チョコレート・ゴースト

 昂ぶる。声にならない声。
 閃く。右手がワルサーP38ゲシュタポを引き抜く。
 その間には親指が跳ね、セフティを解除。
 危険。
 誰が?
 里香が?
 襲撃者と思われる何者かが?
 ……条件反射。脊髄反射。あらゆる反射神経が応え、里香は、彼女は、この少女は、躊躇わず振り向きざまに……引き金を引いた。
 彼我の距離3m。目前に大きく広がるドーナツ状のマズルフラッシュ。
 拍子抜けする金属音――地面に落ちた空薬莢の音――が大きな、胎に響く発砲音の隙間から聞こえる。
 初めて覚える反動。
 粘着質な湿り気がある着弾音。
 鼻腔をくすぐるガンスモーク。
 この距離なら外さない。
 照準を定めるまでもなく、9mmパラベラムという名の実包から押し出されたフルメタルジャケットの弾頭は音速を超える速度で襲撃者の胸部を貫いた。
「……思ったより、五月蝿いわね……」
 崩れ落ちる人影。
 右手に携えていた安っぽい光を湛える果物ナイフが落ちる。
 恐らく里香に発砲された人物は、自分自身が絶対に強者であるはずだと信じ込んでいたのに、呆気なく返り討ちにあった事実も理解していないだろう。
 スマートフォンの狭く広い世界から集めた知識によると9mmパラベラムのフルメタルジャケットでの致死率は45%以下だという。
 3mの距離で胸部を貫通した場合はどのように数値が変化するか解らない。
 なので、里香は……虫の息で悶えることすらできない襲撃者の頭部に照準を定めて引き金を引く。
――――あ……。
――――軽い……。
 人間の脳天を破砕して死に至らしめた事実より、掌で残虐な破壊力を発生させたワルサーP38ゲシュタポの引き金のメカニズムとフィーリングに関心事が発生する。
――――1発目は『長くて重かった』。
――――2発目から引き金が『下がって軽かった』。
――――ふーん。
――――これがダブルアクションか。
 ネット界隈で拾った知識が全てではない。
 その証拠に、発砲しても大袈裟なバランスの悪さは感じなかった。
 構えたときに違和感は覚えたが、撃発させる段に当たっては問題ない。
 自分にそっくりなあの少女が自分で設えたのか、照門と照星に明るいオレンジ色の蛍光ドットが塗られている。
 人間を屠っても、口笛でも吹きそうな気楽さでワルサーP38ゲシュタポをバッグに戻し、空薬莢を回収せずに踵を返す。
 初めて人間を殺した呵責の念より、人間を一撃で『ひれ伏せさせた』快楽に溺れた。
 脳漿と骨片を撒き散らした男と思しき被害者は地面に倒れたまま、勿論のこと、起き上がれようもなかった。


 帰宅し、家族には「バスケを辞めた。少し一人にさせて」と意味ありげな言葉と物憂げな表情――勿論、作った表情――を投げかけ、自室に篭る。
 青いバッグの中身をベッドにぶちまけると、すぐに中身に箪笥の中から代わりの体操服や下着やスポーツタオルを詰め込んでそれを持ち、親の目の前で洗濯機に放り込む欺瞞を働く。
 いつも通りに部活をしてきました、という浅いジェスチャーだが、家族の誰も気に留めなかった。
 それから自室に本当に篭る。
 スマートフォンでネットの世界を徘徊し、更に情報や知識を追跡する。
 先ほど里香が殺害した男に関する報道はまだ記事にされていないようだ。
 空弾倉を挿したワルサーP38ゲシュタポに安全装置を掛けたまま引き金を引く動作をする。
 薬室が空のまま撃鉄を起こして空撃ちをして無為な衝撃を与え続けるのは銃本体によろしくないらしい。
 あの少女が自分のブレザーの内ポケットに何かを差し込んだのを、部屋着に着替えてから思い出した。
 トレーナーにスウェットパンツの姿のまま、壁に吊るしたブレザーの懐を漁る。
「?」
 重い。厚い。中身は一万円の札束が新札のままで二束も入っていた。青いバッグに入っている、雑にゴムで束ねられた薄汚れている札束とは全く違う、清潔さを感じさせる。謝礼のつもりだろう。
 結局のところ、その晩は弾薬や予備弾倉や札束や白い粉末が詰まったビニール袋に囲まれてワルサーP38ゲシュタポを抱いたまま眠った。
 恐ろしい速さで……睡眠導入剤でも嚥下したかのような、深い深い眠り。
 『普通の学生だった、自分の葬儀』は夢の中で眠りを貪りながら行う。
 
 夢の内容は覚えていないが、雲の上で眠っているかのような体の軽さを覚え、背筋が急激に温かくなり、体の中から外側に何かが開く開放感を覚えながら早くも遅くも無い速度で奈落に落ちる夢を見る……見た気がした。
  ※ ※ ※
 薬室と弾倉を実包で埋めると、実測で1kgに達するワルサーP38ゲシュタポ。
 これを携行するためのウエストホルスターを腰のベルトに通して予備弾倉をジーパンの尻ポケットに差す。
 黒のパーカーに袖を通し、灰色のキャスケットを目深に被る。
 その出で立ちのまま駅のトイレを出た。
 放課後の学校を出るなり、駅のトイレで着替えて、制服は紙袋に押し込み、携える。
 背中にファッション性が高いナップザックもどき。
 制服が詰まった紙袋はロッカーに預ける。
 里香を満たすだけの高揚感。
 右腰に拳銃を、非日常の代表格である拳銃を提げているだけで形容し難い幸福を覚える。
 仮面を被ったのではなく、覆面を脱いだような清涼な呼吸ができる。
「……」
 凄惨な笑み。
 駅を出て薄暮が訪れない、毒々しい繁華街にレティクルが浮かぶ。
 彼女だけに見える脳内のレティクルは『殺しても心が痛まない社会不適合者』を探している。
――――早く人を『もっと撃ち殺したい』。
 今の彼女の行動教義は、殺人衝動が根底にある。
 彼女こそが社会不適合者の烙印を押された人物なのに。
 里香の足は大勢の有象無象が往来する流れを縫いながら、魅惑的な路地裏が軒を並べる歩道を往く。
 口角を緩く上げると適当な路地に入る。
――――ああ。黴臭い空気。
――――なんて『新鮮』なの。
 路地裏のスラム化が叫ばれて随分と経つ。
 治安を預かる警察ですら、鼻薬を嗅がされ、警邏が薄くなっている。
 午後6時。
 繁華街のど真ん中。……の、裏路地。
 先日もサプレッサーを装備したイングラムを用いたヤクザの襲撃事件があったが、癇癪玉を破裂させるより小さな音だったらしく、警察が駆けつけたときには被害者の死体しか転がっていなかった。
 光源の乏しい路地を行く。タバコとは違う紫煙が風に乗って里香の鼻の奥を撫でる。
――――んー?
――――殺しのビギナーにはハードルが高過ぎたかな?
 寒気。悪寒。はたまた、武者震い。
 物陰から現れる影。鉄パイプにシースナイフに……銃身が短い回転式の拳銃。
 前方4mに3人。
 背後は未確認ながらも複数。僅かに距離は開いている気配がする。
 脳天から爪先まで緊張が走る。
 熱く感じる臍下に反して冷たく感じる背筋。
 何が合図なのか切っ掛けなのか解らずに始まる、路地裏の日常のそれ。
 前方右手の鉄パイプを手にした、180cm近い20歳前半と思われる男が前かがみから駆け出し、鉄パイプを振るのでも薙ぐのでもなく、下段から逆袈裟斬りの軌道で鉄パイプを振り上げる。
 反射神経なら多少の自信はある。
 その鉄パイプに虚しく空を切らせると、大きく空いた男の右脇腹を蹴り飛ばして距離を開かせる。
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