灼熱のストレングス

 格好悪く着地に失敗して尻を強かに打ち、すぐに起き上がることができなかったから咄嗟に『逃げた靴音』だけを演出したのだ。
 痛みに込み上げる悲鳴と涙をグッと呑む。
 二つの大きなバッグを抱えて良くぞ走ってくれた両脚。
 それにしても最近は全速力や脚力が試される機会が多い。
 この2日間で確実に体重が5kgは落ちている。幸いに消費したカロリーをこまめに摂取できているので日常での新陳代謝は正常だ。
 恥も外聞もなく地面に座ったまま靴を履き、道路の両手側に人気がなく、真正面が更地の売り土地で誰もみていないエアポケットだと悟ると、すぐさま、アストラモデルコンスターブルに新しい弾倉を差し込む。スライドは引かずにホルスターに戻す。
――――フリーダムアームス……。
――――あの馬鹿デカイ拳銃はフリーダムアームスの回転式だ。
――――面倒臭い……。
 光恵は噂に聞いたことがある。
 組長ことオヤジが、不逞を働いた構成員を階級や役職を問わずに排除する始末屋を飼っていることを。
 噂でしか知らない。だが、首と胴体が千切られたように泣き別れた死体をみせしめだと謂う理由でみせられたことがある。
 頚骨が見事に剥きだしにされ、離れた首の後頭部は衝撃で破壊されて小脳や脳髄を撒き散らしていた。脳を構成する組織は血液の……鉄錆とは違った匂いがするのだと鼻が記憶深くに覚えてしまった。
 まるで頚部自体が破裂したかのような死体。
 あのときの記憶が蘇る。
 あの死体の惨状が網膜の向こうに現れる。
 あの残虐非道で非人道的な暴力の代行者の存在が思い出される。
 オヤジは始末屋を駆り出した。
 名前は知らない。姿もしっかり見たわけではない。だが、最悪の追跡者を放ったのは理解できた。
――――売人と極道モンの身内の色恋沙汰は赦さない……か。
――――親の心としては解るけどね。
――――普通の親は殺し屋風情を使って永遠に仲を引き裂こうとしないよ。
 光恵はリップミラーでコンクリの壁越しにラブホテルの裏口駐車場付近を確認する。
 丁度、黒い大型ワゴンが出発するところだった。大型ワゴンの停まっていた辺りに赤黒い染みが幾つも残っていた。
 死体同然の負傷者も回収して出発したのだろう。その後を追うようにメタルグレイのサーブが発車する。ドライバーのシルエットは不明瞭だが明らかに『別格』が乗っているのが雰囲気で解る。
――――クーペ……サーブか。
――――あの始末屋が乗ってるな。
――――此方も早く退散するか……。
 弾痕と血液と塵埃で汚れたボストンバッグの中身を選別して代替の利く日用品は買い換え、同等のキャパシティを持つバッグを入手しなければならない。それに機動力も必要だ。隣県に逃げるにしても近場で逃走するにしても二輪車か自動車は欲しい。
「あいててて……」
 打ち付けた尻を擦りながら歩き出す。
 今日も快晴。
 気温は四捨五入すると40度になる。
 幼い頃にみた夏の空は本当に青くて吸い込まれそうだったのに、近年の夏の空はどこか霞が掛かっていて真っ青というには少し違う。
 ムクムクと湧き出る入道雲のパターンも違う。……思わずグローバルな環境破壊に思考が飛びそうだったが、すぐに諌めて徒歩で右手側へと進む。
 一度近場の繁華街に紛れて備品の購入や機動力の確保で体勢を整え直さなくてはいけない。
   ※ ※ ※
――――ふむ……。
――――ムロセミツエ。
――――むろせみつえ。
――――室瀬光恵か……。
――――中々ユニークな奴だ。
――――力技だけで腕前を自慢するゴロツキとはまた違うな。
 サーブを運転しながら萱野は先ほどから微笑が堪えられない。
 ミラーに自分の顔が写る度に口角を下げるのだが、室瀬光恵という標的のことを考えると、どうしても微笑が出る。
 誰にもみられていないと意識すれば目元も大きく笑っていたに違いない。
 左腰のホルスターに納まっているフリーダムアームスM83/500WEを5発撃ち尽くしても掠りもしなかった。
 運だけかと思ったが、その根底にはあらゆる定石や定法を埋めて最後の最後に残った『何か』に自分を投じ、死地に活路を見出す気骨ある闇社会の人間だと評価した。
 最近の若者にしては珍しく命の捨てどころを知っている。
 否、最近の若者なのに死地での活き方を知っている。
 逃げるためにとった、咄嗟の行動が全て吉と出るのは確率的には非常に低い。
 計算してもその通り運ぶことも稀だ。
 完璧な計算とは一から百までミスを犯さないことを指さない。計算の中で発生した解れや綻びを素早く、鮮やかに跡形もなく挽回する能力も含めて完璧な計算という。
 その計算を計算としてではなく、経験や勘としてではなく、生命力が具えているシンプルな動機が起因しているとしたら? ……それはもう立派な武器だ。戦力だ。そして彼女の魅力だ。
 光恵と恋仲だったというオヤジの子供の誰に手を出したのか知りたくなった。
 何しろ、オヤジの子供といえば、年齢こそ祖父と孫ほど離れているが……。
「……おっと」
 光恵に関して笑顔が咲くほどに思考が割かれてしまったためにハンドル操作を誤るところだった。急ブレーキ気味に赤信号で停車する。
――――ま、それも含めて彼女の魅力かな?
 ニヒルな微笑を隠すようにYシャツの胸ポケットからピースミディアムを1本取り出すと口に銜えた。
   ※ ※ ※
 この辺りでは……光恵が縄張りにしていた繁華街も含め、この辺りでは3番目に大きな通りで、毒々しいネオンが乱れ咲きを呈していないだけの人口密度が高い地域だった。
 表通りのアーケードから入らず、裏通りの路地から繁華街に入り込み必要な品物を揃えるべく店先を物色する。
「!」
 午後6時の雑踏の中、光恵は不意に背中に硬い物を感じた。
 背後を取られて銃口を突きつけられている。
 一気に視界が狭くなり霧を吹いたような汗が浮く。心臓を氷の手で握られた気分だ。
「……」
 背後の銃口は光恵の背中を撫でる。
「……!」
 撫でる銃口が背中に文字を書いていると解ると、振り向きもせずにその文字を感触で読み取る。
「二つ先の路地を曲がれ」
 銃口はそう告げていた。
 光恵の右手は左脇に滑り込むには距離があり過ぎた。
 反撃の機会を伺うべく銃口の主の言いなりになる。
 いきなりズドンとぶっ放さないだけ良識が有る。
 会話の最中でも隙が伺えるかも知れない。左手側に並ぶ店舗のショーウインドウで相手の姿を確認しようと視線を走らせるが、不審な挙動をみせるたびに銃口が背中を突くので視線を自然に正すしかできない。
 夕暮れ時が終わろうとしている時間帯の路地裏への入り口。
 何となく場違いな、明るい家族計画の自販機の陰に銃口で押しやられると、空かさず光恵は左手側に上半身を捻り、背後の人物の左上腕部を巻き込むように払って相手を一回転させる。
 その隙に右手は左脇へと伸びてアストラモデルコンスターブルを引き抜く。薬室には初弾が送り込まれていないがハッタリに使うには充分だろう。
 ……この襲撃者がエジェクションポート付近のインジケーターの存在を知っていたのなら状況は変わってくるが……。
「イタっ!」
 コンドームの自販機の陰に一瞬にして胸から叩きつけられて背後を光恵に晒した襲撃者は可愛らしい悲鳴を挙げる。
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