チョコレート・ゴースト

「!」
――――え!
 自室のドアを開けるなり、そのドアの向こうから伸びてきた手に、襟を掴まれて室内に引き込まれる。
 6人、確かに打ち倒した。
 6人以上いたのか、目算が狂っていたのか、6人という人数を意識し過ぎたか。
 バランスを崩して前方に倒れ気味につんのめる。
 足払い……否、小内刈に似た足捌きが里香の脹脛を襲う。
 襲撃者の体にまとわりつきそうな体勢のまま床に倒される。
 右手首を背中越しに拉ぎ上げられ、右手からワルサーP38ゲシュタポが滑り落ちる。
 人体の構造上、腕の筋を拉がれると手首の筋まで緊張してしまい末端の指まで力が入らなくなる。合気道や合気柔術、延いては逮捕術の世界ではごく当たり前の業だ。
「……!」
 背中……襲撃者がほくそ笑んでいるであろう背中に寒気。
 里香は悶えて抵抗せずに、頚骨から背骨から腰から体幹を通じて重心バランスを移動させ、その過程で運動エネルギーにコンバートして下半身のバネへ伝える。すると……。
「……お」
 里香の体は大きく波打った。
 襲撃者は小さな驚きをみせ、拉ぎ上げる両手を離し、里香の右手は自由になった。
 体が床で反転し、襲撃者の方を向いた里香は襲撃者を見るよりも早く、左手を探らせて転がっているはずのワルサーP38ゲシュタポを掴もうとする。
「反応は良いけど、感覚は今一ね」
 女の声。
 女の顔の輪郭を捉える前にワルサーP38ゲシュタポの9mmの直径が……たった9mmしかない銃口が里香の顔面を捉える。
 このとき、里香は死神の鎌と形容しても遜色ない『敵』の銃口に顔面を狙われていても、肝を握られずに行動を起こせたことを自慢に思った。
 自分に馬乗りになる襲撃者の鼠蹊部が自分の左足の膝上10cmの辺りに乗っかっているのを利用し、自分の防御のためワルサーP38ゲシュタポの奪取のために腕を振り上げずに、襲撃者の体重を利用して上半身を跳ね起こす。
 バネ仕掛けの人形のように上半身が起きる。
 襲撃者の持つワルサーP38ゲシュタポは手からすっぽ抜け、里香の左側頭部を過ぎ去り、銃口の恐怖は一凌ぎできた。
 ……それも束の間、背筋の寒気が危険を予知させる。
 里香は体を右に倒して再び床に倒れる。
 女と思われる襲撃者のシルエットが再び不明瞭な闇に溶ける。
「イイ勘してるわね。短期間によくもまあ、これだけも殺せたものだと思ったけど、運が良かっただけじゃないみたいね」
 里香の視線だけが視界の左端に注がれる。
 その光景を見て目を張る。冷や汗が吹き出る。
 襲撃者の右手首にはまるで『襲撃者が自殺を図るような構えで腕を伸ばし、片手でワルサーP38ゲシュタポを前後逆さに握り、親指で引き金を引こうとしていた』。じっとしていれば、後頭部から9mmを叩き込まれていたところだ。
 しかしながら、里香が自分自身を褒めてやりたいと思ったのはこれで終わりではない。
 自身のワルサーP38ゲシュタポを奪われながらも、襲撃者の、翻る上着の左脇から左手を伸ばして床に倒れる寸前に、襲撃者のそこに収まっていた自動拳銃を奪えたことだ。
 銃身がスラリと長い。
 ワルサーP38ゲシュタポとは明らかに違うバランスをした握り込みやすい自動拳銃。
 グリップの前後の幅からして決して9mm口径ではない。32口径か22口径と呼ばれるものだろう。
 スリムながらも手に吸い付く感触はワルサーP38ゲシュタポとは違った趣がある。
 左手の人差し指を、奪った自動拳銃の引き金に走らせる前に周辺の操作レバー類を触り、安全装置を探る。
「! ……このっ」
 襲撃者となお尚、密接した状態の里香。
 里香に密接し過ぎた結果、拳銃を奪われた襲撃者。
 里香の左膝上10cmの上に『その女性の襲撃者』がワルサーP38ゲシュタポを手品のように上下左右に回転させて逆手握りの右手から左手に正当に持ち替える。
 里香の方が近く、早く、大きく行動できた。
 里香の右手の自動拳銃――セフティカット済み――発砲と同時に左手が襲撃者の死角――少なくともワルサーP38ゲシュタポの銃口からバイタルゾーンは逸れている――から左手が這うように伸びてワルサーP38ゲシュタポのスライドを掴む。
 発砲。
 里香の先制。
 軽い発砲音。軽いリコイル。美しくも心許ないマズルフラッシュ。
 噂に聞く22ロングライフルか。
 発砲した瞬間に硝煙が間欠泉のように目前を一瞬だけ隠す。
 あたかも、意識に止まらないレベルの目隠しに思える。
 撃鉄が露出していない、銃身が長く、取り回しの楽な自動拳銃が放った22口径と思しき弾頭は彼女――襲撃者――の頭部を庇護するように咄嗟に折り畳まれた腕部で停止する。
 矢張り22ロングライフルだ。
 彼女は悲鳴こそは挙げなかったが、細腕の筋肉の束で直径6mmにも満たない軽い弾頭は完全に停止した。
 右上腕部の一番筋肉が分厚い部分で停止した。
 激痛が襲っているはずだが彼女の動きに鈍りはみえない。
 命中時に派手に血飛沫が飛び散ったが、動脈に命中した感触はない。
 一方、ワルサーP38ゲシュタポのスライドを握った里香の左掌はワルサーP38ゲシュタポを強奪するのではなく、無理なくスライドを後退させて薬室の実包を排莢させて空撃ちさせる。
 ワルサーP38ゲシュタポに空撃ちさせたまま親指を跳ね下げてスライドリリースレバーを操作してスライドを後退位置で停止させる。
 襲撃者の女に大きなロスタイムが生じる。
 続けて里香は引き金を引き絞るが、先ほど被弾した彼女の腕が蛇のように伸び、自動拳銃の銃身を掴む。
 無理矢理、銃口の向く先を反らされた。
 銃身を握っての銃口を反らせる行為はそれを行う者に大きなリスクをいくつも負わせるが、それすらも恐れない英断だ。
 実際に、今し方放った2発の22口径と思しき弾頭は明後日の方向に弾痕を穿つ。
 銃身を握る彼女の右掌はきっと火傷し、反動で感触が鈍くなっているだろう。
 その分、襲撃者の彼女は自分の位置と命を守ることができた。
 そればかりか里香が保有する今の段階で最強の武器である、奪取された22口径の、銃身が長い大型の自動拳銃の銃口を大きく反らせてその銃口の向く先を文字通り握っている。
 里香は自分が握る自動拳銃の諸元を知らない。
 口径は22口径だとして、何発の実包を呑み込んで、どのようなアクションを具え、どのような操作が必要なのか解らない。
 具体的にあと何発で弾切れを起こすのかが解らない。
 里香の知識にある22口径のターゲットピストルの項目は記述が少な過ぎる。
「あが……!」
 彼女は里香の拳銃の銃身を握っただけではなかった。
 小さなフロントサイトを小指の付け根で捻るように握り込み、梃子の原理を用いた回転を発生させ、小さな力を大きく増幅させた力学的作用を里香の右手に伝えた。
 あたかも意志があるようにグリップとトリガーガードが里香の手首を捩じ上げる。
 大粒の脂を含んだ汗を流しながら犬を絞めるような呻き声を漏らす里香。
 右手首全体に襲い掛かる激痛になす術もなく全身が次のアクションをキャンセルする……左手が小刻みに震えながらワルサーP38ゲシュタポから離れてゆく。
「……あ」
 今まで必死だった。
 なぜ気がつかなかったんだろう。『こんなことになぜ気がつかなかったのか?』
 彼女は……『あの女』だ。
 あの日、あのとき、あの駅のトイレで物々交換をさせられた『あの女』だ。
 窓から差し込む心細い光源に自分に生き写しの微笑が浮かぶ。
13/14ページ
スキ