チョコレート・ゴースト

 その男にも銃口を向け、軽くなっている引き金を引く。
 轟音。
 既に経験しているとはいえ、いつもの9mmとは思えない。
 強化ガラス1枚向こうのその男は、悲鳴を挙げるだけの元気があったらしく、腹部か脇腹に9mmパラベラムを叩き込まれても、鼻を打ち付けたヒグマみたいな声で呻いている。
「なんだ!」
 父親の声。ゴルフクラブの先端が廊下の角から覗いたとき、駆ける父親が角から姿を表す前に左手を大きく振る。親指の人差し指の股を、丁度飛び出した父親――の、頚部――に向かって叩きつける。
 喉仏のやや下辺りに的確に命中し、父親は娘の姿を確認する前に白目を向いて気絶する。
 里香はゴルフクラブのヘッドの付け根を掴むと、後続して走ってきた母親の鳩尾にゴルフクラブのグリップエンドを叩き込む。
 踏み殺した子犬のような声を挙げて敢えなく気絶する母親。
 勿論、良心の呵責に苛まれた。自分の両親を直接打撃で気絶に至らせるなどあってはならないことだ。
 心の中で何度も何度も平身低頭に土下座して謝罪の言葉を叫ぶ。ごめんなさい。自分の娘はこんなにも悪い娘です。と。
 膂力的に、マチョズモ的に強い者にしか憧れないノミの心臓をした腰抜けの弟は自室に居るはずだが、何かしらの行動を起こしている気配は感じない。
 大方、愛用のモデルガンでも抱いて頭から毛布を被ってガタガタ震えているのだろう。
 今はその比類なき頼りなさに感謝だ。
 里香が評するのもなんだが、一般的な2階建てより僅かに大きな自宅。5LDKに大型納戸と3畳半の書斎がある。
 自宅に敵意を持つ勢力が乗り込んでくる……身から出た錆とはいえ、安心して眠れる空間を失うというのは実に心細い。
 これが非日常で破滅に進む序盤なのかと、なぜか鼻で嗤う。
 振り返る。玄関の方へ。
 臨戦態勢のワルサーP38ゲシュタポを両手で保持しながら、やや右半身気味。
 運足も左足は半歩後ろが基本。
 ウイーバースタンスというらしい構え。スマートフォンの中の動画を見様見真似で会得したので正調とは違う部分が多々あるに違いない。
 自分の体はこの短期間で様々なスタイルを習得し修得した。
 結果、会得したものはオリジナルじみていた。
 左手で後ろ腰に廻ったウエストポーチから予備弾倉を1本抜き出して、左手の小指と薬指の間に挟む。
「……!」
――――来た!
 自宅内部に闖入者の気配。
 先ほど負傷させた男が玄関で悶えている。
 悶絶する呻き声が耳に障るのでもう1発、9mmパラベラムを叩き込んで黙らせる。
 随分と風通しが良くなった我が家の玄関。
 割れた強化ガラスの隙間から2人分の横たわる体がみえる。
 それを視界に端に確認する。すぐに踵を返して台所の方に向かう。
 単純に見積もって6人中2人を倒した。
 夜更けの激しい銃声だ。10分以内で警察が駆けつけるだろう。その間に逃げる算段も立てなければならない。
 戦いつつ逃げる。
 戦うといってしまえば格好がいいが、実際は応戦と排撃の繰り返しだ。
 必需品として、非合法なアイテムが詰まった、あの青いバッグが挙げられる。
 一度は2階にある自室に戻らねばならない。
 その前に横切る台所を通過しなければ。
 遁走を含んだ銃撃戦を展開するのなら、自室で前もって荷支度をしなかった里香に落ち度がある。だが、それに時間をかけていると今度は連中の完全な侵入を許してしまい、遁走どころではなくなる可能性も大きくなる。
 どの道、九死に一生の一生側に立つには刃の隙間を擦り抜けて陰から隙を突く芸当が要求される。
 台所通過直前。
 飛来する銃弾。発砲。男の影。里香は文字通りホームの有利を保つために室内灯は点けない。美しく派手に大きく咲くマズルフラッシュ。
 襲いくるのは質量のある銃弾だけではない。
 里香を、人を殺すつもりで実弾が自分自身に向けられて狂気を孕んで発砲されている。
 本気で殺すための本気の銃弾。
 熟練度や習熟度や技術論ではない。鬼気迫る殺気が充分に乗った発砲。
 今までは殺す側だけに立っていた里香が初めて味わう脅威と驚異と恐怖。
 自分のワルサーP38ゲシュタポが放つたった1発の……小指の先ほどの金属の塊が悪魔的破壊力を充分に心得ているだけに、それがトリガーハッピーであってもイニシアティブを取り返されるのは肝が冷やされる。背中にドライアイスでも押し付けられた気分だ。
 怖気付いているだけでは何も始まらない。
 官憲が到着する僅かな時間に全てを終わらせるか、全てから逃げなければならない。
 全身を走る、竦みの心を発砲することで振り払う……いつもながらに邪念を払ってくれる心地よい9mmの銃声。
 2発3発と発砲。
 彼我の距離にして4mほどしか離れていないはずなのに、双方とも決定打に欠ける。
 お互いの銃弾が室内の壁紙に孔を開け、硝煙が充満する空間を作る。
 鼓膜を聾する世界。
 射撃のインストラクターが室内でイヤーカフやイヤーウイスパーを用いている意味が痛いほど理解できる。実際に鼓膜が痛い。
「が!」
「つっ!」
 ワルサーP38ゲシュタポの流れ弾が5m向こうから援護しようとしていた男の右肩に命中する。
 同時に里香も左上腕部の筋肉を薄く削られる。
 電光のない台所でも、自らの体が負傷したことは解る。
 痛みや衝撃は吹き出るアドレナリンやエンドルフィンが麻痺させてくれるのである程度耐えられる。だが、自分の体から飛び散る自分の血液は顔を青褪めさせた。
 血を見るのが好きな人間が、即ち自分の血でもいいとは限らない。自分が流血した事実に脳内に空白が生じる。
 動けと命令する自分と「どうしよう!」とパニックを起こす自分がせめぎ合う。
 両眼が負傷箇所に釘付けになる。
 台所に入る直前の角にある壁を遮蔽として逃げ込むのが精一杯だった。
 室内で使われる建材が鉄筋のように頑丈堅固に拵えられているはずもなく、4m向こうの男の銃弾が壁を突き抜ける。
 銃声が、現実と解離した世界へと里香の精神を侵食する。
 乖離した心と体。解離した世界への反抗か。パニックの絶頂がそれの先途。里香は自分を強く両手で抱きしめる。両手を強く握る。強く握る。強く。
 ワルサーP38ゲシュタポを握る右手は、左上腕部の負傷箇所から湧き出す痛みと血液を食い止めるように押さえ込み、左手は右上腕部を強く握る。
 握力の限界を超える握力。
――――ああ。
――――ああ……。
――――生まれて初めて本気で本当に願います!
――――お願いです! 助けて神様!
――――『どこの神様でもいいです! 助けてください!』
 都合のいい乞食信仰を強く信奉する日本人らしい信仰心をみせて、うなだれる。
 銃声。1発。
 彼女の願いを聞き入れた。
 実に都合よく現れる、物好きな神様は存外に近くにいた。
 その神様は無口なくせに存在をアピールする能力だけは優れていた。
 暴発。銃声だが、それは暴発というものだ。
 里香の右手の中で、力み過ぎた右手の中で、ワルサーP38ゲシュタポは暴発した。
 力み過ぎて引き金を引いたらしい。
 狙いも何も定めない、明後日の方向に向いた銃口から弾き出された9mmパラベラムの弾頭は、弟が置きっ放しにしていた金属バットや台所のステンレスシンクのアール部分に跳弾し、4m向こうでせせら笑いながら発砲していた男の頚部に『流れ弾』として命中した。
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