灼熱のストレングス
室瀬光恵(むろせ みつえ)は、ただ、駆けていた。
全力疾走。純粋な全力疾走。
人目も憚らず、人の流れも考慮せず、人を障害物だと認識せずに走る。
情動的に奔りだしていると表現できる、全てのしがらみを捨て去った一心不乱の全力疾走。
灰色の半袖のTシャツは既に汗の染みで色濃く変色し、その下に身に付けているスポーツブラのラインもくっきりと浮かんでいた。
デニム生地のズボンが満遍なく汗を吸い込み、不快感が肌の表面を這い上がってくる。
腰の括れだけで穿いているズボン。ややローライズ気味。後ろ腰の隙間から見える白い玉肌にはビッシリと大粒の汗が貼り付いている。
時折、その汗粒が大きな一滴の汗の珠にまとまり、ズボンの下に穿いているショーツに落ちて下着の中の不快指数を更に上昇させる。
夏で軽装を心掛けているとはいえ、迂闊だった。
室瀬光恵は高校を2年生で中退した。体育で走らされて以降、実に久し振りに本気で走っている。
在学中でさえこんなに長い距離を、こんなにも本気を出して走ることはなかった。
走り終えた末に与えられる功労賞が栄光ではなく、死あるいは死ぬほど苦しい苦痛だとすれば、命懸けで走ろうというものだ。
この全力疾走の最中に、急激な過負荷の運動で心臓が止まった方が楽だと感じる暇もない。
走ることにだけ価値を見出したランナー以上に命を賭けて走る。
人混みの中。
午後8時の繁華街の雑踏で走る彼女は誰から、何から逃げているのか? ……そう、『逃げている』のだ。
彼女の龍顔に喩えられる原石を秘めた荒削りな美貌が苦悶と崩れた形相に醜く歪む。
今月25歳になったばかりだが、年齢相応の落ち着きを手に入れるまでまだ時間が掛かりそうな、若気の至りが溢れ出るオンナだった。
オレンジがかった薄茶色のセミロングの髪を激しく振り乱す。走っている最中に、前髪が視界を阻害するのに腹が立って発作的に右手を閃かせてズボンのポケットの縁に挟みこんでいたヘアピンで無造作に前髪を開いて止める。
左目だけが完全に露出する。
吹き込む、生温いはずの空気が顔面を大きく撫でて心地良い。
平均的な女性の体躯より僅かに優れたポテンシャルを秘めた160cmの五体に感謝をするのは逃げ果せてからにしようと。
絶対に頭から冷水のシャワーを浴びながら自分を褒めてやろうと決意する。
室瀬光恵。25歳。表向きは無職の社会不適合者。
実際は非合法薬物の売買で凌ぎを削っている末端の三下だ。
「この街じゃいられない!」
光恵は強く自分を責めた。
全速力での疾駆の中で、自分の犯した過ちだけが一番強く心に残った。
様々な雑念が群雲のごとく現れる中、必死の遁走を終えた後に感じたことは、その一点のみ。
自分の失態を悔いて自分を責め苦に喘がせる厳しい言葉の羅列だった。
夏も終わろうかという時期。
残暑が厳しいとされる時期。
彼女は雑踏を走り抜け、追尾する気配がないのを感じ取り、路地裏への入り口の角で座り込んだ。
人気も疎らで酔客がたまに通る程度のシャッター街。
煌々と明るい自販機を見付けると携帯電話の電子マネーアプリにチャージした残高でミネラルウオーターを3本買い、2本をあっという間に飲み干し、残りの1本を頭から被った。
上半身は万遍無くずぶ濡れだが、汗を薄めて体表を冷やす効果が瞬間的に得られたので実に心地良い。
「……この街じゃ……居られない……」
歩くことを否定する両足の筋肉に気合を入れて立ち上がる。千鳥足気味に夜陰に消え入る。
※ ※ ※
「ムロセミツエ? ……その下っ端の売人を消せ、と?」
ノミで粗く削って、表面を荒く紙ヤスリで仕上げたような、実に荒々しい強面の男は怪訝な顔で左耳に当てた携帯電話の向こうの主に問う。
彼はこの業界に入って20年目の始末屋だが、箸も棒にも掛からないたった一人の麻薬の売人を殺せと命じられたのは初めてだった。
伸張が180cmを超え、蜜柑箱に筋肉をコーティングしたような見事な胸筋を中心に構成された彼が、電話の内容に対して筋骨の全てが拍子抜けを表現していた。ショボイ仕事だ……。
だが、彼もプロだ。
組織に飼われる一匹の犬らしく仕事を全うする以外に選択肢はない。このたびは少々拍子抜けが過ぎたので彼らしくない返答しただけだ。
コンクリ打ちっぱなしのトレーニングルームでのことだった。
筋力を養うための器具ばかりが並んでいるが、肉体年齢は正直なもので、並みいるトレーニングマシンが最近では『筋力を衰えさせないための器具』にみえてきた。
40歳の男盛りでも定年退職の無い世界を生きていると、ふと弱気にもなる。
トレーニングパンツを穿いただけで上半身は、塑像に運慶と快慶が加担したと思える浅黒い筋肉を晒していた。
携帯電話を切ると手近にあったスポーツタオルを肩に掛けて部屋を出た。
※ ※ ※
光恵は自宅に戻り、全ての衣服と下着を脱ぎ、無造作に散らかす。
そのままバスルームへ全裸で足早に入り、ユニットバスのシャワーを頭から浴びる。
頭から水と変わらない温度の微温湯に打たれながら、脳内で今後の方針を組み立てる。
――――やっぱ……。
――――オヤジの身内に手を出したのは拙かったな……。
オヤジとは地回りのヤクザの組長のことだ。
人口密度の高い界隈を広く仕切る有力者で、広域指定暴力団と変わらぬ勢力を持っている。
紙一重で公安から重要視されない理由は、公安内部にも鼻薬を嗅がせて注意を逸らせることに成功しているからだ。
勿論、鼻薬とは賄賂だ。場合によっては敵対組織の情報を提供し、一石二鳥を得ることもある。
国家権力の一部でさえ手懐けられる組長の信条として、暖簾は分けないが吉とある。
勢力拡大を狙っても、国産の反社会組織は真っ先に潰される。
外国製の組織はイタチごっこを常としているありさま。
そこで大きく名乗り出れば確実に潰される。
末端組織を作っても中間管理を営む組織は作らない。
有事の際には自由に分解し再編成できる柔軟性を狙ってのことだ。
組長が時代の趨勢に乗り遅れまいとインターネットの書籍を読んでいた折に発案したのだ。インターネットの起こりは冷戦時代に遡る。総司令部が核攻撃を受けて壊滅しても即座に別の場所に設けた同等の機能を持つ司令部に司令の権限を委譲し実行するシステムを構築した。
組長はこれを真似た。
年功序列を廃し、ビジネスライクに、システマチックに動員できる人材と組織を集めて構築した。
結果、全ての中間管理を担う組事務所が即座にそのまま末端の窓口になり、大盃の収納場所となる。
無論、綿密な連携があってこその組織だ。
歯向かう者や調和を乱す者は『民主主義的』に始末される。
そのヤクザの息が掛かった売人・室瀬光恵としてはヘマをしたから早く遁走を計りたいだけで、小物だからと見逃してくれれば問題はなかった。
……だが、あの異常な連携をみせる、文字通り横並びの組織が逸れ者を見逃すはずがない。
オヤジのことだ、殺し屋を雇ってまで始末をつけるだろう。
光恵は自他共に認めるほどに売人以上に価値がない。その光恵を始末するかもしれない理由……それは彼女がオヤジの血縁にアコギな不貞を働いたからだ。知らなかったでは済まされない。
「…………」
シャワーを浴びながらしばし沈黙。
目前の鏡には見慣れた自分の顔が映っている。
抽象的だが女性的丸みが強い貌。
全力疾走。純粋な全力疾走。
人目も憚らず、人の流れも考慮せず、人を障害物だと認識せずに走る。
情動的に奔りだしていると表現できる、全てのしがらみを捨て去った一心不乱の全力疾走。
灰色の半袖のTシャツは既に汗の染みで色濃く変色し、その下に身に付けているスポーツブラのラインもくっきりと浮かんでいた。
デニム生地のズボンが満遍なく汗を吸い込み、不快感が肌の表面を這い上がってくる。
腰の括れだけで穿いているズボン。ややローライズ気味。後ろ腰の隙間から見える白い玉肌にはビッシリと大粒の汗が貼り付いている。
時折、その汗粒が大きな一滴の汗の珠にまとまり、ズボンの下に穿いているショーツに落ちて下着の中の不快指数を更に上昇させる。
夏で軽装を心掛けているとはいえ、迂闊だった。
室瀬光恵は高校を2年生で中退した。体育で走らされて以降、実に久し振りに本気で走っている。
在学中でさえこんなに長い距離を、こんなにも本気を出して走ることはなかった。
走り終えた末に与えられる功労賞が栄光ではなく、死あるいは死ぬほど苦しい苦痛だとすれば、命懸けで走ろうというものだ。
この全力疾走の最中に、急激な過負荷の運動で心臓が止まった方が楽だと感じる暇もない。
走ることにだけ価値を見出したランナー以上に命を賭けて走る。
人混みの中。
午後8時の繁華街の雑踏で走る彼女は誰から、何から逃げているのか? ……そう、『逃げている』のだ。
彼女の龍顔に喩えられる原石を秘めた荒削りな美貌が苦悶と崩れた形相に醜く歪む。
今月25歳になったばかりだが、年齢相応の落ち着きを手に入れるまでまだ時間が掛かりそうな、若気の至りが溢れ出るオンナだった。
オレンジがかった薄茶色のセミロングの髪を激しく振り乱す。走っている最中に、前髪が視界を阻害するのに腹が立って発作的に右手を閃かせてズボンのポケットの縁に挟みこんでいたヘアピンで無造作に前髪を開いて止める。
左目だけが完全に露出する。
吹き込む、生温いはずの空気が顔面を大きく撫でて心地良い。
平均的な女性の体躯より僅かに優れたポテンシャルを秘めた160cmの五体に感謝をするのは逃げ果せてからにしようと。
絶対に頭から冷水のシャワーを浴びながら自分を褒めてやろうと決意する。
室瀬光恵。25歳。表向きは無職の社会不適合者。
実際は非合法薬物の売買で凌ぎを削っている末端の三下だ。
「この街じゃいられない!」
光恵は強く自分を責めた。
全速力での疾駆の中で、自分の犯した過ちだけが一番強く心に残った。
様々な雑念が群雲のごとく現れる中、必死の遁走を終えた後に感じたことは、その一点のみ。
自分の失態を悔いて自分を責め苦に喘がせる厳しい言葉の羅列だった。
夏も終わろうかという時期。
残暑が厳しいとされる時期。
彼女は雑踏を走り抜け、追尾する気配がないのを感じ取り、路地裏への入り口の角で座り込んだ。
人気も疎らで酔客がたまに通る程度のシャッター街。
煌々と明るい自販機を見付けると携帯電話の電子マネーアプリにチャージした残高でミネラルウオーターを3本買い、2本をあっという間に飲み干し、残りの1本を頭から被った。
上半身は万遍無くずぶ濡れだが、汗を薄めて体表を冷やす効果が瞬間的に得られたので実に心地良い。
「……この街じゃ……居られない……」
歩くことを否定する両足の筋肉に気合を入れて立ち上がる。千鳥足気味に夜陰に消え入る。
※ ※ ※
「ムロセミツエ? ……その下っ端の売人を消せ、と?」
ノミで粗く削って、表面を荒く紙ヤスリで仕上げたような、実に荒々しい強面の男は怪訝な顔で左耳に当てた携帯電話の向こうの主に問う。
彼はこの業界に入って20年目の始末屋だが、箸も棒にも掛からないたった一人の麻薬の売人を殺せと命じられたのは初めてだった。
伸張が180cmを超え、蜜柑箱に筋肉をコーティングしたような見事な胸筋を中心に構成された彼が、電話の内容に対して筋骨の全てが拍子抜けを表現していた。ショボイ仕事だ……。
だが、彼もプロだ。
組織に飼われる一匹の犬らしく仕事を全うする以外に選択肢はない。このたびは少々拍子抜けが過ぎたので彼らしくない返答しただけだ。
コンクリ打ちっぱなしのトレーニングルームでのことだった。
筋力を養うための器具ばかりが並んでいるが、肉体年齢は正直なもので、並みいるトレーニングマシンが最近では『筋力を衰えさせないための器具』にみえてきた。
40歳の男盛りでも定年退職の無い世界を生きていると、ふと弱気にもなる。
トレーニングパンツを穿いただけで上半身は、塑像に運慶と快慶が加担したと思える浅黒い筋肉を晒していた。
携帯電話を切ると手近にあったスポーツタオルを肩に掛けて部屋を出た。
※ ※ ※
光恵は自宅に戻り、全ての衣服と下着を脱ぎ、無造作に散らかす。
そのままバスルームへ全裸で足早に入り、ユニットバスのシャワーを頭から浴びる。
頭から水と変わらない温度の微温湯に打たれながら、脳内で今後の方針を組み立てる。
――――やっぱ……。
――――オヤジの身内に手を出したのは拙かったな……。
オヤジとは地回りのヤクザの組長のことだ。
人口密度の高い界隈を広く仕切る有力者で、広域指定暴力団と変わらぬ勢力を持っている。
紙一重で公安から重要視されない理由は、公安内部にも鼻薬を嗅がせて注意を逸らせることに成功しているからだ。
勿論、鼻薬とは賄賂だ。場合によっては敵対組織の情報を提供し、一石二鳥を得ることもある。
国家権力の一部でさえ手懐けられる組長の信条として、暖簾は分けないが吉とある。
勢力拡大を狙っても、国産の反社会組織は真っ先に潰される。
外国製の組織はイタチごっこを常としているありさま。
そこで大きく名乗り出れば確実に潰される。
末端組織を作っても中間管理を営む組織は作らない。
有事の際には自由に分解し再編成できる柔軟性を狙ってのことだ。
組長が時代の趨勢に乗り遅れまいとインターネットの書籍を読んでいた折に発案したのだ。インターネットの起こりは冷戦時代に遡る。総司令部が核攻撃を受けて壊滅しても即座に別の場所に設けた同等の機能を持つ司令部に司令の権限を委譲し実行するシステムを構築した。
組長はこれを真似た。
年功序列を廃し、ビジネスライクに、システマチックに動員できる人材と組織を集めて構築した。
結果、全ての中間管理を担う組事務所が即座にそのまま末端の窓口になり、大盃の収納場所となる。
無論、綿密な連携があってこその組織だ。
歯向かう者や調和を乱す者は『民主主義的』に始末される。
そのヤクザの息が掛かった売人・室瀬光恵としてはヘマをしたから早く遁走を計りたいだけで、小物だからと見逃してくれれば問題はなかった。
……だが、あの異常な連携をみせる、文字通り横並びの組織が逸れ者を見逃すはずがない。
オヤジのことだ、殺し屋を雇ってまで始末をつけるだろう。
光恵は自他共に認めるほどに売人以上に価値がない。その光恵を始末するかもしれない理由……それは彼女がオヤジの血縁にアコギな不貞を働いたからだ。知らなかったでは済まされない。
「…………」
シャワーを浴びながらしばし沈黙。
目前の鏡には見慣れた自分の顔が映っている。
抽象的だが女性的丸みが強い貌。
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