灼熱のストレングス

 眉目から鼻筋、唇にかけてのラインがスッと通り、当世風の小顔に収まったパーツは、酔っ払っていれば美形だと自負できる。
 顎先の鋭い輪郭のシルエットは実をいうと自分でも不安で仕方がない。鼻から下の顎先を殴られただけでクリティカルヒットに繋がりかねない脆さを感じていたからだ。
 粗野粗暴に扱ったつもりでも、環境を跳ね返す強靭な体躯に育っていたことは、今夜の全力疾走で判明した。
 軽く浮いた腹筋。
 薄っすらと筋が通る大腿筋と上腕筋。
 残念なことに胸筋が発達気味なのかバストのサイズには誇れるものを感じない。何度か恋愛の末に性的交渉に辿り着いたがどの男も気を使って、胸の話題には触れてくれなかった。
 健気に背後から揉みしだいてくれる男を冷血にも「そんなに気を使わなくていいよ」と心の中で気持ちだけ受け取っていた。
 結果的に市井に紛れて活動するのに困らない、目立たない風貌を手に入れたが、今夜の全力疾走で数え切れないほど衆人と衝突したのでちょっとした有名人になっただろう。
 官憲の目に留まっていないことを願うばかりだ。
 シャワーを終え、ユニットバスに隣接している洋式トイレに全裸のまま座り込んで足を組んで小首をやや傾ける。
 光恵の中では今後の身の振り方が未だに決まっていないので思考に割く時間が、あらゆる行動が鈍磨している。
――――逃げなきゃいけない。
――――どこへ? どうやって?
――――今すぐにでも荷物をまとめなきゃ……。
 湿度の高いユニットバスから出てミネラルウオーターを呷りながらでも何も考えがまとまらない。
 全裸のまま仁王立ちで部屋の真ん中でラッキーストライクを銜えて眉目を寄せるが、何一つ名案が浮かばない。
 この闇社会に一歩でも踏み込めば本当に一切が闇だ。
 ベッドの枕の下で護身用に待機させている拳銃にしても使いどころを間違えればあっという間に破滅へと向かう。
「情報屋……は使えないだろうなあ……」
 よく考えれば自宅まで徒歩で這う這うの体で帰ってきたが、機動力となる原付バイクは、全力疾走のスタート地点となった繁華街の入り口で放置したままだ。
 繁華街の入り口の角でいつものように非合法薬物を売買していたら仲間の売人が「あなた、あの人の『身内』に手を出したでしょ? あなたを追って、もうすぐ手下がくるわよ。早く逃げたら?」と情報を一早く教えてくれた。
 この業界でも数少ない同年代で同性の売人なので懇意にさせてもらっていたのが奇貨となって顕れたようだ。
 早い話が、惚れた腫れたの話が拗れただけだ。
 それも親であるオヤジの介入が原因だ。
 二人仲良く乳繰り合っていれば何も問題はなかった。
 今でもそう思っている。現実問題として組織の敵になった光恵。
 彼女が無事帰宅して全裸で煙草を吹かしながら考察を重ねる時間があること自体が不思議だ。
「行く宛てはない……けど、行く!」
 光恵は大型のアリスバッグと大容量のボストンバッグを取り出すと身の回りのものを詰め込み始めた。……全裸で。
   ※ ※ ※
 彼。
 萱野和雅(かやの かずまさ)は相変わらずの強面を貼りつけ、短くなった煙草を灰皿に捻じ込んだ。
 灰皿の淵から吸殻が決壊するのは時間の問題だ。
 思考をまとめるのには煙草がなければ何も始まらない。
 抑揚のない事務的な指先が、白に紺色がビビッドに映えるクラッシュプルーフのボックスパックからJT謹製の大人の嗜好品を取り出す。ピースミディアムを掴んだ指先はそのまま後頭部に廻り、軽く掻く。
 萱野自身もプロを自負する。
 簡単に登場して、簡単に引き金を引いてお仕舞いにする、安直な殺し屋ではない。否、始末屋ではない。
 勝つか負けるか解らないが全員現場に急行してそこで作戦を立てて突撃、という三文小説の登場人物ではない。
 明確な計画性を重んじる。
 フリーランスでないだけにアゴで使える人材はいくらでもいる。ならば相手の力量を知るための試し撃ちも必要だ。
――――コイツらをぶつけるか……。
 脳内の記憶を司る部分に浮かぶ、『死んでも惜しくない面々』。
 その中から頭の悪い順に5人ほど選び、伝達代行業者を経由してコロシの依頼をメールで出す。
 依頼の伝達代行業者を経由することで萱野の身元や依頼人・萱野の顔が割れ難くなる。
 このどうでもいい連中程度で始末できるのなら、その程度の対象でしかなかったということだ。
 使い捨ての駒の一時的な手柄にはなるだろうが、速やかに萱野が駒連中を殺害すれば問題はない。
 任務の絶対条件はムロセミツエなるオンナを片付けることだけだ。
 トレーニングルームを出てシャワーを浴びている間に子飼いの情報屋からメールの着信があった。
 依頼人でオーナーであるオヤジが直々に放った三下連中が駆けずり回ったが逃げられたそうだ。
 今は対象のムロセミツエの自宅である1Kマンションの敷地内で潜伏し出方を伺っている最中だという。
 内心、感嘆する萱野。
 しじら織りの甚平姿でピースミディアムに愛用のトレンチライターで火を灯す。
 追い掛け回していた人数は4人の男だと聞く。
 逃げ回っていたフィールドは繁華街。
 雑踏の中、女が男を撒くほどの健脚を発揮するのは非常に難しい。
 普通の道を走るのと違い、能動的、受動的、流動的に移動する人間という障害物を押し切ったり、往なしたり、交わしたりする能力が必要な上に、1歩辺りの歩幅が大きく制限される。しかも不規則な歩幅を強いられる。
 それでも逃げ果せたのだろうから、優れた身体能力と運を持っているのだろう。
 だが、素直に帰宅する辺り、勘は悪い方だとプロファイルする。そして追いかけ回していたメンツ全員が先ほど萱野が脳内で、頭の悪い順に選抜した顔ぶれが大半だと知って自分の運のなさを嘆いた。
 オヤジこと組長の命令で遣い捨てられる三下では、萱野の依頼がダブルブッキングしてしまう。
 現場判断という概念を知らんバカどもでは、器用に任務の優先順位を調整したりどちらの依頼を履行するのか考えもしないだろう。
 すなわち、ムロセミツエの腕試しに玉砕してもらおうにも大したデータは得られない。
――――違う連中をぶつけるか。
 甘い紫煙をすーっと細く長く吐きながら萱野は再び携帯電話を手に取った。
  ※ ※ ※
 夏物の通気性のいい長袖の青いジャージを羽織る。
 ズボンも通気性重視で設えられた灰色のカーゴパンツ。そこへアリスバッグを背負い、ボストンバッグを取る。
「……」
 玄関を出る前に右手で左脇を押さえる。
 確かにそこには安心できる冷たさと重さがあった。
 できるものなら出番があって欲しくない逸品だ。
 ヤクの売人でも路地の影に入り込めば、金を払わず強奪する客で溢れかえっている。
 女だとなおさら舐められて暴力を行使される。
 そのたびに出番が訪れた鉄の肌をした相棒だ。
 遣い方は心得ているつもりだが、同じ組織者に遣うともなれば少し心構えは違ってくる。
 小説よろしく「撃っていいのは撃たれる覚悟が有る奴だけだ」とはいかない。その覚悟以前の奴が拳銃を握って横暴を働いているのだ。
 拳銃を握るということはそういうことだ。死ぬ覚悟のあるなし関係なく、護身の術としてのツールでしかない。
 撃つのは好きだが撃たれるのは嫌だという人間の方が圧倒的なのは推して知るべしである。
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