灼熱のストレングス
光恵に退路はない。……正確にいえば退路を探している暇はない。
頭の中の地図では、退路となるルートはすなわち、閉鎖されたドアばかりで埋め尽くされて最奥のポイントである。
それはオンナと情事を交わした、あの部屋しか逃げ隠れできそうな部屋しかすぐに脳裏に浮かばない。
しかもその部屋の前では中途半端な肉体言語で黙らせた三下が3人、伸びているはず。そろそろ正気に戻る頃だろう。
つまり、戻って篭城しようにも退路にも敵がいる。
戦況の圧倒的不利を携帯電話で伝達されれば援軍が到着するだろう。従って、速やかに目前の障害を無力化させてこのラブホテルから脱出する事が最優先事項となっている。
敵の布陣が解ったとはいえ、敵戦力そのものはいまだに不明。
光恵が見つけていない『機能している非常口』から新手が現れるかもしれない。
鼓動が半鐘のように五月蝿い。
背筋に冷たい汗が浮いてシャツを体へ張り付かせる。腋の下や股間が汗で湿り気を帯びるのを感じる。額に薄っすらと汗の粒が浮く。喉が渇く。煙草が吸いたい。銃声が五月蝿い。硝煙が臭い。空薬莢の転がる音が耳障り。狭い空間で舞う塵埃が肺を汚す。視界に映る全ての物質が障害物にしか思えない……目を瞑っていてもだ。
あらゆる感覚を閉鎖して閉じこもりたい。
逃げて生きるための気概が、小癪な安い拳銃の発砲音で萎縮させられる。
腹案も計略もない。
シンプルな命乞いだけをして都合よく何もなかったことにしたかった。
両手で握られたアストラモデルコンスターブルの銃口が段々、力なく下がる。
彼女の精神が負ける。彼女の精神が殻を作る。彼女の精神が彼女を放棄する。
そんなときだ。
彼女のパーカーのポケットで携帯電話が振動する。
「!」
発作的に今の状況よりも携帯電話を手に取ることを優先した。いないはずの救援が到着したかのような反応。
【まだ生きてる?】
たったそれだけのメールの文面。送信者は平凡な名前の偽名で登録している。『表向きは男性の名前』だ。
その『男性の名前』のメールの本文を読むと、腹にボディブローを叩き込まれたような気分になった。解りわすいレトリックで表現するなら渇を入れられた気分だ。
そうだ。
そうなのだ。
この程度で挫ける光恵をアイツは愛したか?
「…………」
止まぬ銃声の中、小さな紙風船が破裂する音。しかし、銃声に呆気なく消される。
光恵は自分の頬を自分ではたいた。
呆れたことに力加減皆無の自虐的ビンタは、頬の痛みから伝わった衝撃で眦に薄く涙が浮かんだ。
あれだけの情熱を持ちながら、啖呵一つ切らずに逃亡することを選んだ光恵をアイツは責めていない。
アイツ自身が危ないのにも関わらず、いつもの口調で超然とした短文を空気を読まずに送信してくる。
【生きてる】
……そう、返信に打ち込んで送信する。
そして携帯電話をポケットに突っ込んで再びアストラモデルコンスターブルを手に取る。
不思議と掌に脂のような汗を感じない。
心に涼風が吹くのを感じる。
雑念と邪念が群雲のごとく涌き出ていたのに、今は思考がクリアだ。四肢に発条が溜まる。
アストラモデルコンスターブルを握る手から余計な力が抜ける。
光恵は長物を用いた狙撃の経験は無いが、狙撃を生業にする殺し屋というのは案外このようなメンタルでないと満足のいく仕事が達成できないのだろうとチラリと思う。……これは雑念ではない。『余裕』だ。
――――視える。
――――視えた。
――――視るしかない。
――――視ることができる。
光恵は片膝立ちになり、腕を真っ直ぐ伸ばし、遮蔽にしていた建材の一点にアストラモデルコンスターブルの銃口を、密着させられるほどの距離に定めると迷わず発砲した。
1発ではない。
弾倉に飲み込んだ全ての実包を吐き出した。
調子の悪い低速回転の短機関銃より快調な速射。
空薬莢が軽快に弾き出される。
銃口の先にはポッカリと大きな孔が開いていた。
本来多用している9mmショートはホローポイントだが、先ほど補弾した時点で薬室と弾倉最上段の2発はフルメタルジャケットだ。
その2発が2挺の拳銃の猛攻に晒されてもう一押しの所で貫通するほど脆くなっていた。
その部分に向かって硬い弾頭の9mmショートを叩き込み、大きく開いた弾痕にホローポイントが後続した。
形勢有利と見て前進気味だった2人の手足に9mmショートの弾頭が次々と命中する。
壁に向けての盲撃ちだったが、これだけ距離を詰められてこれだけ狭い空間なら……そして、連中もまさか敵の女が潜む遮蔽のど真ん中から銃弾が飛び出てくるとは思わなかっただろう。
アストラモデルコンスターブルのスライドが後退してストップ。
エジェクションポートや銃口から立ち上る硝煙がベールのようにアストラモデルコンスターブルをまとう。
マグキャッチを押さえる。空弾倉が自重で落下してそのワークスペースを維持したまま新しい弾倉を叩き込み、スライドリリースレバーを押し下げる。
確実な作動で初弾が薬室に送り込まれ、撃鉄が発砲位置で起き上がっている。
引き金も後退し、僅かな力で初弾が撃てる状態になる。
2つのバッグを左手に提げて、遮蔽から立ち上がり、ツカツカと廊下を歩く。拳銃を放り出して被弾箇所である手足を押さえて罵声を浴びせる2人の男に2発ずつ9mmショート弾を叩き込む。
いずれも胴体に命中し、悶絶も苦悶もできない状態に陥れる。
放り出された拳銃を見る。ロシーの回転式で357マグナムが使える4インチのシルバーモデルだったが、経費の都合か入手できなかったのか、普通の38splを用いて発砲していたらしい。
その相方は自動式の方はワルサーPPKを使っていた。マニューリンでライセンス生産されているのがスライドをみて判断できた。
爪先で死に近い負傷した男達を仰向けにさせて財布を奪う。
回転式の男は腹のベルトに短ドスを差していた。刀身をみるとなまくらで、光恵はそれの刃を親指の爪に垂直に立てて指先の方へずらしてみたが一度も爪に引っかからなかった。ステンレス鋼を用いた完成度の高い模造刀を砥石で研いだだけのハッタリだ。
この先の長丁場を考えると火力は多いに越したことがないので、ワルサーPPKだけを奪う。
弾薬は予備弾倉が4本と、落ちていた空の弾倉が4本、ブリスターパックのバラ弾が50発だった。
鹵獲品はアリスパックに押し込む。金品と財布はズボンのポケットに捻じ込む。
足早に歩き出し、やがて小走りに、そして猛然と駆け出す。一気に階段を駆け下りる。
殆どの段を飛び降りて、下肢のバネで衝撃を吸収する。
フロント手前の会計窓口に来る直前にリップミラーで角の向こうを確認する。
「…………」
ドア一枚向こうに出ることができれば光恵の勝利条件が整う。
正面からの顔を撮影される恐れがある防犯カメラを角から腕だけを伸ばして保持したアストラモデルコンスターブルを発砲して破壊する。
発砲時に会計窓口の向こうで逃げ惑う声や、騒々しい足音やぶつかる物音など雑多な騒音が聞こえてくるが、敵意は感じられない。
会計の窓口の向こうでは従業員が待機していたらしい。
そしててっきり光恵が死体袋に詰められて運搬されてくるだけだと思っていたようだ。
その想像に反して防犯カメラが破壊された意味を理解した従業員は我先にと遁走を始めた。
頭の中の地図では、退路となるルートはすなわち、閉鎖されたドアばかりで埋め尽くされて最奥のポイントである。
それはオンナと情事を交わした、あの部屋しか逃げ隠れできそうな部屋しかすぐに脳裏に浮かばない。
しかもその部屋の前では中途半端な肉体言語で黙らせた三下が3人、伸びているはず。そろそろ正気に戻る頃だろう。
つまり、戻って篭城しようにも退路にも敵がいる。
戦況の圧倒的不利を携帯電話で伝達されれば援軍が到着するだろう。従って、速やかに目前の障害を無力化させてこのラブホテルから脱出する事が最優先事項となっている。
敵の布陣が解ったとはいえ、敵戦力そのものはいまだに不明。
光恵が見つけていない『機能している非常口』から新手が現れるかもしれない。
鼓動が半鐘のように五月蝿い。
背筋に冷たい汗が浮いてシャツを体へ張り付かせる。腋の下や股間が汗で湿り気を帯びるのを感じる。額に薄っすらと汗の粒が浮く。喉が渇く。煙草が吸いたい。銃声が五月蝿い。硝煙が臭い。空薬莢の転がる音が耳障り。狭い空間で舞う塵埃が肺を汚す。視界に映る全ての物質が障害物にしか思えない……目を瞑っていてもだ。
あらゆる感覚を閉鎖して閉じこもりたい。
逃げて生きるための気概が、小癪な安い拳銃の発砲音で萎縮させられる。
腹案も計略もない。
シンプルな命乞いだけをして都合よく何もなかったことにしたかった。
両手で握られたアストラモデルコンスターブルの銃口が段々、力なく下がる。
彼女の精神が負ける。彼女の精神が殻を作る。彼女の精神が彼女を放棄する。
そんなときだ。
彼女のパーカーのポケットで携帯電話が振動する。
「!」
発作的に今の状況よりも携帯電話を手に取ることを優先した。いないはずの救援が到着したかのような反応。
【まだ生きてる?】
たったそれだけのメールの文面。送信者は平凡な名前の偽名で登録している。『表向きは男性の名前』だ。
その『男性の名前』のメールの本文を読むと、腹にボディブローを叩き込まれたような気分になった。解りわすいレトリックで表現するなら渇を入れられた気分だ。
そうだ。
そうなのだ。
この程度で挫ける光恵をアイツは愛したか?
「…………」
止まぬ銃声の中、小さな紙風船が破裂する音。しかし、銃声に呆気なく消される。
光恵は自分の頬を自分ではたいた。
呆れたことに力加減皆無の自虐的ビンタは、頬の痛みから伝わった衝撃で眦に薄く涙が浮かんだ。
あれだけの情熱を持ちながら、啖呵一つ切らずに逃亡することを選んだ光恵をアイツは責めていない。
アイツ自身が危ないのにも関わらず、いつもの口調で超然とした短文を空気を読まずに送信してくる。
【生きてる】
……そう、返信に打ち込んで送信する。
そして携帯電話をポケットに突っ込んで再びアストラモデルコンスターブルを手に取る。
不思議と掌に脂のような汗を感じない。
心に涼風が吹くのを感じる。
雑念と邪念が群雲のごとく涌き出ていたのに、今は思考がクリアだ。四肢に発条が溜まる。
アストラモデルコンスターブルを握る手から余計な力が抜ける。
光恵は長物を用いた狙撃の経験は無いが、狙撃を生業にする殺し屋というのは案外このようなメンタルでないと満足のいく仕事が達成できないのだろうとチラリと思う。……これは雑念ではない。『余裕』だ。
――――視える。
――――視えた。
――――視るしかない。
――――視ることができる。
光恵は片膝立ちになり、腕を真っ直ぐ伸ばし、遮蔽にしていた建材の一点にアストラモデルコンスターブルの銃口を、密着させられるほどの距離に定めると迷わず発砲した。
1発ではない。
弾倉に飲み込んだ全ての実包を吐き出した。
調子の悪い低速回転の短機関銃より快調な速射。
空薬莢が軽快に弾き出される。
銃口の先にはポッカリと大きな孔が開いていた。
本来多用している9mmショートはホローポイントだが、先ほど補弾した時点で薬室と弾倉最上段の2発はフルメタルジャケットだ。
その2発が2挺の拳銃の猛攻に晒されてもう一押しの所で貫通するほど脆くなっていた。
その部分に向かって硬い弾頭の9mmショートを叩き込み、大きく開いた弾痕にホローポイントが後続した。
形勢有利と見て前進気味だった2人の手足に9mmショートの弾頭が次々と命中する。
壁に向けての盲撃ちだったが、これだけ距離を詰められてこれだけ狭い空間なら……そして、連中もまさか敵の女が潜む遮蔽のど真ん中から銃弾が飛び出てくるとは思わなかっただろう。
アストラモデルコンスターブルのスライドが後退してストップ。
エジェクションポートや銃口から立ち上る硝煙がベールのようにアストラモデルコンスターブルをまとう。
マグキャッチを押さえる。空弾倉が自重で落下してそのワークスペースを維持したまま新しい弾倉を叩き込み、スライドリリースレバーを押し下げる。
確実な作動で初弾が薬室に送り込まれ、撃鉄が発砲位置で起き上がっている。
引き金も後退し、僅かな力で初弾が撃てる状態になる。
2つのバッグを左手に提げて、遮蔽から立ち上がり、ツカツカと廊下を歩く。拳銃を放り出して被弾箇所である手足を押さえて罵声を浴びせる2人の男に2発ずつ9mmショート弾を叩き込む。
いずれも胴体に命中し、悶絶も苦悶もできない状態に陥れる。
放り出された拳銃を見る。ロシーの回転式で357マグナムが使える4インチのシルバーモデルだったが、経費の都合か入手できなかったのか、普通の38splを用いて発砲していたらしい。
その相方は自動式の方はワルサーPPKを使っていた。マニューリンでライセンス生産されているのがスライドをみて判断できた。
爪先で死に近い負傷した男達を仰向けにさせて財布を奪う。
回転式の男は腹のベルトに短ドスを差していた。刀身をみるとなまくらで、光恵はそれの刃を親指の爪に垂直に立てて指先の方へずらしてみたが一度も爪に引っかからなかった。ステンレス鋼を用いた完成度の高い模造刀を砥石で研いだだけのハッタリだ。
この先の長丁場を考えると火力は多いに越したことがないので、ワルサーPPKだけを奪う。
弾薬は予備弾倉が4本と、落ちていた空の弾倉が4本、ブリスターパックのバラ弾が50発だった。
鹵獲品はアリスパックに押し込む。金品と財布はズボンのポケットに捻じ込む。
足早に歩き出し、やがて小走りに、そして猛然と駆け出す。一気に階段を駆け下りる。
殆どの段を飛び降りて、下肢のバネで衝撃を吸収する。
フロント手前の会計窓口に来る直前にリップミラーで角の向こうを確認する。
「…………」
ドア一枚向こうに出ることができれば光恵の勝利条件が整う。
正面からの顔を撮影される恐れがある防犯カメラを角から腕だけを伸ばして保持したアストラモデルコンスターブルを発砲して破壊する。
発砲時に会計窓口の向こうで逃げ惑う声や、騒々しい足音やぶつかる物音など雑多な騒音が聞こえてくるが、敵意は感じられない。
会計の窓口の向こうでは従業員が待機していたらしい。
そしててっきり光恵が死体袋に詰められて運搬されてくるだけだと思っていたようだ。
その想像に反して防犯カメラが破壊された意味を理解した従業員は我先にと遁走を始めた。