チョコレート・ゴースト
雑踏。人混み。そろそろ帰宅ラッシュが始まる。見つからない。見つかるはずがない。見当たらない。視界に入らない。
視線を左右に何度も振る。彼女の姿はどこにも見当たらない。
「……!」
――――!
――――あの子の声!
里香の昂ぶる聴覚が、自分と生き写しの少女の声を拾う。
近い。
話し声。
複数との話し声。
雑音の隙間を縫う、僅かな、しかし良く聞き取れる声。
他の人間が知覚できないレベルの声であったが、里香には確かに聞こえた。
「――――あら。随分とお早いご登場で――――」
「――――何も危ないものは持ってないわ。ご自分達で確認されたら?――――」
「――――心外ね。これでもスポーツを嗜むの――――」
「――――解ったわよ。じゃ、行きましょうか――――」
確かに、彼女は、どこかで、里香の見えない範囲のごく近くで複数の人間と会話していた。
そして口調は邂逅を果たしたときと同じでも、会話の内容は剣呑な言葉が端端に垣間みれた。
「……」
――――え?
彼女の声も気配も消える。
人混みに薄められて消えてしまう。里香の持ち前のスペックではこれ以上のトレースは不可能だった。
呆然とする間抜け顔のまま、小首を傾げる。鳩が豆鉄砲を喰らったという表現を知らずとも、今の自分が正にそれに当て嵌まるのだと思考が及ぶのに5秒。
我に返ると、怪訝を隠さない表情で女子トイレに戻り、あの少女が置いていった青いスポーツバッグの元にくる。……そして手に取る。
重い。
異常に重い。
コンクリートブロックでも呑んでいるのかと思うほどに重い。
トイレの個室ブースに入り、そのバッグのジッパーを開ける。
その時に……今から思えば、それこそが正当な行動に違いなかったはずだが、そのときになぜそのバッグを拾得物としてしかる機関に提出しなかったのかが、謎だった。
「……え?」
惚けに惚けて現実との乖離感すら覚える、それ。
拳銃。
一挺の拳銃。
一挺の自動拳銃。
一挺の軍用自動拳銃。
紙箱や札束や複数の携帯端末等の中に埋まるようにあって、油紙の中から現れたそれは異彩を放っていた。
素人の、どこの誰が、どのように解釈しても解る非日常がそこにある。
手に取る……不思議な重量感。
奇妙なアンバランスすら覚えるそのデザイン。
軽い既視感の正体はすぐに解る。
再放送のアニメで主人公が使っていた拳銃と酷似しているからだ。
ただ、里香の手のなかにある自動拳銃は銃身が消失したように無い。否、短い。
スラリと伸びているはずの銃身がないので『不思議』だと認識したに違いない。
光の速さで過ぎ去る驚愕。
次の瞬間には……その手にある自動拳銃のグリップを握って多角的に眺めているうちに、冷たい鉄の肌が放つ、悪魔の笑顔を思わせる鈍い照り返しが里香を虚心坦懐に取り込んでしまう。
手垢や赤黒い染みがグリップに見受けられる。樹脂製らしい茶色っぽく濁ったその表面は生活臭すら漂うほどに使い込まれた跡が確認できた。
自動拳銃という恐ろしいマテリアルは初めて手にするが、それを直感で本物だと認識した理由は幾つかある。
銃口を覗いてみたが、モデルガン――弟の受け売りによるとモデルガンは銃口が『塞がれて』いるらしい――のそれのような障害物はない。
キーホルダーにぶら下げている小型のLEDライトで銃口から内部を照らしてみる。やはりなにも確認できない。その奥の薬室という部分に、想像する『実弾』というものも確認できない。
各部の刻印から得られる情報をスマートフォンで検索し、自動拳銃の身上調書が記されているサイトに辿り着く。
「ワルサーP38……ゲシュタポモデル……? 秘密警察?」
諸元は知らなくとも知名度の高さだけは定評がある拳銃の代表格だ。
その『有名人』にバリエーションが存在していることを初めて知った。
携行性を高めるために銃身をカットし、フロントサイトをスライドのブリーチの前部に植え付けた特異な形。
スマートフォンの液晶に映る記述を読むと、銃身のカットダウンにより発砲時のバランスの悪さが指摘され、命中精度はオリジナルモデルよりも幾分か劣るとある。
コンチネンタルタイプと呼ばれるグリップ底部のマガジンキャッチをおっかなびっくり押す。滑るように空のマガジンが落ちてくる。
寸手のところで受け止めて損ねる。冷汗がどっと流れる。咄嗟に、硬い床と衝突するのを足の甲で目線の高さまで蹴り上げ、掴む。
トイレの個室に篭ること1時間以上。
発砲と通常分解以外の大まかな扱いは覚えた。
銃火器にはクリーニングが必要だという知識も拾う。
「……怖いな……」
思わず独りごちる。
怖いというニュアンスの置かれた部分は拳銃が怖いという意味ではなく、ワルサーP38の大戦末期モデルに多くみられた、主な欠陥部位のことである。
ズブの素人の里香にはその部分が深く心に残った。
大戦末期に生産されたモデルは、射撃の反動でスライド後部のリアサイトがその台座のカバーごと勢い良く外れ、射手の顔面に激突して負傷する事例が多数報告されたとの記述に『怖いな』と呟いたのだ。
拳銃が入ったバッグと里香のバッグを取り替えて欲しかった理由が大筋で判じることができる。
自分に驚くほど酷似した少女は、表の明るい世界を歩けない身分で司直の手が今にも及ぼうとしていた。
そこへ都合よく、同じ色とサイズのバッグを携えたそっくりさんが現れた。
あの少女は僅かな隙を盗んで追っ手と思われる複数の人間から一時的に逃れ、里香のバッグと取り替えることを強要した。
少なくとも里香にとっては『強要されて従った』という関係が成り立つ。
こうして都合よく、何ごとも都合よく、場合によっては予想以上に都合よく、あの少女は危険なものが何一つ入っていないバッグを携えて官憲と思われる人員に拘束されたわけだ。
「さて……」
――――返してくれっていわれるまで持っとくのが普通かな?
――――警察に届けると恨まれるかな……それはやだなー。後で取り返しにくるみたいなこといってたし
空弾倉を差し込み、スライドを軽く中途半端に引いてみる。
映画やドラマで聞こえるような金属のかすれる音は聞こえない。カチャカチャというガタツキを思わせる音も聞こえない。
確実に精緻なメカニズムが作動する音が掌を伝って感触として聞こえる。
薬室に実包が送り込まれたかどうかを確認する、スライド後端リアサイト下のインジケーターとやらも、左手の親指を無理に伸ばして触ってみる。勿論のことのように突き出ていない。
思い切ってスライドを引き、何かが噛み合った音を聞くと息を呑んでスライドから手を離した。
心地よい作動音とはこのような音響をもたらすのか? スライドが前進して撃鉄が起きているのを視認する。
咄嗟に、慌てて、マズイものをみて蓋をするような顔つきで右手の親指が跳ねるように動いて安全装置を掛ける。
スライドを引いたことによる変化に肝を冷やしたのだ。
思わず作動させた安全装置はデコッキングとやらの機能が働き撃鉄を空撃ちさせた。
「……怖かった……」
――――怖かった……。
――――けど……。
――――……興奮した。
腋下と背筋に汗が吹き出る。
同時に鳩尾から臍下までがほんのりと温かくなる。
視線を左右に何度も振る。彼女の姿はどこにも見当たらない。
「……!」
――――!
――――あの子の声!
里香の昂ぶる聴覚が、自分と生き写しの少女の声を拾う。
近い。
話し声。
複数との話し声。
雑音の隙間を縫う、僅かな、しかし良く聞き取れる声。
他の人間が知覚できないレベルの声であったが、里香には確かに聞こえた。
「――――あら。随分とお早いご登場で――――」
「――――何も危ないものは持ってないわ。ご自分達で確認されたら?――――」
「――――心外ね。これでもスポーツを嗜むの――――」
「――――解ったわよ。じゃ、行きましょうか――――」
確かに、彼女は、どこかで、里香の見えない範囲のごく近くで複数の人間と会話していた。
そして口調は邂逅を果たしたときと同じでも、会話の内容は剣呑な言葉が端端に垣間みれた。
「……」
――――え?
彼女の声も気配も消える。
人混みに薄められて消えてしまう。里香の持ち前のスペックではこれ以上のトレースは不可能だった。
呆然とする間抜け顔のまま、小首を傾げる。鳩が豆鉄砲を喰らったという表現を知らずとも、今の自分が正にそれに当て嵌まるのだと思考が及ぶのに5秒。
我に返ると、怪訝を隠さない表情で女子トイレに戻り、あの少女が置いていった青いスポーツバッグの元にくる。……そして手に取る。
重い。
異常に重い。
コンクリートブロックでも呑んでいるのかと思うほどに重い。
トイレの個室ブースに入り、そのバッグのジッパーを開ける。
その時に……今から思えば、それこそが正当な行動に違いなかったはずだが、そのときになぜそのバッグを拾得物としてしかる機関に提出しなかったのかが、謎だった。
「……え?」
惚けに惚けて現実との乖離感すら覚える、それ。
拳銃。
一挺の拳銃。
一挺の自動拳銃。
一挺の軍用自動拳銃。
紙箱や札束や複数の携帯端末等の中に埋まるようにあって、油紙の中から現れたそれは異彩を放っていた。
素人の、どこの誰が、どのように解釈しても解る非日常がそこにある。
手に取る……不思議な重量感。
奇妙なアンバランスすら覚えるそのデザイン。
軽い既視感の正体はすぐに解る。
再放送のアニメで主人公が使っていた拳銃と酷似しているからだ。
ただ、里香の手のなかにある自動拳銃は銃身が消失したように無い。否、短い。
スラリと伸びているはずの銃身がないので『不思議』だと認識したに違いない。
光の速さで過ぎ去る驚愕。
次の瞬間には……その手にある自動拳銃のグリップを握って多角的に眺めているうちに、冷たい鉄の肌が放つ、悪魔の笑顔を思わせる鈍い照り返しが里香を虚心坦懐に取り込んでしまう。
手垢や赤黒い染みがグリップに見受けられる。樹脂製らしい茶色っぽく濁ったその表面は生活臭すら漂うほどに使い込まれた跡が確認できた。
自動拳銃という恐ろしいマテリアルは初めて手にするが、それを直感で本物だと認識した理由は幾つかある。
銃口を覗いてみたが、モデルガン――弟の受け売りによるとモデルガンは銃口が『塞がれて』いるらしい――のそれのような障害物はない。
キーホルダーにぶら下げている小型のLEDライトで銃口から内部を照らしてみる。やはりなにも確認できない。その奥の薬室という部分に、想像する『実弾』というものも確認できない。
各部の刻印から得られる情報をスマートフォンで検索し、自動拳銃の身上調書が記されているサイトに辿り着く。
「ワルサーP38……ゲシュタポモデル……? 秘密警察?」
諸元は知らなくとも知名度の高さだけは定評がある拳銃の代表格だ。
その『有名人』にバリエーションが存在していることを初めて知った。
携行性を高めるために銃身をカットし、フロントサイトをスライドのブリーチの前部に植え付けた特異な形。
スマートフォンの液晶に映る記述を読むと、銃身のカットダウンにより発砲時のバランスの悪さが指摘され、命中精度はオリジナルモデルよりも幾分か劣るとある。
コンチネンタルタイプと呼ばれるグリップ底部のマガジンキャッチをおっかなびっくり押す。滑るように空のマガジンが落ちてくる。
寸手のところで受け止めて損ねる。冷汗がどっと流れる。咄嗟に、硬い床と衝突するのを足の甲で目線の高さまで蹴り上げ、掴む。
トイレの個室に篭ること1時間以上。
発砲と通常分解以外の大まかな扱いは覚えた。
銃火器にはクリーニングが必要だという知識も拾う。
「……怖いな……」
思わず独りごちる。
怖いというニュアンスの置かれた部分は拳銃が怖いという意味ではなく、ワルサーP38の大戦末期モデルに多くみられた、主な欠陥部位のことである。
ズブの素人の里香にはその部分が深く心に残った。
大戦末期に生産されたモデルは、射撃の反動でスライド後部のリアサイトがその台座のカバーごと勢い良く外れ、射手の顔面に激突して負傷する事例が多数報告されたとの記述に『怖いな』と呟いたのだ。
拳銃が入ったバッグと里香のバッグを取り替えて欲しかった理由が大筋で判じることができる。
自分に驚くほど酷似した少女は、表の明るい世界を歩けない身分で司直の手が今にも及ぼうとしていた。
そこへ都合よく、同じ色とサイズのバッグを携えたそっくりさんが現れた。
あの少女は僅かな隙を盗んで追っ手と思われる複数の人間から一時的に逃れ、里香のバッグと取り替えることを強要した。
少なくとも里香にとっては『強要されて従った』という関係が成り立つ。
こうして都合よく、何ごとも都合よく、場合によっては予想以上に都合よく、あの少女は危険なものが何一つ入っていないバッグを携えて官憲と思われる人員に拘束されたわけだ。
「さて……」
――――返してくれっていわれるまで持っとくのが普通かな?
――――警察に届けると恨まれるかな……それはやだなー。後で取り返しにくるみたいなこといってたし
空弾倉を差し込み、スライドを軽く中途半端に引いてみる。
映画やドラマで聞こえるような金属のかすれる音は聞こえない。カチャカチャというガタツキを思わせる音も聞こえない。
確実に精緻なメカニズムが作動する音が掌を伝って感触として聞こえる。
薬室に実包が送り込まれたかどうかを確認する、スライド後端リアサイト下のインジケーターとやらも、左手の親指を無理に伸ばして触ってみる。勿論のことのように突き出ていない。
思い切ってスライドを引き、何かが噛み合った音を聞くと息を呑んでスライドから手を離した。
心地よい作動音とはこのような音響をもたらすのか? スライドが前進して撃鉄が起きているのを視認する。
咄嗟に、慌てて、マズイものをみて蓋をするような顔つきで右手の親指が跳ねるように動いて安全装置を掛ける。
スライドを引いたことによる変化に肝を冷やしたのだ。
思わず作動させた安全装置はデコッキングとやらの機能が働き撃鉄を空撃ちさせた。
「……怖かった……」
――――怖かった……。
――――けど……。
――――……興奮した。
腋下と背筋に汗が吹き出る。
同時に鳩尾から臍下までがほんのりと温かくなる。