灼熱のストレングス
萱野の左腕ではロレックスデイトナが正午過ぎの日光を照り返していた。
直射日光に車外上面を炙られているだけでなく、路面からも照り返しの60度を超える温度でとてもじゃないが今の人類が生存できる環境ではない……と冷房の効いた車中で漠然と考えている萱野。
彼の視界に映る闇社会とは関係のない無辜の道行く人々は人類ではないな、と考えが到った辺りで携帯電話が着信を報せる。
恐らく情報屋からの定時連絡か、けしかけたバカ供が突入する直前の報告だろう。
ムロセミツエなる少々食指が動く人物に当て馬とデータ採取を兼ねた三下を7人選んで潜伏しているラブホテルに吶喊させようと目論んでいた。
オヤジの権力が及ぶ範囲ではあるが、昼日中の襲撃ともなると警察を黙らせるのにも一苦労だ。
……一苦労を揉み消すために、大金や非合法薬物を支払うが同時にそれらを受け取る警察関係者の弱みや強請りのタネも獲得できるので悪いことだらけではない。
口に銜えたピースミディアムに火を点ける。
片手で展開するのに少々コツが必要なトレンチライターを流れるような指捌きで扱う。
細く長く紫煙を吐く。
オプションで取り付けさせた空気清浄機が煙を感知して静かに作動する。
着信があったばかりの携帯電話には手を伸ばさない。
運転中の余所見や携帯電話の液晶を眺めるのは非常に危険だ。
萱野和雅。職業と外見を裏切って意外なくらいに常識人だ。
※ ※ ※
「ちっ! 読まれてたか!」
大きな2つのバッグを両肩に掛けて、狭いホテルの廊下を走る。
借りた部屋のドアの向こうに3人の襲撃者が潜んでいたが、ラブホテルの一室を借りるためだけにナンパして一夜を過ごすことになったオンナが忘れていった2段伸縮の日傘の打突で、待ち受けていた3人を即座に黙らせた。
何れも打撃不足で呼吸を乱して痛みだけで蹲らせるので精一杯だった。
今頃もう正気に戻って追撃を始めているのかも知れない。
このラブホテルの構造上、一般のホテルのように規則正しくドアが並んでいない。
違法増築を繰り返して敷地の建て延べ率は一切無視されている。
その上、情事の声やホテル内でのどんちゃん騒ぎが漏れて必要以上に近隣に迷惑をかけないため――厳密にいうと警察沙汰を避けるため――に防音効果の高い内装で固められている。
おまけに大方のラブホテル同様、窓ガラスは消防法を無視して嵌め殺しの部分が多く、非常階段ですらどこに設置されているのか解り辛い。
加えて薄暗い照明。スプリンクラーすら見当たらない建造物だ。遮蔽の数が多いので誰がどこに何人潜んでいるのか全く解らない。
先ほど一時的にのした3人だけが全部の戦力だとは思っていない。
この最上階である4階の隅の部屋――この部屋しか空いていなかった――から駐車場までかなりの距離がある。
エレベーターは危険だ。昇降機そのものが棺桶になる。
エレベーターは映画で観るように天井にも床にも内部から非常口らしきものが開放できる構造にはなっていない。
少なくとも日本の場合は建築基準法とその関連で禁止されている。
階下へ急ぐには階段しかない。
ラブホテルという疲れを癒しに行くのか疲れに行くのか解らない宿泊施設は、部屋から会計のあるフロントまで誰にも逢わずに最短最速で歩いていけるように考慮されているが、それがこの場合では徒となっている。
その最短最速のルートはエレベーターありきの設計思想だ。エレベーターを無視した移動だと途端に廊下が長く感じる。
非常口や非常階段が確認し難い環境では、勘だけを頼りに駆けるしかない。
規則性のある内装であっても、全てのドアの向こうが、全ての角の向こうが安全とは限らない。
ドアだと思って押してもその向こうの荷物が原因で開かないこともあるだろう。管理の都合上、使用していない部屋は鍵が掛かっていることもあるだろう。
光恵はただただ、駆けた。一晩の就寝と腹拵えで充分に回復した体力は軽快に脚力を発揮させた。
大型のバッグを背負い、右手にアストラモデルコンスターブルを握る。
セフティは掛かったままのシルバーステンレスモデルの相棒は、この場では一度も火を吹いていない。できるものなら出番がないまま遁走できれば幸甚の限りだ。
階下へと急ぐ。
早く走っているつもりでも、バッグの重量が小癪だ。
曲がり角が多く、そのたびにスピードを落として曲がらなければならない。その都度、アストラモデルコンスターブルを両手で保持して銃口を左右に走らせて警戒するのだから心労も大きい。
「!」
非常口と思しきドアを発見したので迷わずドアノブに手をかける。捻っても手応えがない。鍵が壊れている。更にそれを誤魔化すためにドアの向こうにかなりの重量物でドアが開放できないように塞き止められている。
背後。
気配。
殺気。
敵意と殺意が薄いコッキング音。
遮蔽の乏しい全長5mの廊下。
防盾として効果が期待される2つの大型バッグを胸の前に左手一本で翳しながら、右手のアストラモデルコンスターブルを突き出す。
銃声。
先制したのは光恵。
現在では豆弾との境目にいる9mmショート弾も、狭く短い空間では威力は申し分ない。
防弾ベストを装着していても胸骨や肋骨の骨折は免れない。
放たれた9mmの銃弾は背後に迫っていた気配の主を目掛けて飛んでいくはずだが、僅かに着弾が狂い、壁を削る。
刹那、挨拶返しの銃声が狭く短い空間を制圧せんと空間を埋め尽くす。
自動式32口径の豆弾。何発かはボストンバッグに被弾して停止する。敵は1人。遮蔽の角から手だけを突き出した盲撃ち。ダブルカアラムと思しき中型自動拳銃から発せられる銃弾は光恵以上に酷い狙い撃ちだった。無論、彼女の体にはかすりもしなかった。
スライドがホールドオープンし、それでも引き金を引こうと躍起になっているところをみるとトリガーハッピー気味なのかもしれない。
ようやく弾切れを起こしているのに気がついたらしい。遮蔽の角から突き出ている、自動拳銃を握る右手を狙い、アストラモデルコンスターブルを発砲。
5mの距離だ。
目を使って一呼吸分鎮まって狙えば外しはしない。
発砲。32口径とは矢張り、別格の発砲音を廊下に響かせて9mmショートのホローポイントは中型オートを握る手首を破壊して切断処置不可避の重傷を与える。
苦痛と反動で手首の主が遮蔽の角から体を折り、悲鳴とも苦悶とも罵声とも聞こえる不明瞭な何かを喚きながら不注意にも上半身側面を晒す。
光恵は『その機会も逃がさない』。
無防備に晒された男の左側頭部に向かって発砲。
光恵の記憶が確かならば今し方放った9mmショートの弾頭は自宅玄関先で襲撃した連中から奪った実包だ。
弾頭の種類はフルメタルジャケットだと覚えている。
その完全被甲弾は5mの距離から、男の、骨が薄い側頭部に風穴を開けて貫通することなく盲管となり、衝撃で発生した圧力で射入孔からミキサーにかけられたような脳漿や脳髄を潮のように吹いて床を汚した。
男の体が崩れ落ちる。
たった5mでの距離で展開される銃撃戦でも、狙うのとそうでないのとではこのようにワンサイドゲームで終わることも珍しくない。
直射日光に車外上面を炙られているだけでなく、路面からも照り返しの60度を超える温度でとてもじゃないが今の人類が生存できる環境ではない……と冷房の効いた車中で漠然と考えている萱野。
彼の視界に映る闇社会とは関係のない無辜の道行く人々は人類ではないな、と考えが到った辺りで携帯電話が着信を報せる。
恐らく情報屋からの定時連絡か、けしかけたバカ供が突入する直前の報告だろう。
ムロセミツエなる少々食指が動く人物に当て馬とデータ採取を兼ねた三下を7人選んで潜伏しているラブホテルに吶喊させようと目論んでいた。
オヤジの権力が及ぶ範囲ではあるが、昼日中の襲撃ともなると警察を黙らせるのにも一苦労だ。
……一苦労を揉み消すために、大金や非合法薬物を支払うが同時にそれらを受け取る警察関係者の弱みや強請りのタネも獲得できるので悪いことだらけではない。
口に銜えたピースミディアムに火を点ける。
片手で展開するのに少々コツが必要なトレンチライターを流れるような指捌きで扱う。
細く長く紫煙を吐く。
オプションで取り付けさせた空気清浄機が煙を感知して静かに作動する。
着信があったばかりの携帯電話には手を伸ばさない。
運転中の余所見や携帯電話の液晶を眺めるのは非常に危険だ。
萱野和雅。職業と外見を裏切って意外なくらいに常識人だ。
※ ※ ※
「ちっ! 読まれてたか!」
大きな2つのバッグを両肩に掛けて、狭いホテルの廊下を走る。
借りた部屋のドアの向こうに3人の襲撃者が潜んでいたが、ラブホテルの一室を借りるためだけにナンパして一夜を過ごすことになったオンナが忘れていった2段伸縮の日傘の打突で、待ち受けていた3人を即座に黙らせた。
何れも打撃不足で呼吸を乱して痛みだけで蹲らせるので精一杯だった。
今頃もう正気に戻って追撃を始めているのかも知れない。
このラブホテルの構造上、一般のホテルのように規則正しくドアが並んでいない。
違法増築を繰り返して敷地の建て延べ率は一切無視されている。
その上、情事の声やホテル内でのどんちゃん騒ぎが漏れて必要以上に近隣に迷惑をかけないため――厳密にいうと警察沙汰を避けるため――に防音効果の高い内装で固められている。
おまけに大方のラブホテル同様、窓ガラスは消防法を無視して嵌め殺しの部分が多く、非常階段ですらどこに設置されているのか解り辛い。
加えて薄暗い照明。スプリンクラーすら見当たらない建造物だ。遮蔽の数が多いので誰がどこに何人潜んでいるのか全く解らない。
先ほど一時的にのした3人だけが全部の戦力だとは思っていない。
この最上階である4階の隅の部屋――この部屋しか空いていなかった――から駐車場までかなりの距離がある。
エレベーターは危険だ。昇降機そのものが棺桶になる。
エレベーターは映画で観るように天井にも床にも内部から非常口らしきものが開放できる構造にはなっていない。
少なくとも日本の場合は建築基準法とその関連で禁止されている。
階下へ急ぐには階段しかない。
ラブホテルという疲れを癒しに行くのか疲れに行くのか解らない宿泊施設は、部屋から会計のあるフロントまで誰にも逢わずに最短最速で歩いていけるように考慮されているが、それがこの場合では徒となっている。
その最短最速のルートはエレベーターありきの設計思想だ。エレベーターを無視した移動だと途端に廊下が長く感じる。
非常口や非常階段が確認し難い環境では、勘だけを頼りに駆けるしかない。
規則性のある内装であっても、全てのドアの向こうが、全ての角の向こうが安全とは限らない。
ドアだと思って押してもその向こうの荷物が原因で開かないこともあるだろう。管理の都合上、使用していない部屋は鍵が掛かっていることもあるだろう。
光恵はただただ、駆けた。一晩の就寝と腹拵えで充分に回復した体力は軽快に脚力を発揮させた。
大型のバッグを背負い、右手にアストラモデルコンスターブルを握る。
セフティは掛かったままのシルバーステンレスモデルの相棒は、この場では一度も火を吹いていない。できるものなら出番がないまま遁走できれば幸甚の限りだ。
階下へと急ぐ。
早く走っているつもりでも、バッグの重量が小癪だ。
曲がり角が多く、そのたびにスピードを落として曲がらなければならない。その都度、アストラモデルコンスターブルを両手で保持して銃口を左右に走らせて警戒するのだから心労も大きい。
「!」
非常口と思しきドアを発見したので迷わずドアノブに手をかける。捻っても手応えがない。鍵が壊れている。更にそれを誤魔化すためにドアの向こうにかなりの重量物でドアが開放できないように塞き止められている。
背後。
気配。
殺気。
敵意と殺意が薄いコッキング音。
遮蔽の乏しい全長5mの廊下。
防盾として効果が期待される2つの大型バッグを胸の前に左手一本で翳しながら、右手のアストラモデルコンスターブルを突き出す。
銃声。
先制したのは光恵。
現在では豆弾との境目にいる9mmショート弾も、狭く短い空間では威力は申し分ない。
防弾ベストを装着していても胸骨や肋骨の骨折は免れない。
放たれた9mmの銃弾は背後に迫っていた気配の主を目掛けて飛んでいくはずだが、僅かに着弾が狂い、壁を削る。
刹那、挨拶返しの銃声が狭く短い空間を制圧せんと空間を埋め尽くす。
自動式32口径の豆弾。何発かはボストンバッグに被弾して停止する。敵は1人。遮蔽の角から手だけを突き出した盲撃ち。ダブルカアラムと思しき中型自動拳銃から発せられる銃弾は光恵以上に酷い狙い撃ちだった。無論、彼女の体にはかすりもしなかった。
スライドがホールドオープンし、それでも引き金を引こうと躍起になっているところをみるとトリガーハッピー気味なのかもしれない。
ようやく弾切れを起こしているのに気がついたらしい。遮蔽の角から突き出ている、自動拳銃を握る右手を狙い、アストラモデルコンスターブルを発砲。
5mの距離だ。
目を使って一呼吸分鎮まって狙えば外しはしない。
発砲。32口径とは矢張り、別格の発砲音を廊下に響かせて9mmショートのホローポイントは中型オートを握る手首を破壊して切断処置不可避の重傷を与える。
苦痛と反動で手首の主が遮蔽の角から体を折り、悲鳴とも苦悶とも罵声とも聞こえる不明瞭な何かを喚きながら不注意にも上半身側面を晒す。
光恵は『その機会も逃がさない』。
無防備に晒された男の左側頭部に向かって発砲。
光恵の記憶が確かならば今し方放った9mmショートの弾頭は自宅玄関先で襲撃した連中から奪った実包だ。
弾頭の種類はフルメタルジャケットだと覚えている。
その完全被甲弾は5mの距離から、男の、骨が薄い側頭部に風穴を開けて貫通することなく盲管となり、衝撃で発生した圧力で射入孔からミキサーにかけられたような脳漿や脳髄を潮のように吹いて床を汚した。
男の体が崩れ落ちる。
たった5mでの距離で展開される銃撃戦でも、狙うのとそうでないのとではこのようにワンサイドゲームで終わることも珍しくない。