
女の下半身が自動販売機の発する照明で照らし出される。
爪先が痙攣を起こしている。あとは放置しておけば徐々に死んでいく……。
彼は勝負の行方に満足し、ベトナム仕様のM16にセフティを掛け、銃口を空に向けて、左手を作業着に似た黒い戦闘服のポケットに手を突っ込んで小銭を探した。
携帯端末を探すより、女に止めを刺すより、自動販売機で喉を潤す飲料水を買うことを優先した。
彼は目前150m先の動体標的である女をサイト越しに見ながら誓う。
最終的に3億円の地下銀行への『招待状』を入手すれば彼の勝ちだ。手下は失ったが、その金でまた人手を雇えばいい。
両の目を開いている。
自動小銃を扱う上で、ワークスペースを確保しているのなら両目は開いていた方が照準が定めやすい。今は精密な狙撃など必要ない。
人体の適当な部位に命中すればそれでことが足りる。
ましてや150mという普通なら絶対に当てられると自負する距離であっても、このように複雑怪奇に強風が入り乱れて光陰が点在する場所で、尚且つ遮蔽の多い状況では5.56mmの小口径高速弾は確かな弾道を描いて直進してくれない。
風読みを立てる暇もない。スポッターもいない。そもそも狙撃手ではない。M16を扱う荒事専門の強盗でしかないのだ。
フルオート射撃を放つ。すぐに弾倉は空になった。足止めの役にも立たない無駄弾に舌打ち。ワークスペースを保持したまま空の弾倉を自重で落とし、左手に用意していた予備弾倉を叩き込む。
「?」
妙だ。
あの女は同じルートを辿っている……同じルートだと思われる通路を逃げ道に選んでいる。
つまり、折角、今し方遁走を始めたのに、廃工場から倉庫街、廃工場へとグルグルと走り回っている。
流石に、風が一旦落ちつく倉庫の隙間に飛び込む真似はしなかった。風が1秒でも止まれば音よりも早く小口径高速弾が女の背中を捉えられるのに。……恐らく、向かい風に向かって突き進んでいるのだろう。
「?」
妙だ。
あの女、フライトジャケットのハンドウォームから携帯端末を取り出して、頻繁に左右のハンドウォームやズボンの尻ポケットに入れ替えている。何が狙いだ?
幾つかの角を曲がる。視界から1、2秒、女の姿が消えるたびに不安が募る。
――――まさか……。
携帯端末がどのポケットに押し込められているのか解らなくなった。
不用意に女をフルオートや指切り連射で蜂の巣にできなくなった。
セミオートでの足止めを目的とする、頼りない射撃しかできない。
それも狙い難い頭部か、常に大きく動いている脚部しか狙えない。
『体のどこに携帯端末を避難させたのか解らないのだ』。それをも構わず、被弾させて万が一にでも携帯端末が破損すれば女を仕留めても彼の大敗北だ。
舌打ち。
彼女の背中を狙うとみせかけた指切り連射を見舞う。
当てるつもりはない。執拗に追い立てている者がいると思わせればそれでいい。
彼自身がもっと速く走り、女に追い付けば問題ないだろうが、追い付きはできるが、それだけ彼女の拳銃の射程に納まるということだ。乱射しながらの追撃は無駄弾をばら撒くだけで神頼みでしかない。
理想は真正面からバイタルゾーンに……心臓に、セミオートで1発。風が止む。あるいは吹き込まない場所で、真正面から、風上を取り、的確な狙撃が必要だ。
無風状態なら250m程度の距離なら射的屋でない彼でも充分に勝算はあった。
彼の頭の中で風の影響を受けないポイントを基準にしたマッピングが展開される。
この場所での銃撃戦は初めてだが、かなり走らされたので空間感覚は掴んだ。
――――先回りできる!
――――あの場所なら風は一旦途切れる!
彼はきびすを返して倉庫と倉庫の隙間の保守点検用通路に飛び込んで先回りを目論む。
彼の脳内では完璧だった。
彼の脳内では不確定要素が存在するという点を除けば完璧だった。
走りながらも彼は、尚も銃撃を続ける追撃者を演じるために虚空に向かって発砲を続けた。
セミオート。フルオート。指切り連射。
走る。女も走っているはずだ。風下にいる彼の耳に女の足音が届く。
歩幅は一定。しかし、彼は近年でも覚えがないほどに必死で走った。過呼吸に似た息苦しさを覚えたとき、視界が広がり、あれほど全身を叩きつけていた風がふっと不意に止む。
走っていた時間は2分もない。
ショートカットを繰り返し、女の先に回り込むことに全力を注いだ。肩で息をしていた。前方150m左手側で煌々と大きな光源を提供してくれる自動販売機を見た。
季節と場所柄を弁えない清涼感のあるペインティングが肩で息をして喉を嗄らしている彼にはオアシスにしか見えなかった。
――――さっさと仕上げて……。
――――冷たい水を買おう!
彼は立ち止まると同時に地面に伏せてベトナム仕様のM16をプローンで構える。
彼の勘では女との邂逅まであと5秒。
地面の冷たさが彼の体温を急激に下げる。
地面が濡れているわけではないのでクールダウンには打ってつけだった。
クールダウンでも長いプローンを維持するのは危険だ。
今度は逆に冷たく硬い地面に体力を奪われて極度の疲労に襲われる。
女がそこの角から飛び出るまでの3秒が長い。
ほんの少し前は自動販売機の向こうで立射に専念したのでミスを犯したが、今度は違う。
確実に、仕留められる。
呼吸に逸る震動を抑え、乾燥する空気に晒されて涙が滲む目を堪えてそのときを待つ。
彼の計算なら150m以上先の辻から飛び出した女はこちらに背後を向けて走り去る。
陰から飛び出る影。
「!」
予想外。影の主……女はこちらに向かって走ってくる。
錯乱したか、血迷ったか、気が触れたか、のいずれかのようなバタバタとした無様な走り方。
大きなアクションの割りには全然、速度が出ていない。
狙ってくれといっているようなものだ。特に心臓を。
フライトジャケットを胸の下まで締めた格好。
左右の腰や腹部に照準は定めない。携帯端末が入っているかもしれない。
腕部頭部は的としては小さ過ぎる。脚部は無様で大きな動作の走り方のお陰で照準が定め難い。
自ずと、狙うは……左胸。
だが、5.56mmの銃口はコンマ数度横に振り、右胸を狙った。
あの女はこれを狙っているのだ。……彼が左胸を射抜くのを狙っているのだ。
定番としてフライトジャケットの左胸には差し入れ形の内ポケットが付いている。そこに携帯端末を仕舞っているのなら不用意に心臓を狙う1発を叩き込むことはできない。
ハンドウォームに流れ弾が当るよりも高確率で内ポケットの内部にあるかもしれない携帯端末に被弾する……従って、狙うのは右胸だ!
胸骨を挟んで、大きな標的で、バイタルゾーンで、狙い易い右胸に向かって発砲。
150m先で女の体は独楽が回転するように軸足を中心に華麗に踊る。
手応えはあった。
女の体は軸足を中心に一回転した後、地面に大の字に倒れる。
携えていたと思われるスナブノーズらしいシルエットの拳銃が苦し紛れに発砲されたが、それは恐らく、全身が硬直した際に引き金を引き絞っただけだろう。
その証拠に明後日の方向を向いている銃口から弾き出された拳銃の弾頭は暗がりに消え失せ、次弾の撃発はなかった。
女は冷たいコンクリの地面で横たわったままだ。
女の下半身が自動販売機の発する照明で照らし出される。
爪先が痙攣を起こしている。あとは放置しておけば徐々に死んでいく……。
彼は勝負の行方に満足し、ベトナム仕様のM16にセフティを掛け、銃口を空に向けて、左手を作業着に似た黒い戦闘服のポケットに手を突っ込んで小銭を探した。
携帯端末を探すより、女に止めを刺すより、自動販売機で喉を潤す飲料水を買うことを優先した。