夜、灯りの後ろにて。

 だのに、バラクラバの向こうの黒い瞳に変化はない。
「……!」
 男は左手首を失っていた。
 左手首を翳すことでスネークショットの大半を塞き止めて自分の闇稼業としての命と引き換えにした。
――――そんな!
 薬室は空。正確には空薬莢が6個。
 左手首を失えど、その男の右手首のベレッタM92FSは健在。
 男の左手首は無残に引き千切られたのに似た残骸をぶら下げていたが、新陳代謝が停止しているために動脈から血流が迸るほどではなかった。
 脂の混じった血がダラダラと垂れ落ちる。
 夜陰の中でのことなので、血の色は機械油が垂れ落ちるのに似ていていた。
 男は疼く痛みと自身のパニックと戦いながら、震える右手を早紀の顔面に向ける。
 早紀にはその銃口の軌道がみえていたのに、恐怖に駆られて何も思い浮かばなかった。『薬室には6個の空薬莢しかないのだ』。
 異様にゆっくりと銃口が自分の顔面を捉えようと移動する。
 早紀は恐怖からの脱力で、地面に仰向けに倒れてしまい、心の芯から寒気を感じている。
 ここでお仕舞いだと本当に悟った。
 苦し紛れに両手をギュッと握る。
――――……?
 左掌に辺りに散らばった実包の1発に触れる。右手はさらにS&W M64のグリップを強く掴む。
 1発の実包を握ったところで『薬室には6個の空薬莢しかないのだ』。
 そう。
 『薬室には6個の空薬莢しかないのだ』。
 ――――!
 ――――まだまだ!
 ゆっくりと顔面に向かう銃口。
 ベレッタM92FSの右フレームをS&W M64の……右掌の中でクルリと回転して早紀の顔の方に38口径の銃口が向く。
 親指でサムピースを押し込み、そのS&W M64でベレッタM92FSの硬いフレームを叩きつける。
 強かに叩き付けられたS&W M64のシリンダーは外れ、空かさず左手の親指でエジェクターを押す。
 ヨーク部分の耐久性も考えずに渾身全力でエジェクターを押し込む。
 エジェクターに掻き出された6個の空薬莢が、勢い良く男の顔面を叩く。
 既に冷えて軽くなっている空薬莢など、全てが顔面に命中しても『目を閉じさせる以上の効果はない』。
 バラクラバを被っているので文字通り痛くも痒くもないだろう。
 男は不意に視界に、顔面に素早く向かってくる『何か』を視認すると条件反射的に視界や顔面を守ろうと、腕をかざし防御の反応を見せた。
 男は両腕を顔面手前で交差させて顔面を守った。
 カチリ。
 ラッチが噛み合う音。
 男が顔面を塞いだ隙に左手に握った1発の実包を薬室に押し込み、シリンダーを定位置に押し込んだ。
「!」
「!」
 目の前の女の顔に精気が戻ったのを気配で感じた男は、慌ててベレッタM92FSの銃口を女の顔面に向けようと再び銃口を振る。
 男の胸部を、絶対に外さない射程に捉えた早紀は、銃口を向けるや否や、引き金をダブルアクションで引き金を引き絞る。
「!」
 空撃ち。虚しく。初弾は撃発されない。
 とにかく、薬室に1発装填し、ろくに薬室の嵌る位置も確認せずにシリンダーを押し戻したのだ。
 初弾が必ずたった1発の実包を撃発させるとは限らない。
 吹き出る冷や汗。
 コンマ数秒での世界での出来事。
 このまま、男のベレッタM92FSが定められて引き金を引かれるのか。
 早紀のS&W M64は『何度目の引き金』で装填した1発が撃ち出されるのか。
 早紀の焦りを代弁する、荒々しい空撃ちが続く。
 銃声。
 両者、同時に発砲。
 1m30cmの距離での同時の発砲。
 早紀の顔面左側のコンクリに激突した9mmパラベラムのフルメタルジャケットは粉々に砕け、その破片が早紀の頬をやや深く切る。
 男は38口径のジャケッテッドホローポイントを顎下から叩き込まれて、スローモーションのフィルムを見ているようにゆっくりと仰向けに倒れた。
「…………」
――――生きてる……。
 薄っすらと硝煙が纏わり付くS&W M64の銃口を虚空に向けたままの姿勢。
 眦から大粒の涙がぼろぼろと零れる。
 引き金を合計6回引いた。
 6回目で不発だったのなら……最近のファクトリーロードで不発の可能性は低いが、万が一不発だったのなら、早紀の顔面は吹き飛んでいた。 有り得ない、起こり得ない可能性が、最悪の可能性が今頃、噴出して迸る。その湧き上がりを塞き止めようもなく、彼女の心を覆いつくし……小便を漏らした。
 嗚咽が込み上げる。
 何もかもを放り出して逃げ出したいと本気で心の底から純粋に思った。願った。臨んだ。欲っした。
 現実を生きている。
 S&W M64は人の血を啜れば啜るほど鈍く美しく輝く。
 いまだに頭上に翳しているステンレスの相棒は美しい。憎らしいほどに美しい。
 彼女が自分を取り戻し、上半身を起こすまで5分。
 嗚咽しながら、周りに散らばったポケットやポーチから散らばったモノを回収するのに3分。
 彼女が自分の頬を叩いて活を入れるまで2分。
 10分の間に自動小銃からの発砲がなかったのは奇跡だった。
 股間から下が小便で濡れている不快感を無視……無視したいがどうしても内股に貼り付く湿度のある不快感は生理的に無視できない。
 パンツとパンストを脱いだら楽になるだろうか、と考えながら再び走り出す。
 自分が乗りつけた盗難車を停めてある空き地を目指して。
 この辺りで車を停めておいても目立たない場所はそこしかない。
 銃撃はぱったりと止んだ。
 先ほどまでの銃声や、早紀の周囲を削り取るように擦過する弾頭が沈黙する。
 不気味過ぎる静けさ。
 この場所のこの時間の本来の静けさなのだろう。
 しかし、耳の鼓膜が本当に破れてしまったのかと思う静けさは、何かが潜んでいる闇夜を必要以上に膨らませる。
 辻の街灯で浮かび上がる自分の影に驚いて左手のS&W M64の銃口を走らせたりもした。
 股間は文字通りの洪水。
 頭皮は何とも無いが、頭髪がのっぴきならぬ事態になっていると推測できる。
 左耳の鼓膜が痛い……鼓膜は破れていないだろうが、音を正確に拾えないのでしばらくは使いものにならないだろう。
 眦に乾ききらない涙。
 酷い状況だ。ただの、どこにでもいる、普通の転売人の範疇を超えた事態だ。
「……!
――――あ!
――――ツイてる!
 忘れ去られたような自動販売機。
 飲料水が即座に視界に飛び込む。
 保守点検に訪れる作業員用に設置された物だろう。
 自動販売機の周りには一斗缶で拵えた灰皿も見られる。一服入れたい衝動が再び湧き上がる。
 思わず、右手をズボンのポケットに突っ込み、小銭入れを探る。
 自動販売機に近寄り、取り出した小銭を投入しようした刹那、自動販売機の前で立ち止まる早紀に小口径高速弾のフルオート射撃が浴びせられる。
――――そんなことだろうと思ってた!
 左手のS&W M64を持つ手には……グリップの保持を親指と人差し指だけに任せ、残りの指はファンデーション用のコンパクトを開いた状態で持っていた。
 そのコンパクトで自分が一番無防備になり、一番無防備な部分を晒す、体の右側面の向こうの闇を映していたのだ。
 その小さな世界に、突如マズルフラッシュが咲く直前に、暗視スコープか何かを身に付けている反射が映り、自動販売機の陰に飛び込むことができた。
 自動販売機の横腹に小口径高速弾が次々と弾痕を拵える。
 自動販売機を震わせる着弾の振動を感じながら、多角的にコンパクトを翳し、遁走できるルートと安全が確保できる遮蔽を捜索する。
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