チョコレート・ゴースト

 次第に浮かぶあの女の、あの恐ろしい微笑み。薄い微笑み。全てを視る微笑み。
 今年は……否、この数日は何かと神仏に助けを請うことが多い。
 彼女の顔を確認するや否や、全身を脱力させてしまい、抵抗の意思をみせられないでいた。
 だのに都合よく乞食信仰にすがり、どこの誰でもいいから助けてくれと哀願する。
 カーテンがはためく衣擦れの音を聞く。
 ベランダに通じるサッシが開いている。
 ここからこの女は侵入したのだろう。
 それだけの情報で、もう1人の解離した自分が脳味噌の使っていない部分を勝手に稼動させて全てを算出する。
 倒した6人はブラフ。
 路地裏で屠殺した連中とは関係がない。
 この女が雇った使い捨ての人員だ。
 連中に自宅内部で騒ぎを起こさせている隙にこの女がワルサーP38ゲシュタポと非合法なアイテムを回収して撤収するはずのところを、6人とも里香が撃ち倒してしまった。
 ……連中の起こす騒ぎに乗じて遁走を計るつもりだったのだろう。
 非合法なアイテムがぎっしりと詰まったバッグは、既にこの女に回収されているに違いない。
 それでも尚ここに留まる理由は一つだけ。……ワルサーP38ゲシュタポだ。
 この自動拳銃が彼女にとって必要だったのだ。
 後継を買うか否かの損得勘定や使い慣れた愛着ではないだろう。
 それ以上の、ワルサーP38ゲシュタポの、今し方握っているこの自動拳銃でなければならないのだろう。
 里香にその心境が響く。
 里香もそうだからだ。
 里香の狂人じみた殺人衝動や破壊衝動はワルサーP38ゲシュタポを握ってから心に住み着いたものだ。
 あるいは心に生来、具えていたものが頭角を現す切っ掛けを与えたのはワルサーP38ゲシュタポだった。
 この拳銃には人を狂わせる何かが取り憑いている。
 非科学。非論理的。それでいて、もたらす結果は非道徳と非人道。
 彼女も里香も、ワルサーP38ゲシュタポの魅力に魅入られて呑み込まれた被害者だ。
 だからこそ里香はどこの世界のどんな神にでも祈る。
 脇目も振らずに、形振り構わず、大粒の涙を零しながら、失禁しながら、擦過傷の痛みも忘れて祈る。
 助けてくれ、と。
 助けてくれと都合のいいときだけ請われて助ける物好きがいるとすれば、それは代償を支払う必要がある神だけだ。
 結果的に里香は光の半分を捧げた。それで助かる命ならば、と。
 嗤い、笑う神様。
 ワルサーP38ゲシュタポを握る女の左手の人差し指がピクリと動く。
 右腕に22口径を被弾しているはずだが、それでも動作に鈍りがみえない。
 里香の左太腿に乗っかる形で、彼女は蛇のように獲物をみる目で里香を睥睨している。脛、踵、膝で蹴るには可動幅が少な過ぎてじゃれつく程度の影響しか与えられない。
 そこで里香は大きく押した。
 右足の裏で床を大きく押した。
 床を大きく押す行為は里香にとっての最後の最期になるかもしれない最大の抵抗だった。
 神様には充分祈った。
 祈って助かるなら全ての宗教は大繁盛だ。
 祈った上での、心理的安心感と諦観を心に持ち、行動を起こすから信仰の有り難味が増すというものだ。
「!」
 右足の裏で床を大きく押した……たったそれだけ。
 女のワルサーP38ゲシュタポが発砲されるのと同時に起こされた。
 文字通り起こされた。女の体は左へ傾くように大きく迫り上がった。それとほぼ同時の発砲だ。
 里香が少ない力で床を足裏で押したことによる体勢の揺らぎ。
 銃声一発。
 里香は左顔面を銃口から吹き出る高熱のガスを浴び、左目を酷く火傷する。
 痛みも熱さも感じない。逆に冷たさすら感じる。高熱過ぎて痛みを通り越した結果だと理解するのはもう少し後だ。
 床に弾痕が穿かれる。10cmずれていたら里香の頭部に風穴が開いている。
「……!」
 女は……22口径の被弾でも動じないワルサーP38ゲシュタポを握った女は顔面を右手で押さえたまま大きく仰け反る。怪鳥じみた悲鳴が乾いた空気を裂く。
 女の左目に突き刺さる、『何か』。
 里香はその隙を活かす。
 痛みに悶えるのは後だ。
 この女が何に怯んだのか解明するのは後だ。
 里香は火傷した左目を押さえる行為を選ばず、里香から大きく離れているワルサーP38ゲシュタポを両手で握り、左手の小指でマガジンキャッチを押し、弾倉を1cmほど下降させた。
 右手の親指で彼女の引き金に掛かる左手の人差し指を押して薬室内の1発を無為に撃発させる。
 柏手を打つように里香の両方の掌が合わさった……かのように見えた。
「!」
 彼女は自分の掌から信頼できる感触と重量が無くなったのを感じて歯を噛み縛りながら里香を睨む。
「こいつ!」
 ワルサーP38ゲシュタポが彼女の掌からもぎ取られたのではない。
 ワルサーP38ゲシュタポのグリップだけを握らされて、銃口が『自分の顔面を捉えているのだ』。
 里香はスライドストップが掛かったワルサーP38ゲシュタポの弾倉を押し戻してスライドリリースレバーを右手親指で押し下げた。
 シャキンという実に頼もしい作動音。
 何の感慨も抱かず、里香は、右手親指で引き金に掛かる彼女の人差し指を押した。
 撃鉄は既に起きていた。
 軽い、軽い、軽いトリガープル。
 否、押し込んだのだからプルという表現は少し違う。
 それでも、それと同時に撃発された9mmパラベラムは違えることなく、名前を知らない、自分に瓜二つの貌をした女の額に射入孔を作った。
 後頭部の射出孔から脳内の圧力で粉砕された脳漿の細胞片がコルク栓を抜いたように飛び出す。
 名前も素性も知らぬ女は左目に細い長方形をした部品で貫かれて眼球を破壊されていた。女は仰向けに倒れて大の字に転がる。
「……」
 押し寄せる疲労。
 左目の激痛。
 擦過傷の痛みが再び湧き出る。
 バケツで水を呷りたいほどに喉が渇く。
 改めて女の手からワルサーP38ゲシュタポを奪う。
 リアサイトがない。
 初めてワルサーP38ゲシュタポのオリジナルモデルを調べたときに、リアサイトが射手の顔面を直撃する事例があるとの記述に触れて「怖いな」と軽く震えたのを記憶している。
 その都合よく、ありえるはずのない事故が都合よく発生して、都合ついでに里香を救った。

 鉄錆臭い。
 生臭い。
 遠くで聞こえるパトカーのサイレン。
 本当に遠くか?
 遊離感が激しい。現実と夢の狭間を歩くような不安定な意識。
 ワルサーP38ゲシュタポの弾倉を引き抜き、残弾が1発しかないことを知る。
 撃鉄が起きているから薬室に1発だ。
 足音が、大挙する足音が聞こえるが、里香は這いながら自分のベッドを背もたれにして床に足を投げ出して座るので精一杯だ。
 やがて、到頭、ようやく、官憲が自室のドアを開ける。
 先頭に立っていた警官が回転式拳銃を握っていた。
 荒い息と朦朧とする意識の里香には警官が何かを叫んでいる姿しか見えない。
 自決の覚悟だけは忘れず、ワルサーP38ゲシュタポをゆっくりと持ち上げようとする『無抵抗な里香』の体に38口径の熱い弾頭が2発3発と叩き込まれる。
 無意識に引き絞られたワルサーP38ゲシュタポは撃発し、床に無駄弾を放つ。


 ワルサーのスライドにクラックが入る異音だけがやけに大きく聞こえたが、里香の意識と眼の精気はすでに生命の灯火を失っていた。

《チョコレートゴースト・了》
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