チョコレート・ゴースト

 返るモーションの右手でパーカーの裾を翻らせて右手でワルサーP38ゲシュタポを抜く。クイックドロウに似た動作で発砲。
 照準を定めない、感覚だけの発砲。
 鉄パイプの男の左脇腹に9mmパラベラムが命中。男の体が大きく震えると右足を軸に左回転し、地面に倒れる。
 四方で殺気が沸き立つ。現実から乖離する意識。体がどのように動くのか……果たしてそれを理性で制御しているのか?
 回転式の短い銃身をした拳銃が前方5mの辺りから発砲される。
 里香は大した挙動を見せず、しかし、反射的に銃口の前から体を逸らせた。
 ワルサーP38ゲシュタポより僅かに小さな発砲音と音響を残し、銃弾は里香の体を外れる。里香の背後にいた――忍び寄っていた――フォールディングナイフをアイスピックグリップで保持した男の右胸部に被弾し、肺腑の気体を吐き出すような呻き声を挙げて前のめりに倒れる。
 刹那。
 やや左倒しにワルサーP38ゲシュタポを握る右手を伸ばし、前方の回転式拳銃を持つ男――30代前半の、里香と同じくらいの身長の体躯――に次弾の撃発を許さず、発砲。
 音速より早い9mmパラベラムが男の喉仏の辺りに命中した……と思われる。
 粘液的な音を立て、射入孔と射出孔を作り、首を不自然な方向に折り曲げて仰向けに倒れる。
 前方にもう一つの脅威が存在するにも拘らず、里香は左足の踵をキュッと鳴らして体の向きを反転させ、背後に迫っていた2人の影を視界に入れる。
――――これが!
――――動体標的!
 その2人は機織のように蛇行しながら里香に向かって走り出す。
 たった5mの距離を不規則な蛇行で何度も交差しながら走るその2人に向かって発砲。
 左右に揺れる銃口だったが、発砲された回数は1回だけ。
 大型の鉈と1m近いバールを手にしたその2人は右脇腹と左脇腹に被弾し、前屈みに倒れ込んだ。
 1人目を貫通した9mmの弾頭が内臓の柔らかい部分を選りながら直進して貫通し、偶々背後にいたもう1人に命中したのだ。
 視線を返して。
 再び背後に首だけを回して残る1人を確認。
 4m以上も離れた距離。
 男の手には懐中拳銃と呼ばれるらしい超小型の自動拳銃。
 懐中拳銃の男――20代前半と思われる、痩身痩躯――は恐慌に襲われた悲鳴を挙げて、出鱈目に懐中拳銃を乱射しながら背中をみせて遁走する。
 25ACPだの22ショートだのを用いると思われる、その豆弾は無為に空を穿つ。
 錯乱した懐中拳銃の男は全弾撃ち尽してもスライドが後退しないそれを握り、背中を向けて逃走を計る。
 絶好の標的を見つけたのと同じハイライトを眼光に湛え、里香の焦点が流れて男の背中を捕らえる……そして発砲。
 ようやうく聞き慣れつつある、人体への着弾時の水風船が小さく破裂するような音。
 初めて拳銃で……否、ワルサーP38ゲシュタポで殺人を犯したときにもそうだった。
 呵責の念が何一つ沸き起こらず、人間を殺めた事実が喩えようもない高揚感を与えてくれて、自慰に相当する快楽と悦楽を覚える。
 人を撃ったときに最初に覚えるのは反動だ、というくだらなくとも、全うなジョークのように、反動しか覚えず、その結果奪われた人命への尊厳はテッシュペーパーを丸めるのと同じ気軽さで蹂躙した。
 右掌で暴れる9mmパラベラムの反動も、彼女の膂力を持ってすれば制御は容易い。
 彼女の動体視力を持ってすれば、咄嗟に照準を定めることなど難儀ではない。
 ワルサーP38ゲシュタポという、曰くのある経緯を持つ拳銃を操る『今のオーナー』の山本里香もまた、曰く付きとレッテルを貼られても致し方ない性分を発揮している。
 弾倉では5発の9mmパラベラムが出番を焦がれているが、この場では最早出番はない。
 上気して頬が桜色になっている里香は、低学年の小学生がテストで百点満点を取ったかのように喜悦。しかし表情を噛み殺し、だが、引き絞った唇は小さく痙攣して喜びの笑いを全て隠すことはできていなかった。
 離れた場所の自販機の前で、煌々とした光源を頼りに、弾倉に実包を補弾する。
 まだ彼女は自分で気がついていない。
 彼女自身の身体的スペックに。
 ゆえに人殺しは簡単な作業で、人殺しは嗜好品の摂取と同じ快楽を得る手段だと体が覚えてしまった。……そのことに深い自覚はない。あるのは反社会的行動と殺人・破壊衝動に対する軽んじた価値観だけだ。
 
 その日の夜も多幸感に包まれる夢をみた。
 夢の内容は覚えていないが、雲の上で眠っているかのような体の軽さを覚え、背筋が急激に温かくなり、体の中から外側に何かが開く開放感を覚えながら、早くも遅くも無い速度で奈落に落ちる夢を見る……見た気がした。


 次の日の朝。
 洗面所の前で鏡を見ながら自問自答する自分が居る。
――――お前は誰だ?
 見慣れた顔。自分の顔。いつものはずの顔。
 陰惨な翳りが眼窩と頬に差し込んでいる……気がする。
 家族は気がついていないのか、疲れているだけだと思っているのか。バスケを辞めた心労と心因性のショックを引きずっているだけだと解釈されたか。
 誰も声をかけてくれない疎外感は逆に助かった。
 登校中の満員直前の電車。
 どいつもこいつも死刑台に昇るような陰気臭い顔をしている。
 苦笑を禁じえない。
 ワルサーP38ゲシュタポを手にするまで、そんな歪んだ視線で世界を見たことがない。
 世界をそんな歪んだ目でみるようになった自分の変化に気がついていない。
 スクールバッグに忍ばせたワルサーP38ゲシュタポ。
 20分ほど吊り革に掴まって揺られる車内で、全く脈絡の無い衝動が群雲のように里香の精神を蝕む。
 ここでおもむろにワルサーP38ゲシュタポを抜いて、誰でもいいから撃ち殺せばどんなに楽しいか。
 妄想に空想が拍車をかけて想像の翼が広がる。
 里香は左肩に掛けたスクールバッグにゆっくりと右手を差し込んでワルサーP38ゲシュタポの安心感溢れる、滑り止めの溝が刻まれたグリップを握る。
 やや汗ばむ掌。小指から中指までしっかりと滑り止めに馴染むように強く握る。
 人差し指はトリガーガード前方に掛けて待機させ、親指はセフティに掛けたまま待機。
 人いきれが目にみえそうな車内でワルサーP38ゲシュタポを抜く。四方八方が他人の体と密着している状況で、銃身が極端に短い右手の凶銃は扱い易い。
 発砲するまでに始まったはずのカウントダウンはいくつかすっ飛ばされ、9mmパラベラムは弾き出された。
 ワルサーP38ゲシュタポを握る右手を左脇に差し込んでの、CQCインストラクターもびっくりの距離での発砲だ。
 密着し過ぎていたためか、発砲音はくぐもる。
 里香の背後にいた、草臥れたブラウンの背広を着た40代後半のサラリーマン風の男は鳩尾を唐突に銃撃され、膝から崩れようとするが密着状態の里香に背負われる状態になり床に沈まない。
 更に里香は引き金を引く。
 トリガーストロークが短くトリガープルも小さいフィーリング。
 更に銃声。
 悲鳴。阿鼻叫喚の様相を見せる車内。
 里香はいつも遠慮なく尻や腰を撫で回す痴漢を排除しただけだ。
 官憲に突き出して逮捕に至る手順を飛ばして退治しただけだ。
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