チョコレート・ゴースト

 有象無象にして烏合の衆でもある、その他大勢。
 毎日を真面目に生きる真っ当な大衆に埋もれ、自分の人生は終わるのだと山本里香(やまもと りか)は早々に悟った。
 所詮自分は何ものにもなれず、時間を掛けても大成できない、浅学菲才の塊なのだと。
 山本里香は18歳にしてそれを、自分は大したことのない、社会の歯車に成り上がるのだと確信したのは、所属するバスケットボール部でレギュラー入りできなかった瞬間に悟った。
 卑屈や悲観や悲壮を、嘆息とともに感情を吐き出すこともなく、厳しいトレーニングが報われなかった結果を現実として受け入れ、青春を捧げる時間は終了したのだとも同時に悟った。
 茫洋し、煩悶し、悄然とする自分自身はどこにもいない。
 20年分ほど年齢を重ねたのちに振り返ることができる境地にいたことは確かだ。
 悔し涙の一粒、一滴、一筋も込みあげない冷めた人間だったのだと客観する自分自身をみつけた。
 山本里香。高校3年生。女子バスケットボール部所属。
 18歳の誕生日を呆気なく、しかし劇的に終える。
 彼女は最早、ベンチを暖めるだけの人員としての値打ちもつけられなかった。『背景に立つ人物』として位置づけられた。
 彼女がその日のうちに衝動的にもみえる退部届けを提出し、楽しさと厳しさが同居していた居場所を自ら去っても、誰も振り向かなかった。
 受験を控えた3年生ならば、頃合の良い時期でもある。
 潮時をみつけて引退したのだろうと解釈されたに違いない。



 傾く陽。
 薄暮の美しい憂色のなか、寥々とした雰囲気を伸びる影に背負いながら一人、下校の途を行く。
 もうすぐ皐月も終わる。
 予定以上に長い期間、バスケットボールのコートで体を動かせたのは幸運だ。
 見渡せば自分で目処をつけて退部した3年生も多い。
 自分もそのなかの一人に仲間入りだ。
 肩にかけた青いスポーツバッグ。中身は着替えやジャージやスポーツタオルなど。自分のネームや高校の校章が縫い付けられたり印刷されたりしたモノは何もない。
 その事実をみても、自分が矮小な考えに及んでしまう、つまらない一般人だったのだと思い知らされる。……何一つとて、自分の何か一つを残すことができなかった。
 だからこその悟り。
 自分はただの人間だった。
 頑張れば必ず報われるというありがたいお言葉が妄言として経験に刻まれた。
 日本一の練習が日本一を生む。嗚呼、なんと甘美で軽薄な響きか。
 彼女は……山本里香という一人の少女……少女と大人の中間に存在するマージナルな固体は、抜け殻の寂しさと相碁井目とした人類の構図についてしばしし考えた。……が、腹の虫が鳴いたので忘れてしまう。


 襲いくる空腹を駅前のコンビニで買ったハンバーガーで鎮火。
 人込みに巻き込まれるようにプラットホームへ。
 草臥れた顔ぶれが波をなす駅の構内にあるベンチに座り、肩のスポーツバッグとスクールバッグを足元に置く。
 自分も草臥れている。
 特にブレザーの制服が。顔色が。溜息が。
 バスケットボールのレギュラーに最後まで選ばれなかったくらいでこの落ち込み具合なら、進学しても大した成績をあげずに腐るだけだろう。
 思考の後退。停滞。沈殿。下降。
 気がつけば視線を落とし、足元のタイルの数を数えている。
 自分で思っているほど自分はサバサバとした乾いた性格の人間ではないらしい。
 こんなにも……時間が経過するにつれてショックのダメージが膨張している。
 形の違う燃え尽き症候群だろうか? 足も頭も心も重い。
 全てが雑音に聞こえ、全てが障害物にみえる。
 煩い。五月蝿い。
 内奥する何かがけたたましく吠え立てる。
 渋面の表情にちがいない酷い顔のまま、手荷物を掴んでトイレに駆け込む。
 自己が包む心中がどのように変化変質し、何に変態しようとしているのかは解らない。
 こんなときはロクでもない考えに突き当たるまえにリセットするのが一番だ。
 乱暴に手荷物を床に置くと、洗面ブースでひっつかむように蛇口を捻って冷水で顔を削ぐように洗う。
「……?」
 何度かの冷水を顔に当てていると、不意に背後に人の気配。
 顔を洗うのを止めてブレザーのポケットから取り出したハンドタオルで顔を拭く。
 顔を拭きながら腰を屈めていた、体勢を起こして背筋を伸ばす。
 そして、戦慄した。
 不意。突拍子もなく。虚を突かれたように。
 だから、戦慄した。
 意外なところで想像外のモノの遺骸を目にしたように。
 不気味。
 『自分ではない自分を視る』というのは、こんなにも冷たい感触に包まれるものなのか、と。
「ごめんなさいね。ちょっといいかしら?」
「……」
 里香はその人物のその問いに対して、絶句ではなく返答に困ったので台詞が出なかった。
 身長は自分と変わらぬ170cmあまり。体躯も自分と変わらぬであろう。スレンダーな肢体を予想させる灰色のパーカーに薄破れがみえるジーンズパンツ。
 衣服は全く異なる。問題は容貌に観られない相違点。
 眉目と鼻筋が整っているものの、美少女と呼称するには及ばない及第点の貌。
 黒過ぎる瞳は自分にはない。黒水晶を磨き上げたものに似たそれは美しい部類ではなく不気味に類する天然の造形物だった。
 倒錯した感覚。
 自分自身に対して性的繁殖欲すら覚えてしまうその人物は『自分自身』。
 その人物の容貌について言及するなら、好意的で、肯定的で、知的好奇心が煽られる形容しか紡げなくなる。
 容姿が自分と同じ……似ているだけだというのに、見つめられると挙動不審に陥るよりも、黒い双眸に心臓を掴まれ、視線が外せなくなってしまい、不覚にも蠱惑的だと錯覚する。
 里香に潜むナルシズムが炙り出されたわけではない。敢えていうなら、このような容姿で生まれたかったと願う思いが顕現したといってもいい。
「ちょっといいかしら?」
「あ……はい」
 よく通る冷たい声。
 同じ世代であろう、その自分と瓜二つの、髪型が違うだけの――里香は襟足の短いマッシュウルフ。その人物は明るいブラウンに染めたセミロング――彼女は肩に提げていた、青いスポーツバッグを差し出して前置きもなく語りだす。
「このバッグとあなたのスポーツバッグを少しの間だけ交換してくれないかしら? お礼はこれでお願い」
 彼女は自分のバッグを里香に押しつけると里香の了承もなく、里香が持参していたスポーツバッグを手に取る。
 トランプのカードでも配る手つきで彼女は左手を閃かせ、里香の左懐の内ポケットに重量感のある茶封筒を差し込む。
「大丈夫。必ず返すわ。少しの間だけお願い。ね? 行きずりだけど私を助けると思って……お願い」
 反駁の隙を与えない彼女は、滑らかに自分の要望だけを、艶を乗せつつも冷たい声で宣い、あたかも天地がひっくり返って泡を食ったのに酷似した驚きで以って微動だにできないでいる元バスケ部の少女に背を向ける。
 そのまま何食わぬ、人を食ってはいるが何食わぬ顔で女子トイレを出る。
 あの少女との邂逅は夢での出来事。
 そう錯覚させるに充分な出会い。
 時間にして2分も経過していない。
 里香を現実に引き戻したのは、左内ポケットに感じた重量感だった。
 差し込まれた茶封筒をブレザーの上から押さえて思い出したように、目が覚めたように、自分に酷似した容貌の少女を追うべく女子トイレを出る。
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