夜、灯りの後ろにて。
胸部は掌一枚分の面積ほど擂鉢上に抉れていた。表皮がごっそりと削られ、胸骨が剥き出しになっている。だが、即死に繋がる負傷ではない。
「…………」
自分で作り出した惨状とはいえ、久し振りにスネークショットの直撃を間近で見たので軽い吐き気を覚える。
止めを刺してやる義理はない。
無力化を確認するときびすを返して再び走る。
走る速度を少し落としてS&W M64を補弾する。4個の空薬莢を捨て、新しいスネークショットを薬室に落とし込む。
暗がりの中、右利き専門の輪胴式を左手に握って1発ずつ再装填するのは、今ではもう慣れた。
残り、1人+1人。
丁寧に全員を無力化してやろうとは考えていない。
この場から離脱できれば早紀の勝利だ。……ただ、巧妙に逃走ルートを操作されているらしく、現場付近に乗りつけた盗難車までの距離がどんどん遠くなる気がする。
本来の取引場所だった廃工場から随分と離れた。
自転車ならしれた距離だが、自前の脚で走りっぱなしなので疲労も蓄積する。
一口でも飲料に適した水を嚥下できればまだまだ走れる余裕はあるが、長距離ランナーのように整備された道を上品に走っているのではない。
無粋極まりない鉄の塊りを携えて走っているのだ。片手に1kg近い錘を持って『長距離ではなく長い時間』、走り続けると体の幹にブレが発生し、そのブレが大きく体幹を揺らして必要以上に疲労を誘う。
時代劇の役者が、刀を佩いたまま速度を落とさず自在に走り回る【なんば歩き】をマスターできなかったために腰を痛めて廃業したという話しを聞いたことがある。そのどこかで見知った文言を突然思い出して痛感している。……自分の事のように。
自分の呼吸だけが制圧する世界。
過呼吸に似た息苦しさ。
全身を舐める汗が不快。
シガリロの味を連想して涎が出る。
突如、辻が現れた。
否、辻の角に規則正しく配置されていたはずの蛍光灯が、故障で辻を照らしていなかった。そこにくるまで、そこが辻だとは思わなかった。
真正面はトラック2台が擦れ違うことができるやや広い道路。
目前8m先に次の……遮蔽が豊かな倉庫の隙間があるのに走りこむことができなかった。
「よう……」
銃口。自動拳銃。ベレッタM92FSのそれ。
シャープと流麗が矛盾なく交わるイタリアらしいデザインの大型軍用拳銃。
左手側の角からそれの銃口を向けられる。
間一髪の逆転劇など、ない。
無慈悲に引き金が引かれる。カチリとも音が聞こえない。撃鉄を起こしてここで待機していたのだろう。
間一髪の逆転劇など、ない。
幸運に頼るだけの間一髪の逆転劇など、ない。
あるのは臨機応変、当意即妙の自分の腕前と根性と経験だけだ。
目を硬く瞑って、早紀は自分の左側頭部を狙っているであろうベレッタM92FSの銃口に、自分から地面を蹴って左肩から体当たりをする。
銃声。早紀の美しい髪が大きく舞う。髪の隙間に僅かに開く孔。髪が焦げる火葬場のような臭い。
男は「よう」と一声掛ける、三下のような格好をつけなければこのような展開にはならなかったと後悔している。……そんな顔つきだった。
男が先ほど発砲した刹那に、眼前に迫った黒い物体は髪を寒風に靡かせた標的の女の頭部だった。
大きくひるがえる髪のカーテンに視界の一部を遮られた。
折角引き金を引いたのに、それは苦し紛れの一発として黒い大きなカーテン――大きく舞う、早紀の髪――を穿いただけだった。
早紀は硬く目を閉じていた。祈る気持ちは、ない。
ただ、こうすればこの必殺の銃弾から逃げられると思っただけだ。
他意はない。
左側頭部で瞬いたマズルフラッシュ。左耳の鼓膜が利かなくなった。鼓膜の奥を針で抉られる痛みを感じていないので、鼓膜は無事。破れてはいないだろう。
頭部を襲う銃火は分厚い黒髪で殆どカバーできた。
尤も、マズルフラッシュに嘗められた部分は無残にも焦げ散らかしているはずなので、美容室への予約が必要だな、と思う。
両眼は硬く閉じていたので火薬滓から守ることができた。
顔面の表皮を高温のガスで炙られたが火傷には至らない程度。あと一拍遅ければ顔面は火薬滓と高温のガスの直撃でアバタ顔になっていたかもしれない。
男が「よう」と声を掛けてイニシアティブを捨ててくれたお陰で様々な勝機がみえただけに過ぎない。
男が引き金を引いて1秒後には早紀は男の体に倒れこむように密接していた。
「……ちっ」
好機にみえるが早紀は舌打ち。
この体勢では……男が左手側では左手に構えたS&W M64の本領が発揮できない。右手にスイッチした瞬間に、男の肘鉄が早紀の後頭部に鋭く降り注ぐ。
男もできるだけ距離を稼いで発砲したいらしい。銃を仕舞っての殴り合いという考えはないようだ。
男が右手首を不自然に折り発砲。それを早紀は、右手を払って銃口を逸らせる。
素早く左手にS&W M64を放り投げてスイッチ。空かさずダブルアクションで発砲する……が、その直前に男はS&W M64を握る手を引き、自分の体の向こうでスネークショットを無為に発砲させた。
歯軋りしながら早紀は男の左爪先を踏みつけ、小癪な激痛で握られたままの左手を痛み緩ませて解放させる。
すぐに、左手首を腰に退いてボディブローでも叩き込むような姿勢でS&W M64を構える。
「!」
男のベレッタM92FSが振り下ろされ、それを半歩退いて除ける。
――――しまった!
距離が開く。
咄嗟に右半身になりつつ、左足を軸足に爪先を蹴り上げて男の銃口を逸らせる。虚空に吼えて消える9mmパラベラム。
――――見えた!
男の左脇腹に隙をみつけた早紀。右半身のままS&W M64の引き金をダブルタップ。
……彼女にとっての必殺の距離からの発砲は、男の左脇をさらに左に逸れて、ブリキの壁に生身の拳で殴りつけたような跡を拵える。
男の右手のベレッタM92FSがS&W M64と同時に発砲されたのだ。
僅かに左軸足の爪先の向きを左側へ向けたので直撃は避けられたが、貴重な2発を無駄に消費した。
黒いバラクラバを被り黒い戦闘服に似たブルゾンを着たその男の技量は凄まじい。
膝蹴りと肘打ちを多用し、早紀の至近距離からの打撃を全て攻撃的受けで迎撃し、『必ず発砲できる隙間から必ず発砲する』のだ。
弾倉交換の隙を狙っている早紀。
その早紀の魂胆も計算のうちだろう。胴体に直接の打撃や発砲になると、やや鈍るのは、携帯端末がどこに仕舞ってあるのか解らないからの躊躇いだろう。
空かさず近接し、S&W M64を右手にスイッチ。男の裏をかいて、発砲するもグリップエンドを男の左手の掌底が弾き飛ばして、冷たい夜空に38口径の号砲を打ち鳴らす行為に終わる。
上空を向いたS&W M64を右掌から落とし、左手で受け止め、男の視界の死角から腹部へと銃口を走らせるが、外払いを狙った膝蹴りが早紀の左手を弾く。
膝の角がシリンダーに強打し暴発。
発砲する気もないのに1発を消費させられる。
薬室の残りは1発。
「!」
――――え?
男のローキックの軌道を描いた脚払い。
体勢が右側に大きく崩れる。
虚を突かれるも……そこに最大のチャンスをみつける。
男の右腕が男自身の死角を作り……男からは『今、右手にスイッチしたS&W M64』が見えないはずだ。倒れざまに、地面に倒れ込む前に、発砲する。
発砲。渾身の発砲。
地面に倒れこむ。ポーチやポケットのスピードローダーやバラ弾やシガリロの缶が衣服やポーチから飛び出る。
手応えは充分にあった。着弾する生々しい粘着質な音を聞いた。
「…………」
自分で作り出した惨状とはいえ、久し振りにスネークショットの直撃を間近で見たので軽い吐き気を覚える。
止めを刺してやる義理はない。
無力化を確認するときびすを返して再び走る。
走る速度を少し落としてS&W M64を補弾する。4個の空薬莢を捨て、新しいスネークショットを薬室に落とし込む。
暗がりの中、右利き専門の輪胴式を左手に握って1発ずつ再装填するのは、今ではもう慣れた。
残り、1人+1人。
丁寧に全員を無力化してやろうとは考えていない。
この場から離脱できれば早紀の勝利だ。……ただ、巧妙に逃走ルートを操作されているらしく、現場付近に乗りつけた盗難車までの距離がどんどん遠くなる気がする。
本来の取引場所だった廃工場から随分と離れた。
自転車ならしれた距離だが、自前の脚で走りっぱなしなので疲労も蓄積する。
一口でも飲料に適した水を嚥下できればまだまだ走れる余裕はあるが、長距離ランナーのように整備された道を上品に走っているのではない。
無粋極まりない鉄の塊りを携えて走っているのだ。片手に1kg近い錘を持って『長距離ではなく長い時間』、走り続けると体の幹にブレが発生し、そのブレが大きく体幹を揺らして必要以上に疲労を誘う。
時代劇の役者が、刀を佩いたまま速度を落とさず自在に走り回る【なんば歩き】をマスターできなかったために腰を痛めて廃業したという話しを聞いたことがある。そのどこかで見知った文言を突然思い出して痛感している。……自分の事のように。
自分の呼吸だけが制圧する世界。
過呼吸に似た息苦しさ。
全身を舐める汗が不快。
シガリロの味を連想して涎が出る。
突如、辻が現れた。
否、辻の角に規則正しく配置されていたはずの蛍光灯が、故障で辻を照らしていなかった。そこにくるまで、そこが辻だとは思わなかった。
真正面はトラック2台が擦れ違うことができるやや広い道路。
目前8m先に次の……遮蔽が豊かな倉庫の隙間があるのに走りこむことができなかった。
「よう……」
銃口。自動拳銃。ベレッタM92FSのそれ。
シャープと流麗が矛盾なく交わるイタリアらしいデザインの大型軍用拳銃。
左手側の角からそれの銃口を向けられる。
間一髪の逆転劇など、ない。
無慈悲に引き金が引かれる。カチリとも音が聞こえない。撃鉄を起こしてここで待機していたのだろう。
間一髪の逆転劇など、ない。
幸運に頼るだけの間一髪の逆転劇など、ない。
あるのは臨機応変、当意即妙の自分の腕前と根性と経験だけだ。
目を硬く瞑って、早紀は自分の左側頭部を狙っているであろうベレッタM92FSの銃口に、自分から地面を蹴って左肩から体当たりをする。
銃声。早紀の美しい髪が大きく舞う。髪の隙間に僅かに開く孔。髪が焦げる火葬場のような臭い。
男は「よう」と一声掛ける、三下のような格好をつけなければこのような展開にはならなかったと後悔している。……そんな顔つきだった。
男が先ほど発砲した刹那に、眼前に迫った黒い物体は髪を寒風に靡かせた標的の女の頭部だった。
大きくひるがえる髪のカーテンに視界の一部を遮られた。
折角引き金を引いたのに、それは苦し紛れの一発として黒い大きなカーテン――大きく舞う、早紀の髪――を穿いただけだった。
早紀は硬く目を閉じていた。祈る気持ちは、ない。
ただ、こうすればこの必殺の銃弾から逃げられると思っただけだ。
他意はない。
左側頭部で瞬いたマズルフラッシュ。左耳の鼓膜が利かなくなった。鼓膜の奥を針で抉られる痛みを感じていないので、鼓膜は無事。破れてはいないだろう。
頭部を襲う銃火は分厚い黒髪で殆どカバーできた。
尤も、マズルフラッシュに嘗められた部分は無残にも焦げ散らかしているはずなので、美容室への予約が必要だな、と思う。
両眼は硬く閉じていたので火薬滓から守ることができた。
顔面の表皮を高温のガスで炙られたが火傷には至らない程度。あと一拍遅ければ顔面は火薬滓と高温のガスの直撃でアバタ顔になっていたかもしれない。
男が「よう」と声を掛けてイニシアティブを捨ててくれたお陰で様々な勝機がみえただけに過ぎない。
男が引き金を引いて1秒後には早紀は男の体に倒れこむように密接していた。
「……ちっ」
好機にみえるが早紀は舌打ち。
この体勢では……男が左手側では左手に構えたS&W M64の本領が発揮できない。右手にスイッチした瞬間に、男の肘鉄が早紀の後頭部に鋭く降り注ぐ。
男もできるだけ距離を稼いで発砲したいらしい。銃を仕舞っての殴り合いという考えはないようだ。
男が右手首を不自然に折り発砲。それを早紀は、右手を払って銃口を逸らせる。
素早く左手にS&W M64を放り投げてスイッチ。空かさずダブルアクションで発砲する……が、その直前に男はS&W M64を握る手を引き、自分の体の向こうでスネークショットを無為に発砲させた。
歯軋りしながら早紀は男の左爪先を踏みつけ、小癪な激痛で握られたままの左手を痛み緩ませて解放させる。
すぐに、左手首を腰に退いてボディブローでも叩き込むような姿勢でS&W M64を構える。
「!」
男のベレッタM92FSが振り下ろされ、それを半歩退いて除ける。
――――しまった!
距離が開く。
咄嗟に右半身になりつつ、左足を軸足に爪先を蹴り上げて男の銃口を逸らせる。虚空に吼えて消える9mmパラベラム。
――――見えた!
男の左脇腹に隙をみつけた早紀。右半身のままS&W M64の引き金をダブルタップ。
……彼女にとっての必殺の距離からの発砲は、男の左脇をさらに左に逸れて、ブリキの壁に生身の拳で殴りつけたような跡を拵える。
男の右手のベレッタM92FSがS&W M64と同時に発砲されたのだ。
僅かに左軸足の爪先の向きを左側へ向けたので直撃は避けられたが、貴重な2発を無駄に消費した。
黒いバラクラバを被り黒い戦闘服に似たブルゾンを着たその男の技量は凄まじい。
膝蹴りと肘打ちを多用し、早紀の至近距離からの打撃を全て攻撃的受けで迎撃し、『必ず発砲できる隙間から必ず発砲する』のだ。
弾倉交換の隙を狙っている早紀。
その早紀の魂胆も計算のうちだろう。胴体に直接の打撃や発砲になると、やや鈍るのは、携帯端末がどこに仕舞ってあるのか解らないからの躊躇いだろう。
空かさず近接し、S&W M64を右手にスイッチ。男の裏をかいて、発砲するもグリップエンドを男の左手の掌底が弾き飛ばして、冷たい夜空に38口径の号砲を打ち鳴らす行為に終わる。
上空を向いたS&W M64を右掌から落とし、左手で受け止め、男の視界の死角から腹部へと銃口を走らせるが、外払いを狙った膝蹴りが早紀の左手を弾く。
膝の角がシリンダーに強打し暴発。
発砲する気もないのに1発を消費させられる。
薬室の残りは1発。
「!」
――――え?
男のローキックの軌道を描いた脚払い。
体勢が右側に大きく崩れる。
虚を突かれるも……そこに最大のチャンスをみつける。
男の右腕が男自身の死角を作り……男からは『今、右手にスイッチしたS&W M64』が見えないはずだ。倒れざまに、地面に倒れ込む前に、発砲する。
発砲。渾身の発砲。
地面に倒れこむ。ポーチやポケットのスピードローダーやバラ弾やシガリロの缶が衣服やポーチから飛び出る。
手応えは充分にあった。着弾する生々しい粘着質な音を聞いた。