速やかに、去(い)ね。
夕暮れ時の古い洋館の裏口に一人の女性。
セミロングの彼女はアンニュイな表情で頭を少し垂れてラッキーストライクライトを無言で吸っている。
雑草が膝下まで伸びている敷地内。
黄昏時に人気の無い寂れた場所で全く不釣合いな美女が一言も発せず紫煙を乱暴に吐く。
途中何度か苛々した視線を腕時計に落としながら舌打ちしていた。
大きな瞳にやや童顔気味な顔のパーツ。目鼻は筋が通っているが、今の怒り顔の彼女には似合わない。笑顔はきっと素敵な事だろう。
夏物の麻製ジャケットに薄い生地のスラックス。何れもベージュを基調とした目立たない色合いだった。
足元に根元まで灰になったラッキーストライクライトを吐き捨てるとブーツの爪先で無造作に踏み躙り顔をサッと上げた。
左脇のホルスターから得物を抜く。弾倉確認。安全装置解除。深呼吸。
全長17cm程の中型自動拳銃のスライドを引く。
日本国の一般的な司法警察が使用しているシグP230/JPだ。
屍狗魂(しくたま)と呼ばれる魑魅魍魎の類を一発で昇天させるには祝詞で清められた、霊験あらたかなこの32口径8+1発の拳銃と祝詞+清塩で清められた専用弾が必要だった。
これだけの『祓い』を施していれば使用者を選ばない。
使用者自身に何かしらの霊能的特技が無くとも禍々しい屍狗魂を別の世界へ送る事が出来る。勿論それはタマが当たればの話で、使用者は一般警察以上に射撃術を叩き込まれる。
「使用者を選ばない」……それにはもう一つ大きなアイテムが寄与していた。それはグリシンの自動巻き腕時計の模造品かと思うほど酷似したクロノグラフの腕時計だった。
生憎、これはボタン電池式だ。
これが若しかすると大きな役割を果たしているのかも知れない。
何故なら、屍狗魂は生きた人間の視覚では捕らえる事が出来ないからだ。これまた有り難い祝詞と呪印を裏蓋に彫刻された特殊モデルで一般には出回っていない。 外見はどこにでも有るデザインの安っぽい腕時計なのだが、この陳腐なデザインの腕時計を装着している限り屍狗魂を『生きた人間』が視界に捕らえる事が出来るのだ。時計のムーブメント自体が故障しても、電池が切れても効力が失われる訳ではないので腕に撒いている限り問題無い。
「……」
今し方、シグP230のスライドを引いて初弾を薬室に送り込んだ風祭猛美(かざまつり たけみ)は引き金に指を掛けずに銃口と視線の先を一直線に固定し、拳銃を構える右手首と交差させる様にマグライトを逆手に持った左手の甲側の手首ぴったりと添える様にして一歩踏み出した。
つまり、視線の向く方向には常に銃口が向けられ、ライトの照射で視界が確保されているという事だ。
暗所におけるCQB((※『閉鎖的狭空間における近接射撃術』の英単語の頭文字)の基本形だった。
「さて……」
一言呟いて気合を入れる。できればもう一服煙草を吸いたかった。
―――煙草……。
―――ま、後でいいか。
貪欲にニコチンを欲する自分を制する様に説得して裏口のドアを蹴り破った。
街中に不自然に広がる広大な敷地の中央に有る、それ全体が骨董品の様な瀟洒な造りの古い洋館に彼女は一人で乗り込んだ。
その彼女の後ろからうだつの上がらない雰囲気をこれでもかと言う程醸し出している三十代前半の男が声を掛ける。
「あ、風祭さん! 待って下さいよ!」
※ ※ ※
屍狗魂。
それは人間が呼び寄せた異形の獣。
その起源は先の大戦に有る。
第2次世界大戦後期、遣ドイツ潜水艦作戦により辛うじて日本帝国とナチスドイツは交流が有った。
何度かの交流の末、日本人将校がドイツ人将校より託された技術や物資の中に欧州式魔術を認めた一冊の書物が有った。
一般的に魔導書と呼ばれる類の書物である。
1940年8月15日にその魔導書『三核書篇』は日本に上陸した。
勿論、当初は唯の土産モノ程度の扱いしか受けず、持ち込んだ日本人将校ですら魔導書を本棚に飾っていただけだった。
だが、それを託したドイツ人将校の願いはその魔術の開放であったのだが、敗戦続きで国政が傾き始めたドイツ国内では貴重な『財産』が焼失してしまうと、ドイツ古代遺産協会(※所謂、オカルト局)は多数の遣外任務を負ったドイツ人将校を通じて世界中に魔導書を分散させて隠蔽した。
『三核書篇』もその中の一冊だ。
やがて、日本の敗戦も近くなると潜水艦輸送作戦による交流も完全に断たれ、軍首脳部は否、日本は孤立無援で四面楚歌に陥った。
その頃、『三核書篇』を保管している部屋で度々不可解な現象が起きていた。誰も居ないはずなのに物音がする、灯火管制の下でも明々と照明が点く、ちゃんと仕舞ってあるはずの『三核書篇』がいつのまにか床に落ちている等である。
その怪奇現象に始めに目を付けたのは神田雅一郎(かんだ まさいちろう)。海軍の参謀だった。
海軍の参謀とはいえ機動戦力の乏しい日本軍では自由に扱える兵器が少なく、一日中畳の目を数える事を余儀なくされる、不本意な窓際将校が多かった。
作戦を立てられても実働する戦力の絶対数的不足が招いた不幸だった。
どんなに優秀な成績で図上演習を合格してもこれでは生き殺しだった。
そんな神田参謀が「気味が悪い」と捨て場所に困っていた『三核書篇』を引き取って日がな一日を過ごす為の暇潰しのネタにした。
幸いドイツ留学の経験が有り、ドイツの文化や風習に造詣が深かった神田参謀には実に興味深い内容の書物だった。
日本独自だと思っていた式神や呪い(まじない)が欧州中に多数存在している事を知った。これを引き取った時に「この本は呪われている」と一言言われたためにおっかなびっくりページを捲っていたが何時の間にか内容に魅了され、百科事典程の厚さが有る『三核書篇』を読破してしまった。
読めないはずの難解な単語を頭脳が吸収する様に覚え込んだ。記憶の端にも無い一節を空で読み上げる事が出来るのだ。
終戦1ヶ月前。藁にも縋りたい思いの軍部は最早烏合の衆と言われる程に人材にも欠乏していた。
陸軍元帥で首相の東條英機の横槍で、優秀だと評価された人材は陸軍出身を除き、殆ど更迭されていたのだ。
その中で異彩を放ち、参謀将校として神田参謀が海軍の中枢で返り咲いていた。否、正確に言えば自分が座るべき椅子を勝ち取ったのだ……魔導書『三核書篇』の力で。
魔導所の力を知った神田は自らの名前を取った『神田機関』と呼ばれる独自の組織を創設した。目的は『三核書篇』による日本国の魔導国家への転生。
極秘裏に日本全土で『神田機関』の実働部隊が暗躍し欧州式の古代呪術を施していく。山。川。海。土地。また或る時は人間や建造物。
全ての要所で準備が整った暁に一言、魔力を持つ『言語』を唱えれば全てが成就する。
終戦3日前。
儀式は厳かに併し慎ましやかに行われた。
……だが、儀式は脆くも失敗に終わった。
何も手落ち無く、何も不具合無く進んできたはずの一大計画が、一吹きの風を起こす事も無く、雀の一鳴き程の音も出さず失敗した。
失敗の代償に自分の生命を文字通り賭けていた神田雅一郎は心臓を掴む素振りを見せて呆気無く絶命した。
セミロングの彼女はアンニュイな表情で頭を少し垂れてラッキーストライクライトを無言で吸っている。
雑草が膝下まで伸びている敷地内。
黄昏時に人気の無い寂れた場所で全く不釣合いな美女が一言も発せず紫煙を乱暴に吐く。
途中何度か苛々した視線を腕時計に落としながら舌打ちしていた。
大きな瞳にやや童顔気味な顔のパーツ。目鼻は筋が通っているが、今の怒り顔の彼女には似合わない。笑顔はきっと素敵な事だろう。
夏物の麻製ジャケットに薄い生地のスラックス。何れもベージュを基調とした目立たない色合いだった。
足元に根元まで灰になったラッキーストライクライトを吐き捨てるとブーツの爪先で無造作に踏み躙り顔をサッと上げた。
左脇のホルスターから得物を抜く。弾倉確認。安全装置解除。深呼吸。
全長17cm程の中型自動拳銃のスライドを引く。
日本国の一般的な司法警察が使用しているシグP230/JPだ。
屍狗魂(しくたま)と呼ばれる魑魅魍魎の類を一発で昇天させるには祝詞で清められた、霊験あらたかなこの32口径8+1発の拳銃と祝詞+清塩で清められた専用弾が必要だった。
これだけの『祓い』を施していれば使用者を選ばない。
使用者自身に何かしらの霊能的特技が無くとも禍々しい屍狗魂を別の世界へ送る事が出来る。勿論それはタマが当たればの話で、使用者は一般警察以上に射撃術を叩き込まれる。
「使用者を選ばない」……それにはもう一つ大きなアイテムが寄与していた。それはグリシンの自動巻き腕時計の模造品かと思うほど酷似したクロノグラフの腕時計だった。
生憎、これはボタン電池式だ。
これが若しかすると大きな役割を果たしているのかも知れない。
何故なら、屍狗魂は生きた人間の視覚では捕らえる事が出来ないからだ。これまた有り難い祝詞と呪印を裏蓋に彫刻された特殊モデルで一般には出回っていない。 外見はどこにでも有るデザインの安っぽい腕時計なのだが、この陳腐なデザインの腕時計を装着している限り屍狗魂を『生きた人間』が視界に捕らえる事が出来るのだ。時計のムーブメント自体が故障しても、電池が切れても効力が失われる訳ではないので腕に撒いている限り問題無い。
「……」
今し方、シグP230のスライドを引いて初弾を薬室に送り込んだ風祭猛美(かざまつり たけみ)は引き金に指を掛けずに銃口と視線の先を一直線に固定し、拳銃を構える右手首と交差させる様にマグライトを逆手に持った左手の甲側の手首ぴったりと添える様にして一歩踏み出した。
つまり、視線の向く方向には常に銃口が向けられ、ライトの照射で視界が確保されているという事だ。
暗所におけるCQB((※『閉鎖的狭空間における近接射撃術』の英単語の頭文字)の基本形だった。
「さて……」
一言呟いて気合を入れる。できればもう一服煙草を吸いたかった。
―――煙草……。
―――ま、後でいいか。
貪欲にニコチンを欲する自分を制する様に説得して裏口のドアを蹴り破った。
街中に不自然に広がる広大な敷地の中央に有る、それ全体が骨董品の様な瀟洒な造りの古い洋館に彼女は一人で乗り込んだ。
その彼女の後ろからうだつの上がらない雰囲気をこれでもかと言う程醸し出している三十代前半の男が声を掛ける。
「あ、風祭さん! 待って下さいよ!」
※ ※ ※
屍狗魂。
それは人間が呼び寄せた異形の獣。
その起源は先の大戦に有る。
第2次世界大戦後期、遣ドイツ潜水艦作戦により辛うじて日本帝国とナチスドイツは交流が有った。
何度かの交流の末、日本人将校がドイツ人将校より託された技術や物資の中に欧州式魔術を認めた一冊の書物が有った。
一般的に魔導書と呼ばれる類の書物である。
1940年8月15日にその魔導書『三核書篇』は日本に上陸した。
勿論、当初は唯の土産モノ程度の扱いしか受けず、持ち込んだ日本人将校ですら魔導書を本棚に飾っていただけだった。
だが、それを託したドイツ人将校の願いはその魔術の開放であったのだが、敗戦続きで国政が傾き始めたドイツ国内では貴重な『財産』が焼失してしまうと、ドイツ古代遺産協会(※所謂、オカルト局)は多数の遣外任務を負ったドイツ人将校を通じて世界中に魔導書を分散させて隠蔽した。
『三核書篇』もその中の一冊だ。
やがて、日本の敗戦も近くなると潜水艦輸送作戦による交流も完全に断たれ、軍首脳部は否、日本は孤立無援で四面楚歌に陥った。
その頃、『三核書篇』を保管している部屋で度々不可解な現象が起きていた。誰も居ないはずなのに物音がする、灯火管制の下でも明々と照明が点く、ちゃんと仕舞ってあるはずの『三核書篇』がいつのまにか床に落ちている等である。
その怪奇現象に始めに目を付けたのは神田雅一郎(かんだ まさいちろう)。海軍の参謀だった。
海軍の参謀とはいえ機動戦力の乏しい日本軍では自由に扱える兵器が少なく、一日中畳の目を数える事を余儀なくされる、不本意な窓際将校が多かった。
作戦を立てられても実働する戦力の絶対数的不足が招いた不幸だった。
どんなに優秀な成績で図上演習を合格してもこれでは生き殺しだった。
そんな神田参謀が「気味が悪い」と捨て場所に困っていた『三核書篇』を引き取って日がな一日を過ごす為の暇潰しのネタにした。
幸いドイツ留学の経験が有り、ドイツの文化や風習に造詣が深かった神田参謀には実に興味深い内容の書物だった。
日本独自だと思っていた式神や呪い(まじない)が欧州中に多数存在している事を知った。これを引き取った時に「この本は呪われている」と一言言われたためにおっかなびっくりページを捲っていたが何時の間にか内容に魅了され、百科事典程の厚さが有る『三核書篇』を読破してしまった。
読めないはずの難解な単語を頭脳が吸収する様に覚え込んだ。記憶の端にも無い一節を空で読み上げる事が出来るのだ。
終戦1ヶ月前。藁にも縋りたい思いの軍部は最早烏合の衆と言われる程に人材にも欠乏していた。
陸軍元帥で首相の東條英機の横槍で、優秀だと評価された人材は陸軍出身を除き、殆ど更迭されていたのだ。
その中で異彩を放ち、参謀将校として神田参謀が海軍の中枢で返り咲いていた。否、正確に言えば自分が座るべき椅子を勝ち取ったのだ……魔導書『三核書篇』の力で。
魔導所の力を知った神田は自らの名前を取った『神田機関』と呼ばれる独自の組織を創設した。目的は『三核書篇』による日本国の魔導国家への転生。
極秘裏に日本全土で『神田機関』の実働部隊が暗躍し欧州式の古代呪術を施していく。山。川。海。土地。また或る時は人間や建造物。
全ての要所で準備が整った暁に一言、魔力を持つ『言語』を唱えれば全てが成就する。
終戦3日前。
儀式は厳かに併し慎ましやかに行われた。
……だが、儀式は脆くも失敗に終わった。
何も手落ち無く、何も不具合無く進んできたはずの一大計画が、一吹きの風を起こす事も無く、雀の一鳴き程の音も出さず失敗した。
失敗の代償に自分の生命を文字通り賭けていた神田雅一郎は心臓を掴む素振りを見せて呆気無く絶命した。
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