チョコレート・ゴースト
悲鳴。
さも地獄の奥底を一望するのに似た、悲鳴の渦。
あれだけの満員直前の車内なのに、あっという間に里香の周りに洞のような間隔が開く。
誰も彼もが里香に近寄りたくないために、押し合い圧し合いの、押しくら饅頭だ。
里香の足元には血の池が広がりつつある負傷した男。
床に倒れたまま荒い呼吸をしている以外に行動はできないようだ。里香はこれが無力化であると他人事のように見下ろす。
ワルサーP38ゲシュタポを腰の辺りで構え、下半身のバネと稼動範囲を最大限に使って周囲を無言で無表情で威嚇する。
今ここで、里香が述べるべき具体的な犯行声明はない。フラストレーションが破裂しただけの、ガス抜きに等しい凶行だ。
薬室を含めて装弾数は8発。
善良を自負する市民を脅すには充分な弾数だ。
ブレザーの外ポケットから青いバッグに放り込まれていた赤い樹脂グリップのアーミーナイフを左手で取り出す。前歯で噛んでメインブレードを展開する。
このナイフにはメインブレードにロック機能が付いていないので使用の上では注意を要する。
人間の腹に付きたてようものなら、ブレードがヒンジを中心に折れてナイフを握る手を負傷する。
だが威嚇には充分だ。里香の脅威を見せ付ける役目は充分に果たしているはずだ。
里香はワルサーP38ゲシュタポを構えたまま、ドアを背後にして空虚で中身が無く、実に軽薄な笑みを浮かべた。
どいつもこいつも恐怖に慄く。
その南瓜のごとく並ぶ顔が余りにも滑稽。
銃口を左右にゆっくり振り、並みいる乗客の青褪める顔を楽しむ。
たかが女子高生一人が拳銃を握っているだけで、たかが痴漢を一人黙らせただけでこの混乱。
その中で犯行の中心人物が超然と構えている……頭は爽快なのに心が停頓を訴える。
遊離。解離。夢現。
里香の左手側……1mにも満たない距離から裂帛の気迫と共に初老の男性が何かの武道の構えで一歩踏み出し、その術を修めた掌が里香の左手に到達する。
腕を拉ぎ上げられる前にワルサーP38ゲシュタポが咆哮を挙げて9mmパラベラムを弾く。
義侠心に溢れた初老の男は9mmパラベラムを受けたが、胸の前で翳すように構えていた自身の左手尺骨で9mmの高速弾を防いだ。
偶然の命中であろうが、なるほど、武芸と云うモノは馬鹿にできない。攻防一体を謳う流派が多いと聞く。
ナイフを持つ里香の左手を掴みつつ、自身を凶弾からも守るハイスペックな術儀を披露した。
合気道か柔術か、左手首を掴まれているだけなのに全身の筋が引っ張られて脱力するが、その奇怪な業も直ぐに解ける。
初老の男は負傷して関節がもう一つ増えたように折れ曲がっている自身の左腕を見て驚き、業を解いてしまったのだ。
「うぜぇ」
里香は初老の男に今度こそ確実に胸部に9mmパラベラムを叩き込んだ。
今度こそ防ぎようがなく床に倒れる初老の男。
背中に弾頭が貫通した痕がある。
男性の背後に居たOLらしい女性が悲鳴を挙げる口の形に開いたままその場にへたり込み、前のめりに倒れる。貫通した弾頭がこの女性のどこかの部位に命中したのだろう。
耳が小癪な雑音を拾う。
あちらこちらから。多数。ひそひそ声も混じる。
「ダッセェなぁ……」
これだけの騒ぎを起こして、これだけの時間が経過していれば治安当局に通報されるのは火をみるより明らかだ。
硝煙と鉄錆に似た、濃厚な臭いが立ち込める車内。
背後にしているドアが開けば全てが終わる。
見事に社会不適合者の仲間入りを果たした里香はただの犯罪者で、殺人者で、不穏分子だ。
非武装の乗客で溢れ返る車内では無敵でも、この電車が駅に停車し、背中の盾にしているドアが開けば、里香の残虐非道で没義道な凶行は幕を閉じる。
スクールバッグを足元に落とし、左手からもアーミーナイフが滑り落ちる。
「あーあ……面白いったりゃありゃしない」
里香は中空の向こう、天井の向こうを見上げてワルサーP38ゲシュタポの銃口をコメカミに押し当てて引き金を引いた。
ダブルアクションからの発砲で一度もセフティをかけていない。
従って軽いトリガープル、短いトリガーストロークでワルサーP38ゲシュタポは事務的に機械的に、然し血を欲する有機的感触を引き金を引く里香に与えながら、今のオーナーである里香の右側頭部を撃ち抜いた。
スクールバッグに忍ばせたワルサーP38ゲシュタポ。
20分ほど吊り革に掴まって揺られる車内で、全く脈絡のない衝動が群雲のように里香の精神を蝕む。
ここでおもむろにワルサーP38ゲシュタポを抜いて誰でもいいから撃ち殺せばどんなに楽しいか。
妄想に空想が拍車をかけて想像の翼が広がった。
「……面白いったらありゃしない」
車窓の外を流れる風景を瞳孔に映したまま、暫しの自慰的想像を楽しんでいた。
……電車が駅に到着するアナウンスで現実に引き戻される。
糞忌々しい、いつもの痴漢には相当な自由を許してしまっていたらしく、床には精液が詰まった使用済みのコンドームが落ちている。
痴漢が里香の体を弄び、愚息に被せたままのゴム越しにマスカキをして迸りを溜め込んだのだろう。
「……」
――――そして私は今日も泣き寝入りの一人を演じる……か。
無為に放たれた生命の根源が何億も詰まった、差込口が固結びされたピンク色の使用済みゴムを爪先で踏みつける。
ゴムが弾けて爪先の影から白濁が吹き出る。
その後にラバーの靴裏から伝わるおぞましい感触。
グチャグチャと蹂躙しながら気色悪い、ゴムとも精液とも思える感覚を床に擦り付ける。
無残に踏み潰される男性のエキスに、憐憫と見下しが混じる冷たい視線でそれを見る。
やがて電車のドアが開き、降りるべき駅で降車すると、無駄に散った数億もの精子に対する何かしらの感情は全て忘れ去っていた。
長い妄想で遊んだためにいつもより電車は早く到着した。
妄想や空想という個人の概念だけで形成される世界で、事細かに遊ぶのが苦手なタイプだったがたまには脳内にダイブするのも悪くはないと思った。
阿諛便佞。二股膏薬。私利私欲。事大主義。狐仮虎威。巧言令色。牽強付会。曲学阿世。
実に生理的性格的に嫌な四字熟語の羅列。
現文の授業中に副教材のページを捲っていたら、虫唾が走る単語ばかりが眼に映る。
少々不安定な情緒。ちくりと騒ぐ苛つき。生理が近いか?
自分ではサバサバとした性格で、世間のペースには大した興味も反応も示さない性分だと思っていた。
深層心理以下に潜む、黒く暗い自分自身が表層を取り繕う里香というパーソナルに「思う存分、自分らしく振舞え」と囁いている。その囁きにはネガティブに陥る要素にはない。
公園で襲い掛かってきた不審者を射殺したときも、繁華街の路地裏で虫けらのように追い剥ぎもどきを射殺したときも何も感じない。
自分に司直の手が及ぶかもしれない可能性すら恐怖ではない。
どちらかと言えば「楽しい」感情に違いないのに、アンビバレンスに存在する「楽しくない」感情。
行動教義に当て嵌めればダブルスタンダードとも思える傾向。
さも地獄の奥底を一望するのに似た、悲鳴の渦。
あれだけの満員直前の車内なのに、あっという間に里香の周りに洞のような間隔が開く。
誰も彼もが里香に近寄りたくないために、押し合い圧し合いの、押しくら饅頭だ。
里香の足元には血の池が広がりつつある負傷した男。
床に倒れたまま荒い呼吸をしている以外に行動はできないようだ。里香はこれが無力化であると他人事のように見下ろす。
ワルサーP38ゲシュタポを腰の辺りで構え、下半身のバネと稼動範囲を最大限に使って周囲を無言で無表情で威嚇する。
今ここで、里香が述べるべき具体的な犯行声明はない。フラストレーションが破裂しただけの、ガス抜きに等しい凶行だ。
薬室を含めて装弾数は8発。
善良を自負する市民を脅すには充分な弾数だ。
ブレザーの外ポケットから青いバッグに放り込まれていた赤い樹脂グリップのアーミーナイフを左手で取り出す。前歯で噛んでメインブレードを展開する。
このナイフにはメインブレードにロック機能が付いていないので使用の上では注意を要する。
人間の腹に付きたてようものなら、ブレードがヒンジを中心に折れてナイフを握る手を負傷する。
だが威嚇には充分だ。里香の脅威を見せ付ける役目は充分に果たしているはずだ。
里香はワルサーP38ゲシュタポを構えたまま、ドアを背後にして空虚で中身が無く、実に軽薄な笑みを浮かべた。
どいつもこいつも恐怖に慄く。
その南瓜のごとく並ぶ顔が余りにも滑稽。
銃口を左右にゆっくり振り、並みいる乗客の青褪める顔を楽しむ。
たかが女子高生一人が拳銃を握っているだけで、たかが痴漢を一人黙らせただけでこの混乱。
その中で犯行の中心人物が超然と構えている……頭は爽快なのに心が停頓を訴える。
遊離。解離。夢現。
里香の左手側……1mにも満たない距離から裂帛の気迫と共に初老の男性が何かの武道の構えで一歩踏み出し、その術を修めた掌が里香の左手に到達する。
腕を拉ぎ上げられる前にワルサーP38ゲシュタポが咆哮を挙げて9mmパラベラムを弾く。
義侠心に溢れた初老の男は9mmパラベラムを受けたが、胸の前で翳すように構えていた自身の左手尺骨で9mmの高速弾を防いだ。
偶然の命中であろうが、なるほど、武芸と云うモノは馬鹿にできない。攻防一体を謳う流派が多いと聞く。
ナイフを持つ里香の左手を掴みつつ、自身を凶弾からも守るハイスペックな術儀を披露した。
合気道か柔術か、左手首を掴まれているだけなのに全身の筋が引っ張られて脱力するが、その奇怪な業も直ぐに解ける。
初老の男は負傷して関節がもう一つ増えたように折れ曲がっている自身の左腕を見て驚き、業を解いてしまったのだ。
「うぜぇ」
里香は初老の男に今度こそ確実に胸部に9mmパラベラムを叩き込んだ。
今度こそ防ぎようがなく床に倒れる初老の男。
背中に弾頭が貫通した痕がある。
男性の背後に居たOLらしい女性が悲鳴を挙げる口の形に開いたままその場にへたり込み、前のめりに倒れる。貫通した弾頭がこの女性のどこかの部位に命中したのだろう。
耳が小癪な雑音を拾う。
あちらこちらから。多数。ひそひそ声も混じる。
「ダッセェなぁ……」
これだけの騒ぎを起こして、これだけの時間が経過していれば治安当局に通報されるのは火をみるより明らかだ。
硝煙と鉄錆に似た、濃厚な臭いが立ち込める車内。
背後にしているドアが開けば全てが終わる。
見事に社会不適合者の仲間入りを果たした里香はただの犯罪者で、殺人者で、不穏分子だ。
非武装の乗客で溢れ返る車内では無敵でも、この電車が駅に停車し、背中の盾にしているドアが開けば、里香の残虐非道で没義道な凶行は幕を閉じる。
スクールバッグを足元に落とし、左手からもアーミーナイフが滑り落ちる。
「あーあ……面白いったりゃありゃしない」
里香は中空の向こう、天井の向こうを見上げてワルサーP38ゲシュタポの銃口をコメカミに押し当てて引き金を引いた。
ダブルアクションからの発砲で一度もセフティをかけていない。
従って軽いトリガープル、短いトリガーストロークでワルサーP38ゲシュタポは事務的に機械的に、然し血を欲する有機的感触を引き金を引く里香に与えながら、今のオーナーである里香の右側頭部を撃ち抜いた。
スクールバッグに忍ばせたワルサーP38ゲシュタポ。
20分ほど吊り革に掴まって揺られる車内で、全く脈絡のない衝動が群雲のように里香の精神を蝕む。
ここでおもむろにワルサーP38ゲシュタポを抜いて誰でもいいから撃ち殺せばどんなに楽しいか。
妄想に空想が拍車をかけて想像の翼が広がった。
「……面白いったらありゃしない」
車窓の外を流れる風景を瞳孔に映したまま、暫しの自慰的想像を楽しんでいた。
……電車が駅に到着するアナウンスで現実に引き戻される。
糞忌々しい、いつもの痴漢には相当な自由を許してしまっていたらしく、床には精液が詰まった使用済みのコンドームが落ちている。
痴漢が里香の体を弄び、愚息に被せたままのゴム越しにマスカキをして迸りを溜め込んだのだろう。
「……」
――――そして私は今日も泣き寝入りの一人を演じる……か。
無為に放たれた生命の根源が何億も詰まった、差込口が固結びされたピンク色の使用済みゴムを爪先で踏みつける。
ゴムが弾けて爪先の影から白濁が吹き出る。
その後にラバーの靴裏から伝わるおぞましい感触。
グチャグチャと蹂躙しながら気色悪い、ゴムとも精液とも思える感覚を床に擦り付ける。
無残に踏み潰される男性のエキスに、憐憫と見下しが混じる冷たい視線でそれを見る。
やがて電車のドアが開き、降りるべき駅で降車すると、無駄に散った数億もの精子に対する何かしらの感情は全て忘れ去っていた。
長い妄想で遊んだためにいつもより電車は早く到着した。
妄想や空想という個人の概念だけで形成される世界で、事細かに遊ぶのが苦手なタイプだったがたまには脳内にダイブするのも悪くはないと思った。
阿諛便佞。二股膏薬。私利私欲。事大主義。狐仮虎威。巧言令色。牽強付会。曲学阿世。
実に生理的性格的に嫌な四字熟語の羅列。
現文の授業中に副教材のページを捲っていたら、虫唾が走る単語ばかりが眼に映る。
少々不安定な情緒。ちくりと騒ぐ苛つき。生理が近いか?
自分ではサバサバとした性格で、世間のペースには大した興味も反応も示さない性分だと思っていた。
深層心理以下に潜む、黒く暗い自分自身が表層を取り繕う里香というパーソナルに「思う存分、自分らしく振舞え」と囁いている。その囁きにはネガティブに陥る要素にはない。
公園で襲い掛かってきた不審者を射殺したときも、繁華街の路地裏で虫けらのように追い剥ぎもどきを射殺したときも何も感じない。
自分に司直の手が及ぶかもしれない可能性すら恐怖ではない。
どちらかと言えば「楽しい」感情に違いないのに、アンビバレンスに存在する「楽しくない」感情。
行動教義に当て嵌めればダブルスタンダードとも思える傾向。