チョコレート・ゴースト
「……」
ワルサーP38ゲシュタポは右手側 に置いてある。
――――?
――――あれ?
ベッドに仰向けになるまでの記憶はあるが、そのときにワルサーP38ゲシュタポをどのように扱ってどの場所に置いていたのか記憶が定かではない。
その所在を思い返す思考も、ベッドから降りるころには既に忘れている。赤い悪夢も同じく雲散霧消。
昼食には早い時間。
バスケを辞めたからすぐに体内時計や生理的機能も通常の帰宅部と同等に調整されるわけではない。
軽いジョギングでもこなして体の鈍りを削ぎ落とさないと『体が死んでいく』のに似た嫌悪感を覚える。
室内で腕立てや腹筋やストレッチで充分に体を温める。
上下をジャージに包み、町内のグラウンドまでジョギングに出る。
ウエストポーチにワルサーP38ゲシュタポと2本の予備弾倉を突っ込む。薬室には装填しない。ジョギング中の暴発を気にかけてのことだ。
殺気立つ町内の空気。
この空気の大元を作り出したのが、他ならぬ自分自身だと思うと邪悪な微笑を禁じえない。
町内で擦れ違う住人と目が合っても会釈するだけで特に奇異な目で見られない。
「山本さんちの里香さんはバスケ部所属のスポーツ少女」で通っている。大方、体が鈍らない程度の運動だろう。休校でもバスケ部は違うのね……町内ではその程度の認識だ。
町内会の自治委員会――リタイアしたシニア世代で占める自警団もどき――がお揃いのパステルグリーンのベストを着て複数人で巡回している。警官の姿をみたのは1度だけだ。
銃火器犯罪隆盛の現代でも相変わらずの5連発の回転式拳銃。『万が一』の鉄火場に立たされるとなると大勢であっても38口径の5連発で撃ち合う気にはなれない。
一説では日本の警官の拳銃は致傷による無力化よりも、銃火器携行を許可された法の番人としての『抑止力』に重きを置くために拳銃を携行しているのだとか。予備実包の携行を視野に入れていないのも頷ける。
それらを横目にジョギング。
グラウンドに到着しても黙々と走るだけ。
整理運動をいくつかこなしてジョギングで帰宅。
何も代わり映えしない日常を送っているのを見せつけるのも欺瞞としては犯罪者の定法だ。里香は犯罪者の生き方など全く知らないが、「この場合は子のように振舞えば疑われない」という直感だけは冴えていた。
間抜けな公僕は杳として現れない。
バスタブに身を沈めながら、破滅までの時間を計る。
じっくりと自分の破滅を想像する。
「!」
里香の頭部が跳ねる。
またも転寝。今度は湯船に浸かったまま。
尻を突かれるように湯船から飛び出て、温いシャワーで頭を冷やす。
一生懸命に鍛えてきたつもりの肉体。
胸筋が発達しているのでバストは両掌で充分に収まるサイズ。
ウエストからのヒップのラインは流石というべきか、蜂のごとく流麗に引き締まっている。
肌理の細かい肌をシャワーの水玉が弾ける。「もう少し高ければレギュラー入りできたかもしれない」身長。
けれど自分の不足を体躯のせいにして矮小なルサンチマンに陥りたくない。
頭を振って、負に向かって沈殿する自分の頬を叩いて自覚を促す。
顧問に駄々をこねて臨時の選抜試験を受けさせてもらったが呆気なく夢は潰える。
尤も、3年生の4月にレギュラー入りをしても大した時間、その座を堪能できないだろう。
文字通り、栄光は短く苦難は長いだけの時間と労力。
里香はそこに価値を見出したから噛り付いていた。だが……遂に潰え、終えた。
「……」
鏡に映る裸身。ひとひらの贅肉も無い体。
四肢に到っては、筋肉の束が極限まで引き絞られたバネを思わせる靭さを秘めているが卒業してしまえば使い道が狭くなる。
卒業後は就職を希望する里香としては、体育会系に所属していた経歴を評価してもらって世間的に良いとされる就職口に有りつくことを願う。
――――今度、イメチェンでもするかな?
半身が充分に収まる鏡に映る里香。
前髪を摘んで小首を傾ぐ。
バスケの阻害になってはならぬと短めのマッシュウルフを保ってきた。
短髪系は結構、面倒臭い。特に朝が。起きると寝癖をまとめるだけで大きな時間を消費する。髪を乾かす時間は短くて助かるが、年頃の少女がなけなしのフェロモンを思う存分放出できないストレスも実情として存在する。
しばし、どんな髪型が似合うのか、頭から温いシャワーを浴びながら思案。
自分の顔。
自分の貌。
――――!
水分を多量に浴びる掌から嫌な脂汗が吹き出る。
あの女の顔が鏡の向こうに見えた……勿論、自分の顔だ。
だが、確かにあの女――駅の女子トイレで里香にワルサーP38ゲシュタポを一時的に託した自分に瓜二つの女――が居たと認識……錯覚したのだ。
「……」
あの女はワルサーP38ゲシュタポを預かってくれといった。
そしてわけありらしく、何者かに連行された。
治安機関の捜査員だろうことは想像に難くない。
その場に現れた里香そのものが、あの女にとって最高の好都合だったろう。
あの女が釈放されたら必ず里香を探し出し、ワルサーP38ゲシュタポを含む、青いバッグに入っていた『黒いアイテム類』を回収するだろう。
そのときこそ里香は殺される。
警察に捕まってしかるべき機関で裁きを受けて命で以って罪を償うより、あの女が自宅のドアの前に立つ方が恐ろしい。
鏡の前から後退り。
バスルームを出て手早く体を拭き、下着を身に着けてから部屋着がわりのパーカーに袖を通して自室に走る。
私服が詰まった箪笥の長尺棚を開け、足元に押し込んでいる青いバッグを引き出す。
ワルサーP38ゲシュタポと実包と予備弾倉以外は大して触れていない。
赤いグリップのアーミーナイフは未だ、どのファンクションも使っていない。
複数の携帯端末は電源が切られているが、GPS自体がオフにされていない可能性もある。
白い粉末が詰まった合計1kgのビニール袋の内部にも、回収のための発信機が隠されているかもしれない。
あらゆる可能性がグルグルと脳内を駆け巡る。
抱くは恐怖。震えだす唇。指先が白くなる。軽い震えは下着にパーカーだけの姿が理由ではない。
「……!」
咄嗟に、ベッド脇の机にウエストポーチごと放り出していたワルサーP38ゲシュタポを取り出して掴む。
両手でしっかりとグリップを握る……いや、しがみつく。強く強くしがみつく。
不思議と震えが止まる。
渇きを覚えていた喉にも充分な湿り気が与えられるだけの唾液が分泌される。
10秒後には深呼吸をする余裕も出てくる。
15分後には母親の昼食時を報せるインターフォンに応じて、ワルサーP38ゲシュタポをベッドに放り出して食卓に着くことができた。
フルロード。
撃鉄は起こしていない。
安全装置は解除。
常に安心感と温か味と残虐な心を与えてくれるワルサーP38ゲシュタポを右手で自分の胸に押し付ける。
左手は秘めやかな部分を何度もグラインドする。暗い部屋に這う熱っぽい吐息と衣擦れの音。
ワルサーP38ゲシュタポの銃口や撃鉄が、夜光に映し出された双球の頂点に有る蕾と擦れるたびに未成熟ながらも凄艶なしっとりとした嬌声が漏れる。
何も纏わず、何も羽織らず、何も掛けずに下腹に焚き付けられた熱い部分を鎮めようと好きなリズムで慰める。
あの夢……多幸感を伴う夢見ごこちな夢で深夜に目を覚まし、男を知らぬ体を、男を知らぬ指が這う。
ワルサーP38ゲシュタポは右手側 に置いてある。
――――?
――――あれ?
ベッドに仰向けになるまでの記憶はあるが、そのときにワルサーP38ゲシュタポをどのように扱ってどの場所に置いていたのか記憶が定かではない。
その所在を思い返す思考も、ベッドから降りるころには既に忘れている。赤い悪夢も同じく雲散霧消。
昼食には早い時間。
バスケを辞めたからすぐに体内時計や生理的機能も通常の帰宅部と同等に調整されるわけではない。
軽いジョギングでもこなして体の鈍りを削ぎ落とさないと『体が死んでいく』のに似た嫌悪感を覚える。
室内で腕立てや腹筋やストレッチで充分に体を温める。
上下をジャージに包み、町内のグラウンドまでジョギングに出る。
ウエストポーチにワルサーP38ゲシュタポと2本の予備弾倉を突っ込む。薬室には装填しない。ジョギング中の暴発を気にかけてのことだ。
殺気立つ町内の空気。
この空気の大元を作り出したのが、他ならぬ自分自身だと思うと邪悪な微笑を禁じえない。
町内で擦れ違う住人と目が合っても会釈するだけで特に奇異な目で見られない。
「山本さんちの里香さんはバスケ部所属のスポーツ少女」で通っている。大方、体が鈍らない程度の運動だろう。休校でもバスケ部は違うのね……町内ではその程度の認識だ。
町内会の自治委員会――リタイアしたシニア世代で占める自警団もどき――がお揃いのパステルグリーンのベストを着て複数人で巡回している。警官の姿をみたのは1度だけだ。
銃火器犯罪隆盛の現代でも相変わらずの5連発の回転式拳銃。『万が一』の鉄火場に立たされるとなると大勢であっても38口径の5連発で撃ち合う気にはなれない。
一説では日本の警官の拳銃は致傷による無力化よりも、銃火器携行を許可された法の番人としての『抑止力』に重きを置くために拳銃を携行しているのだとか。予備実包の携行を視野に入れていないのも頷ける。
それらを横目にジョギング。
グラウンドに到着しても黙々と走るだけ。
整理運動をいくつかこなしてジョギングで帰宅。
何も代わり映えしない日常を送っているのを見せつけるのも欺瞞としては犯罪者の定法だ。里香は犯罪者の生き方など全く知らないが、「この場合は子のように振舞えば疑われない」という直感だけは冴えていた。
間抜けな公僕は杳として現れない。
バスタブに身を沈めながら、破滅までの時間を計る。
じっくりと自分の破滅を想像する。
「!」
里香の頭部が跳ねる。
またも転寝。今度は湯船に浸かったまま。
尻を突かれるように湯船から飛び出て、温いシャワーで頭を冷やす。
一生懸命に鍛えてきたつもりの肉体。
胸筋が発達しているのでバストは両掌で充分に収まるサイズ。
ウエストからのヒップのラインは流石というべきか、蜂のごとく流麗に引き締まっている。
肌理の細かい肌をシャワーの水玉が弾ける。「もう少し高ければレギュラー入りできたかもしれない」身長。
けれど自分の不足を体躯のせいにして矮小なルサンチマンに陥りたくない。
頭を振って、負に向かって沈殿する自分の頬を叩いて自覚を促す。
顧問に駄々をこねて臨時の選抜試験を受けさせてもらったが呆気なく夢は潰える。
尤も、3年生の4月にレギュラー入りをしても大した時間、その座を堪能できないだろう。
文字通り、栄光は短く苦難は長いだけの時間と労力。
里香はそこに価値を見出したから噛り付いていた。だが……遂に潰え、終えた。
「……」
鏡に映る裸身。ひとひらの贅肉も無い体。
四肢に到っては、筋肉の束が極限まで引き絞られたバネを思わせる靭さを秘めているが卒業してしまえば使い道が狭くなる。
卒業後は就職を希望する里香としては、体育会系に所属していた経歴を評価してもらって世間的に良いとされる就職口に有りつくことを願う。
――――今度、イメチェンでもするかな?
半身が充分に収まる鏡に映る里香。
前髪を摘んで小首を傾ぐ。
バスケの阻害になってはならぬと短めのマッシュウルフを保ってきた。
短髪系は結構、面倒臭い。特に朝が。起きると寝癖をまとめるだけで大きな時間を消費する。髪を乾かす時間は短くて助かるが、年頃の少女がなけなしのフェロモンを思う存分放出できないストレスも実情として存在する。
しばし、どんな髪型が似合うのか、頭から温いシャワーを浴びながら思案。
自分の顔。
自分の貌。
――――!
水分を多量に浴びる掌から嫌な脂汗が吹き出る。
あの女の顔が鏡の向こうに見えた……勿論、自分の顔だ。
だが、確かにあの女――駅の女子トイレで里香にワルサーP38ゲシュタポを一時的に託した自分に瓜二つの女――が居たと認識……錯覚したのだ。
「……」
あの女はワルサーP38ゲシュタポを預かってくれといった。
そしてわけありらしく、何者かに連行された。
治安機関の捜査員だろうことは想像に難くない。
その場に現れた里香そのものが、あの女にとって最高の好都合だったろう。
あの女が釈放されたら必ず里香を探し出し、ワルサーP38ゲシュタポを含む、青いバッグに入っていた『黒いアイテム類』を回収するだろう。
そのときこそ里香は殺される。
警察に捕まってしかるべき機関で裁きを受けて命で以って罪を償うより、あの女が自宅のドアの前に立つ方が恐ろしい。
鏡の前から後退り。
バスルームを出て手早く体を拭き、下着を身に着けてから部屋着がわりのパーカーに袖を通して自室に走る。
私服が詰まった箪笥の長尺棚を開け、足元に押し込んでいる青いバッグを引き出す。
ワルサーP38ゲシュタポと実包と予備弾倉以外は大して触れていない。
赤いグリップのアーミーナイフは未だ、どのファンクションも使っていない。
複数の携帯端末は電源が切られているが、GPS自体がオフにされていない可能性もある。
白い粉末が詰まった合計1kgのビニール袋の内部にも、回収のための発信機が隠されているかもしれない。
あらゆる可能性がグルグルと脳内を駆け巡る。
抱くは恐怖。震えだす唇。指先が白くなる。軽い震えは下着にパーカーだけの姿が理由ではない。
「……!」
咄嗟に、ベッド脇の机にウエストポーチごと放り出していたワルサーP38ゲシュタポを取り出して掴む。
両手でしっかりとグリップを握る……いや、しがみつく。強く強くしがみつく。
不思議と震えが止まる。
渇きを覚えていた喉にも充分な湿り気が与えられるだけの唾液が分泌される。
10秒後には深呼吸をする余裕も出てくる。
15分後には母親の昼食時を報せるインターフォンに応じて、ワルサーP38ゲシュタポをベッドに放り出して食卓に着くことができた。
フルロード。
撃鉄は起こしていない。
安全装置は解除。
常に安心感と温か味と残虐な心を与えてくれるワルサーP38ゲシュタポを右手で自分の胸に押し付ける。
左手は秘めやかな部分を何度もグラインドする。暗い部屋に這う熱っぽい吐息と衣擦れの音。
ワルサーP38ゲシュタポの銃口や撃鉄が、夜光に映し出された双球の頂点に有る蕾と擦れるたびに未成熟ながらも凄艶なしっとりとした嬌声が漏れる。
何も纏わず、何も羽織らず、何も掛けずに下腹に焚き付けられた熱い部分を鎮めようと好きなリズムで慰める。
あの夢……多幸感を伴う夢見ごこちな夢で深夜に目を覚まし、男を知らぬ体を、男を知らぬ指が這う。