チョコレート・ゴースト
喉が渇く。
薄暗いトイレの個室でただただ、亡霊のような空気をまとうワルサーP38ゲシュタポに眼を奪われる。
心の奥底の僅かな、ホンの僅かな破壊衝動が焚きつけられ、健全な部位にまで類焼する。
感触としての認識ではなく、あたかも両眼で確認したのと同じ情報として感知した。
呼吸が何故か荒くなり、武者震いに似た小さな震えを覚える。
堪らず、衝動的に、発作的にワルサーP38ゲシュタポを両手で胸に抱きしめる。
『何もない、有象無象の一つに成ろうとしている自分が得体の知れない何者かに変質、変貌、変態した瞬間』を強く強く……強く自覚。
思い違いも甚だしい勘違いであればいいのに、とさえ思う。
冷水を頭からかぶれば心身の熱が冷めて正気に戻れるはずの境界線。
里香は自身を正気で分析しているのか、狂気のまま理性を走らせるのか、その分水嶺に位置している。
あるいは里香の心の奥底に沈む微細なマチョズムが鎌首をもたげたか?
「……」
数時間の訓練を受けた兵士と同じ速度で空弾倉を引き抜き、何も押し上げていないリブを見つめる。
その視点のピントが奥のバッグ――洋式トイレの便座カバー上に置かれた青いスポーツバッグ――に合わせられると、自然と視線も流れる。
雑貨ばかりの詰め合わせかと思った青いスポーツバッグを漁ると、ブリスターパックの実包がいくつか出てくる。
輪ゴムで雑に束ねられた万札のロールも30束近くある。
どういう使い分けがなされているのか解らない複数の携帯電話。精密ドライバーや簡易的な工具が入ったツールボックス。消毒用オキシドールや鎮痛剤に紛れて用途が解らない液体が封入された小さなガラスのボトルが出てくる。
みるからにサラサラな性質をした白い粉末が掌大に小分けされたビニール袋がアルミ製ジップロックに包まれて3個、出てくる。
バッグのサイドポケットの底には赤いグリップの折り畳みナイフが一振り……アーミーナイフと呼ばれる類のものだろうが、イメージしているゴテゴテと機能がついたモノとはぜんぜん違う。最低限の機能だけが搭載されたモデルだ。
それ以外に……恐らくかなめなのだろうか。腰に提げるタイプのホルスターと予備の空弾倉が油紙に丁寧に包まれていた。合計で10本ある。
なるほど、これだけの物体が詰め込まれたバッグならコンクリートでも押し込められたように重いはずだ。思わずクスリと笑う里香。
時間の経過も忘れてしまう。
トイレの個室に篭って2時間が経過した。
ブリスターパックに整然と行儀良く並んだ実包を1発、摘む。
意外に重い。
明るい赤胴色の弾頭。フルメタルジャケットというものか。
内側に凹むマガジンリップに試行錯誤して実包のリムを押し当てているとリブが落ち込んですんなりと1発目が装填できた。
同じ要領で2発3発と詰め込んでいくが、6発目辺りからバネの張力が硬くなってやや指先に力を込めた。
ズッシリと重くなった弾倉をマグウエルから差し込んでコンチネンタルタイプのマガジンキャッチがガッチリと弾倉の尻を銜え込むのを確認する。
「……?」
――――何、これ?
右掌のなかにあるワルサーP38ゲシュタポは……バランスが悪い。
銃火器に疎い里香が体感で計れるほどアンバランスだった。
慣れてしまえば気にならないレベルだろうが、このときに覚えた違和感は最後まで付きまとう気がした。
スライドを引き、スライド後端の確認ピンが突き出る。
薬室に実包が送り込まれ、再び撃鉄が起きた状態を維持する。
今度は軽く息を吸ってセフティレバーを操作する。
デコッキングと連動するそれは安全に撃鉄を定位置に戻し、『おとなしくなった』。
このときに……初めて破壊衝動の矛先が人間に向けられる。
里香自身に、卑屈になるだけの恨み辛みを感じる人物はいない。
全ての失敗は全て自分が原因だと内省し猛省した。
他人に危害を与える考えも思いもない。
ただ、破壊衝動だけが胎を破って産み出されただけだ。
狂う。狂った。一つの歯車が欠けただけの小さな狂い。誤差と呼んでも差し支えない差異……だが、里香は狂った。倫理的人道的道徳的な意味での狂気。
『一体、どれだけの生命を吹き飛ばしてきたのか解らない凶銃に魅入られただけ』なのに、彼女は理性と本能を使い分けられる狂犬に成り下がった。
遅くなった帰宅の途。
普段はこんなに遅い時間にこの道を下校しない。
部活の練習が長引いても、物騒な犯罪が多発する昨今、女子部員は早く帰宅させろとの上からのお達しで割りと早く帰宅できる。
尤も、レギュラー入りした面子や次期レギュラーと目される面子は茶道部や華道部が帰宅した後の部室で寝泊りすることがある。
里香はそれらの簡易宿泊部屋の寝心地を知り損ねた側の人間だ。
住宅街に入る手前の大通り。
自宅まではまだ距離がある。帰路を急ぐ。往来は人通りが少ない。
否、まっとうな人種は少ない。眼にあまる社会不適格者ならゴロゴロと転がっている。
暴走族が救急車両の行く手を蛇行運転で妨害するのも珍しくない。最近では道でばったり出会った敵対同士の暴力団が歩道の真ん中で、殴り合いができる距離で、拳銃を抜いて撃ち合った事件があった。
中学生がいじめた相手の食卓に火炎瓶を投げ込んだ事件もあった。
そのような非日常が日常を侵食しようとしても、人間社会というものは面白いもので、反発するように日常の風景を維持しようと防御反応を起こす。
自警団や法整備が発生したわけではない。
見て見ぬふり。我関せず。対岸の火事を見る。
毎晩、女性の絹を裂く声が聞こえている筈だが、パトカーが素早く駆けつけた例は少ない。
自分だけは安全だと信じたい。
そんな自分勝手な、自分だけに通用する安全神話を自分で塑像して、人々は日常を維持している。
とばりが降りて久しく、街灯の提供する光源だけが頼りの帰り道。
フェンスと、景観を整えるための潅木を挟んで向こうはグラウンドと隣接する公園だ。
遊具は乏しく、ベンチが多い。陽が高いうちは絶好のウオーキングコースだ。
「……」
――――!
――――嫌な雰囲気……。
――――早く帰りたい。
危機管理と危険予知が合致していない里香の思考。
だが、それも昨今の風潮で育った若年層の思考回路だ。誰も彼女を責められない……ただ、一点。彼女が『自分から虎穴に飛び込んだことを除いては』。
「……」
凄惨な微笑み。
小さな舌先がぺろりと唇を湿らせる。
深く、黒く、暗い残忍な精気が溢れる双眸。
左肩に掛けた青いスポーツバッグに右手を突っ込み、ワルサーP38ゲシュタポのグリップを掴む。セフティに親指をかける。
公園に爪先を向ける。躊躇もなく歩みを進める。
期待と興奮が背中を押す。
性的興奮に似た体温の上昇。トランス状態の数歩手前の夢うつつ。
間違いなく、里香は獲物を物色していた。
撃ち殺しても構わない命を、撃ち殺されても仕方がない命を、撃ち殺されるに値するクズな命を。
一薙ぎの夜風がスカートを靡かせる。
それが先途だった。
「!」
公園に踏み込んで50mも歩かないうちに左手後方からの人が駆ける足音。
「……!」
薄暗いトイレの個室でただただ、亡霊のような空気をまとうワルサーP38ゲシュタポに眼を奪われる。
心の奥底の僅かな、ホンの僅かな破壊衝動が焚きつけられ、健全な部位にまで類焼する。
感触としての認識ではなく、あたかも両眼で確認したのと同じ情報として感知した。
呼吸が何故か荒くなり、武者震いに似た小さな震えを覚える。
堪らず、衝動的に、発作的にワルサーP38ゲシュタポを両手で胸に抱きしめる。
『何もない、有象無象の一つに成ろうとしている自分が得体の知れない何者かに変質、変貌、変態した瞬間』を強く強く……強く自覚。
思い違いも甚だしい勘違いであればいいのに、とさえ思う。
冷水を頭からかぶれば心身の熱が冷めて正気に戻れるはずの境界線。
里香は自身を正気で分析しているのか、狂気のまま理性を走らせるのか、その分水嶺に位置している。
あるいは里香の心の奥底に沈む微細なマチョズムが鎌首をもたげたか?
「……」
数時間の訓練を受けた兵士と同じ速度で空弾倉を引き抜き、何も押し上げていないリブを見つめる。
その視点のピントが奥のバッグ――洋式トイレの便座カバー上に置かれた青いスポーツバッグ――に合わせられると、自然と視線も流れる。
雑貨ばかりの詰め合わせかと思った青いスポーツバッグを漁ると、ブリスターパックの実包がいくつか出てくる。
輪ゴムで雑に束ねられた万札のロールも30束近くある。
どういう使い分けがなされているのか解らない複数の携帯電話。精密ドライバーや簡易的な工具が入ったツールボックス。消毒用オキシドールや鎮痛剤に紛れて用途が解らない液体が封入された小さなガラスのボトルが出てくる。
みるからにサラサラな性質をした白い粉末が掌大に小分けされたビニール袋がアルミ製ジップロックに包まれて3個、出てくる。
バッグのサイドポケットの底には赤いグリップの折り畳みナイフが一振り……アーミーナイフと呼ばれる類のものだろうが、イメージしているゴテゴテと機能がついたモノとはぜんぜん違う。最低限の機能だけが搭載されたモデルだ。
それ以外に……恐らくかなめなのだろうか。腰に提げるタイプのホルスターと予備の空弾倉が油紙に丁寧に包まれていた。合計で10本ある。
なるほど、これだけの物体が詰め込まれたバッグならコンクリートでも押し込められたように重いはずだ。思わずクスリと笑う里香。
時間の経過も忘れてしまう。
トイレの個室に篭って2時間が経過した。
ブリスターパックに整然と行儀良く並んだ実包を1発、摘む。
意外に重い。
明るい赤胴色の弾頭。フルメタルジャケットというものか。
内側に凹むマガジンリップに試行錯誤して実包のリムを押し当てているとリブが落ち込んですんなりと1発目が装填できた。
同じ要領で2発3発と詰め込んでいくが、6発目辺りからバネの張力が硬くなってやや指先に力を込めた。
ズッシリと重くなった弾倉をマグウエルから差し込んでコンチネンタルタイプのマガジンキャッチがガッチリと弾倉の尻を銜え込むのを確認する。
「……?」
――――何、これ?
右掌のなかにあるワルサーP38ゲシュタポは……バランスが悪い。
銃火器に疎い里香が体感で計れるほどアンバランスだった。
慣れてしまえば気にならないレベルだろうが、このときに覚えた違和感は最後まで付きまとう気がした。
スライドを引き、スライド後端の確認ピンが突き出る。
薬室に実包が送り込まれ、再び撃鉄が起きた状態を維持する。
今度は軽く息を吸ってセフティレバーを操作する。
デコッキングと連動するそれは安全に撃鉄を定位置に戻し、『おとなしくなった』。
このときに……初めて破壊衝動の矛先が人間に向けられる。
里香自身に、卑屈になるだけの恨み辛みを感じる人物はいない。
全ての失敗は全て自分が原因だと内省し猛省した。
他人に危害を与える考えも思いもない。
ただ、破壊衝動だけが胎を破って産み出されただけだ。
狂う。狂った。一つの歯車が欠けただけの小さな狂い。誤差と呼んでも差し支えない差異……だが、里香は狂った。倫理的人道的道徳的な意味での狂気。
『一体、どれだけの生命を吹き飛ばしてきたのか解らない凶銃に魅入られただけ』なのに、彼女は理性と本能を使い分けられる狂犬に成り下がった。
遅くなった帰宅の途。
普段はこんなに遅い時間にこの道を下校しない。
部活の練習が長引いても、物騒な犯罪が多発する昨今、女子部員は早く帰宅させろとの上からのお達しで割りと早く帰宅できる。
尤も、レギュラー入りした面子や次期レギュラーと目される面子は茶道部や華道部が帰宅した後の部室で寝泊りすることがある。
里香はそれらの簡易宿泊部屋の寝心地を知り損ねた側の人間だ。
住宅街に入る手前の大通り。
自宅まではまだ距離がある。帰路を急ぐ。往来は人通りが少ない。
否、まっとうな人種は少ない。眼にあまる社会不適格者ならゴロゴロと転がっている。
暴走族が救急車両の行く手を蛇行運転で妨害するのも珍しくない。最近では道でばったり出会った敵対同士の暴力団が歩道の真ん中で、殴り合いができる距離で、拳銃を抜いて撃ち合った事件があった。
中学生がいじめた相手の食卓に火炎瓶を投げ込んだ事件もあった。
そのような非日常が日常を侵食しようとしても、人間社会というものは面白いもので、反発するように日常の風景を維持しようと防御反応を起こす。
自警団や法整備が発生したわけではない。
見て見ぬふり。我関せず。対岸の火事を見る。
毎晩、女性の絹を裂く声が聞こえている筈だが、パトカーが素早く駆けつけた例は少ない。
自分だけは安全だと信じたい。
そんな自分勝手な、自分だけに通用する安全神話を自分で塑像して、人々は日常を維持している。
とばりが降りて久しく、街灯の提供する光源だけが頼りの帰り道。
フェンスと、景観を整えるための潅木を挟んで向こうはグラウンドと隣接する公園だ。
遊具は乏しく、ベンチが多い。陽が高いうちは絶好のウオーキングコースだ。
「……」
――――!
――――嫌な雰囲気……。
――――早く帰りたい。
危機管理と危険予知が合致していない里香の思考。
だが、それも昨今の風潮で育った若年層の思考回路だ。誰も彼女を責められない……ただ、一点。彼女が『自分から虎穴に飛び込んだことを除いては』。
「……」
凄惨な微笑み。
小さな舌先がぺろりと唇を湿らせる。
深く、黒く、暗い残忍な精気が溢れる双眸。
左肩に掛けた青いスポーツバッグに右手を突っ込み、ワルサーP38ゲシュタポのグリップを掴む。セフティに親指をかける。
公園に爪先を向ける。躊躇もなく歩みを進める。
期待と興奮が背中を押す。
性的興奮に似た体温の上昇。トランス状態の数歩手前の夢うつつ。
間違いなく、里香は獲物を物色していた。
撃ち殺しても構わない命を、撃ち殺されても仕方がない命を、撃ち殺されるに値するクズな命を。
一薙ぎの夜風がスカートを靡かせる。
それが先途だった。
「!」
公園に踏み込んで50mも歩かないうちに左手後方からの人が駆ける足音。
「……!」