灼熱のストレングス

 分厚い擦りガラスの両開きのドアが目前に迫る。このラブホテルの出入り口だ。入店するときは背後しか防犯カメラに撮影されていなかったと記憶している。
「…………!」
 一歩踏み出そうとする。咄嗟に留まり、そのドアの両脇を凝視する。気配を探るまでもなく、『誰かがいる』。
 殺気の塊。敵意を伴わない殺気。純粋な殺意。……そして何より決意と意思を実行するに当たって躊躇という言葉を知らない大胆さ。
 光恵は背中に氷を流し込まれたような感覚を覚え、右手を右手側に大きく伸ばし、まともに狙わない発砲をする。
 先ほどの遮蔽物を貫通したのとは比べものにならない、生命の危機を感じたネズミが逃げるのと同じ受動的動作といってもいい。
 7発のホローポイントは会計の窓口へと通じるドアノブを完全に破壊する。
 薄い合板を張り合わせただけのドアだった。蹴り破るには強固だった。
 得てしてドアノブを破壊するという正解を選択した彼女は、スライドが後退して停止したアストラモデルコンスターブルにも構わず、体当たりするようにドアに向かって身を投じた。
 酷い普請の安っぽいドアが体当たりで弾かれるように開いてその向こうに光恵の体が無様に倒れる。
 途端。
 爆発音。
 爆発音だ。
 あれはどう聴いても爆発音にしか聞こえない。
 爆発音以外の何ものでもない。彼女には、何かが破片を広く撒き散らして破壊の限りを尽くす暴虐な衝撃は襲ってこなかった。
 光恵には爆発音の正体などどうでもいい。確かに何かが破壊された。確かに擦りガラスのドアが破片を撒き散らした。
 だが、どうでもいい。
 今は非常に危険だ。ここに留まるのは非常に危険だ。経験や勘、敵襲のパターンなどというレベルでの危険ではない。
 心か頭か、もっと深い場所にある部分が危険だと認識して『逃げる』以外の選択を選ばせなかった。
 背後からくる。確実にくる。否、確実にきている。
 何かは知らない。誰かは知らない。なぜかは知らない。
 今は一刻も早く体勢を整えて立ち上がり、従業員が逃げ出した非常口か裏口へと向かって脱兎に徹するだけだ。
 酸素が不足している金魚のように口を大きく開けて空気を貪り、喉を逸らせて喘ぎ、顎をだして無様に駆ける。
 もう少しで2つのバッグもアストラコンスターブルも放り出して失禁するところだった。……彼女を支えているのは単純な本能。生への執着。純度が高い恐怖心。
 目前の木製の本棚を交わしスチールの棚を通り抜け、パソコンやTVモニターが置かれた事務デスク前を通る従業員が、遁走した方向を辿っている。
 這う這うの体で走り、裏口と思われるスチールのドアが目前に迫った。右手のアストラコンスターブルのスライドリリースボタンを押して空弾倉のままスライドを前進させる。
 それを左脇の懐に差し込み、右手を一杯に伸ばしてドアノブを掴もうとする。掌と五指がこれでもかと大きく開く。
 爆発音。
 爆発音だ。
 あれはどう聴いても爆発音にしか聞こえない。
 背後で背中を押されるのに似た音響的衝撃波を感じる。心臓が弱い人間ならそれだけで心臓麻痺を起こしかねない爆発音。
「!」
 ドアノブを掴もうとしていた光恵の手が一瞬凍る。
 ドアのど真ん中に射入孔が開いている。
 それも357マグナムや44マグナムといった『可愛らしい』弾痕ではない。
 50口径。
 それも50AEのようなショートカートではない。
 単発式や回転式で用いるロングカート、あるいはショートカートとロングカートの中間。
 50AEの銃声なら聞いたことがある。こんなにも凄まじくはない。力押しで破壊するマッシブな弾丸だったが、目前に射入孔を拵えた『コレ』はスチールや木製の棚やパーテーションを幾つも貫通して尚且つ威力を落とさずスチールのドアの片面にクレーターに似た孔を押し込むように拵えた。
 折角整えた体勢も爆発音……発砲音に押されて前につんのめる。
 伸ばした掌がドアノブに引っかかる。
 伸ばした右手から左足の爪先まで一本の線のように伸び切る。
 ドアノブを指先の力だけで保持し、腹筋をここ一番に引き絞り、下半身を芋虫のように収縮させて一歩以上のリーチを縮める。
 再び爆発音に似た銃声。
 またも銃口の前に立つ、全ての障害を貫いて銃弾が飛来する。
 今度は銃口を下げて発砲したのか、弾痕が床にできる。
 弾頭はリノリウムの下に敷かれた硬いコンクリにぶつかって爆発四散する。
 爆発弾頭のエクスプロッシブ弾頭を用いているのではない。弾頭の金属が硬い物体に当たって破裂するように粉砕しただけだ。その際に飛び散った金属片で光恵は右頬に掠り傷を作った。
――――ひっ!
 悲鳴も出ない。
 床にできた弾痕は体を縮ませる。先ほどまでなら、光恵の胴体の真ん中があった辺りだ。
 体中の汗腺から零下10度はある冷や汗が吹き出る。
 床に出来たクレーター状の弾痕が脳裏に焼きつく。
 ドアノブにしがみついた際に発生した運動エネルギーと、その惰性でドアを押し、尚且つ頭を屈め、裏口から転がり出る。
 今の光恵は魔弾の射手に一矢報いるだけの戦力はない。
 頼みの綱のアストラモデルコンスターブルは弾倉が空。奪取したワルサーPPKはアリスパックに押し込んだまま。
 光恵は不規則な蛇行を繰り返し、従業員用の駐輪場までくると鍵が外されているトンボ型自転車を発見してそれに駆け寄る。
 爆発音に似た発砲音が追い駆けてくる。
 そのトンボ型自転車の右側に停めてあった原付バイクのエンジン部分の外装が大きく爆ぜる。
 原付バイクがなければ身を屈めた光恵の胴体が無残な姿に変わっていただろう。
 トンボ型自転車を諦めて……諦めるよりも一秒でも長く執着していたら命はないと思い、放置に近い数台の自転車を遮蔽としながら従業員用の駐車場を目指す。
 敵の姿は未だにみえない。みる機会がない。みる余裕がない。
 ラブホテルの裏口に狙撃手がいるはずだ。
 直線距離は大したことがないが、遮蔽物が頼りない。
 並みの拳銃弾と違い、明らかなマグナム弾だ。それも人間の膂力で制御できる限界の大きさのマグナムだ。
 自転車を盾にしても弾道を僅かに逸らせるだけで弾頭を停止させる役目は無理だ。
 直射日光がギラつく昼下がり。
 ふと、一夜の情事を交わしたオンナのことが脳裏を過ぎる。
 彼女は大丈夫だろうか? 何ごともなく逃げられただろうか? 彼女だけは無害だと相手にされずに済んだろうか?
 辿り着いた原付バイクの陰で息を整えながらなぜか思い出した一夜のオンナの顔。
 アスファルトの地面から熱気が昇る。すぐに彼女のことも風に晒された灰のように消える。
 喉が渇く。煙草が吸いたい。
 土壇場で雑念が浮かぶのは悪いことばかりではない。
 思考が一時の逃避を満喫することで、一つのことに占領されていた脳内が整理されて他の状況を把握するために必要な思考速度を稼いでくれる。
 100%、一つの事案に埋め尽くされていた思考回路が80%に低下すると20%分の視野を広げる余裕が発生するという理屈だ。
 個人差が大きい大脳生理学の世界ではあるが、これを機を見計らってスイッチのオンオフができる人間は殆どの場合、新しい発見をなし得る。
 光恵もそうだった。
――――回転式のマグナム……。
――――シングルアクションアーミーのコピーモデルか?
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