チョコレート・ゴースト

 頚部に不幸な跳弾に見舞われた男は咄嗟に命中箇所を押さえ、銃声にも劣らぬ大声で痛みを訴える。
 跳弾とは伝聞によると、命中の可能性はあっても、ベクトルを反らされる硬い物質にぶつかるたびに弾頭が削られたり砕かれたりして軽くなる。弾頭が有する本来のエネルギーを保ったまま跳弾することなどあり得ない。
 故に頚部に被弾した男はバイタルゾーンに命中したのに致死には到らない。精々、弾頭の『大きな破片』が皮膚を浅く刺した程度だろう。
 それでも里香には幸運だった。
 跳弾の元となった暴発を起こした瞬間にワルサーP38ゲシュタポの撃発音で、その顔面近くで起きた轟音で頬を平手で殴られたように正気を取り戻した。
 そして聞こえた、男の激痛を訴える声と一拍の隙に止む男の銃声。
 里香はその機会を見逃さなかった。
 体を右手側に横倒しにすると、素早くワルサーP38ゲシュタポを右手で保持し、その右手首の小指側に左掌を添えて発砲。
 家屋の外からの、窓から差し込む街灯を頼りにした発砲。
 しかし標的たる男は光源を背中に立っている。絶好の標的。4mあまりの距離……外さない距離。
 左手で血――暗いので赤ではなく黒い油のようだった――が流れる部位を押さえ、痛みを堪えている20代後半と思しきヤクザものの真似をした男の頚部――今度こそ喉仏のど真ん中の頚部。バイタルゾーン――に9mmパラベラムの高速弾を叩き込んで1発で死に至らしめる。
 泣き言とも呪詛とも思える呻き声を絞りながら、四つん這いで台所の勝手口から無様な遁走を計る男。
 確かコイツは流れ弾で左肩を負傷した男だ。迷わず背後からその男の延髄を撃ち抜いて止めを刺す。暗い中での5mも離れた距離だったが、冷静を取り戻した里香には問題ではない距離だった。
 頭が冷えてから『理解』したが、左上腕部外側の筋肉を削られた以外にも負傷している。
 右太腿外側や左足脹脛、右脇腹などに出血するほどではない擦過傷を作っている。
 脳内麻薬の分泌による新陳代謝の停止で痛みを本当に無視していたらしい。
 それらの負傷箇所を一撫でする。2階の自室を目指す。そんなに広い家屋ではない。いつもの、目を瞑っていても歩けるほど体に染み付いた距離感が里香の最大の武器だ。
「!」
 2階へ通じる階段の1段目を踏んだときに発砲される。
 2階からの発砲。拍子を打つようなリズムの撃発音から1人だと判じる。
 反射的に階段の陰に身を引き、遮蔽とした。遮蔽といっても相手からこちらの姿をみえなくさせるだけの存在であって、銃弾は遠慮無く家財や建材を貫通し削り取る。
 残弾2発の弾倉を引き抜き、新しい弾倉を差し込む。
 右手を潜望鏡のように突き出して盲撃ちを繰り返す。
 心なしか、2階で手ぐすねを引いていた男より、里香のワルサーP38ゲシュタポの方が速射のリズムが早い気がする。
――――!
 初めて覚える軽いキック。
 引き絞った引き金に今までに無い違和感。
 焦らずに手を引っ込めてワルサーP38ゲシュタポをみる。
 スライドが後退したまま停止。全ての実包を撃ち尽したことを報せていた。
 重い質量の、柔らかい物が階段から転げ落ちる。
 派手な音を立てて転がり落ちてきたそれは2階で発砲していた男だった。
 胸部に2発と腹部に1発被弾している。
 虫の息だ。完全無力化に成功しているので止めは刺さない。
 ワルサーP38ゲシュタポに新しい弾倉を差し込む。
 里香の実戦で滅多に作動させないレバー――スライドリリースレバー――を押し下げるとスライドが前進して軽やかな音を立て、実包が薬室に送り込まれる。撃鉄も起きている。
 なるほど、これはタイムロスが大きい。
 プロが実戦に臨む場合は、弾切れになる前に弾倉を交換することの本当の重要性を理解した。
 いくら左手に予備弾倉を握っていても、グリップ底部にマガジンキャッチがあるワルサーP38ゲシュタポではさらにロスは大きい。
 今までは直感だけでワルサーP38ゲシュタポを扱ってきたが、これからは一層、残弾に気を使わねばならない……これからも同じことがあるのならば。
 闖入者と銃撃戦を展開してどれほどの時間が経過したのか計っていない。
 近所の住人が驚いて目を覚まして通報したとして、そろそろ警官が駆けつけるだろう。
 自宅の外部に近隣の住民の騒ぎが聞こえないところを鑑みるに、住民連中は通報はしたが我関せずを装っているのか。誰が通報したのかと、お礼参りを恐れての、静まり返りようなのかもしれない。
 体感時間で長い時間が流れた気がしている。
 実測では数分の出来事だろう。
 体の芯から興奮状態に陥ると時間の感覚も狂うのだと体で覚える。
 階段を駆け上がる。爪先に重心を置いてできるだけ音を立てずに。
「……」
――――私なら……。
 階段を上がり切る前にふと立ち止まる。
 脳裏を過ぎる反応。あるいは信号を受信したか。
――――私なら。
――――こうする!
 突然、左手側の壁――その向こうは2階の廊下――に向かって乱射。大雑把に直径1mの円の中に8発分の弾痕が集まる、下手な射手のターゲットペーパーのようだった。後退したまま停止するスライド。
 素早く弾倉交換。スライドリリース。
 同時に聞こえる、左壁向こうの擦過音。壁に凭れかかってズルズルと倒れる耳障りな音。
「…………ビンゴ」
 弾痕の一つから血が滲んでゆっくりと赤い筋を作る。
 里香ならこの辺りの壁を遮蔽として待ち構え、視界の死角から発砲すると直感したのだ。
 階段を上り切り、自室がある左側に首を回すと水平2連発の中折れ散弾銃――銃身が短く挽き切られている――を抱いた男がジャックナイフのように体を折って悶絶している。
 痛みを堪えているのか、両手は銃身部分をギリギリと握り込んでいる。
 声も出せない、激痛に悶えるだけとなっている障害物の頭部に弾丸を叩き込んで楽にさせてやったが、自分の浅慮に舌打ちをする……自室の前で実に衛生的でないゴミを作ってしまった。
 脳漿と血液と延髄と骨片が飛び散って悪臭を放つ。
 脳味噌の細胞が混じった血液は反吐が出そうな悪臭だ。
 オレンジ色ともピンク色とも思える延髄はグロテスク以外の感想が出てこない。矢張り、丹精に拵えた死体は直視するものではない。今度から頚部と心臓を狙おうと誓う。
 体のあちら此方が痛む。擦過傷が疼き出す。冷静になり過ぎて新陳代謝が再開したらしい。
 途中にある、弟の部屋のドアノブが破壊されている。
 弾痕からして散弾銃だろう。大きな握り拳で殴ったような破壊痕だ。室内から薄っすらと漂う瑞々しさを含む鉄錆の臭い。
――――悪い姉ちゃんでごめんな……。
 このドアの先に何があるのか察してしまう。
 弟の死体だけだ。
 飛び込んで止血してやろうと考えたがすぐにその考えも萎む。
 これだけの血の臭いなら……失血性のショック死は免れない。
 歩みが僅かに鈍る。
 ドアから弟に手を引かれる思い。心が痛い。
 奥歯を噛み縛って自室のドアを開ける。
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