Attack the incident

 そのレトルトカレーは一手間も二手間もかけた味がした。
 空きっ腹に香辛料が染み渡る。
 熱い。体が火照る。どこでも売っている、誰が作っても均一の味であるはずのレトルトカレーの食欲を唆る香りに拍車をかけられて湊音のスプーンは止まらない。
 特価の日に大盛りの保存白飯を買い込んでおいて良かったと、心底思う。
 贅沢を言えば新鮮なサラダをドレッシングなしで付け合せにしてカレー皿をからにしてからそのサラダで以て、口中を洗い流したかった。
 喉を潤す清涼な水を用意することもままならず始まった、待望の夕食。
 冷蔵庫のミネラルウォーターを手に取ったのはレトルトカレーを平らげてからだ。
 些か、タイミングを逸した感があるが、食通の言によるとカレーを食すときは皿を空けるまで水を口にしてはいけないらしい。勿論、食通を気取るのでもない湊音は自由に振舞う。
 敢えていうなら旨い物を美味く食べるのなら手段を選ばない。ただ、面倒臭がりの不精者なので食べるというシンプルで罪深い行為を蔑ろにする機会が多いだけだ。
 ……綺麗に平らげたカレー皿にカレースプーンを置いてから、満腹感を堪能する。
 緊張や疲労が解れて気分が充足するのを感じる。
 湊音は人間だ。食べなければ死ぬ。眠らなければ死ぬ。疲労が極まれば死ぬ。
 人間が覚えるとされるあらゆる欲望が、たった一杯のレトルトカレーで満たされる気分を覚える。
 今、この瞬間、どこかの誰か……敵意悪意を持つどこかの誰かが押し込んできて、熱く焼けた銃弾を心臓に叩き込んだとしても、満足な顔のまま死ねる気がした。
 満腹感の後の眠気。音もなく襲いくるそれに身を任せるのもいいが、湊音にはなさねばならないことがある。
 襲撃者への備え。愛銃の整備。逃走の準備。
 否、違う。
 食後の熱いコーヒーを飲むことだ。


 それからさらに2日経過。
 少々挑発的かと思いながらも4日前に襲われた繁華街に出向く。
 普通の素振り。
 普通に食材や生活用品を買い足して1Kマンションに戻る。
 万が一に備えて有りったけの現金と2梃のワルサーPPを懐に呑んでいたが、出番はなかった。
 その間にもバッタ屋としての依頼は舞い込む。
 恋野湊音は働かない。
 それを信条として行動教義を組み立てているのではない。あらゆる費用対効果でコストに叶う依頼があれば引き受ける。それがプロだ。
 バッタ屋の需要は……場合によっては意外と少ない。
 「それに見せかける必要のある犯罪」を望むクライアントが割合として少ないからだ。
 他方は派手なカチコミ要員や殺し屋崩れを雇いたがる。
 小手先の子供騙しな証拠隠滅を小出しにするバッタ屋はクライアントからすれば必要性が低いのだ。
 それでもバッタ屋を雇いたがる層は後暗い連中ばかり。
 それも脛に瑕を10個近く拵えた『闇の権力者モドキ』が多い。
 比較する分母がそのような危なっかしいクライアントばかりなのだから、仕事の数は少なくとも、依頼一件辺りの金額は大きい。
 恋野湊音は働かない。……実情は働かなくともそこそこ生きていける金額がコンスタントに報酬として支払われるからだ。
 生来の不精者の湊音にバッタ屋という職種は誂えたように型に嵌った、天職だった。
 携帯電話と、後ろ暗いファイルや連絡先やリンクしか入力されていないタブレット端末を抱えて、組立式ロフトベッド下部にある質素なデスクに座る。
「……う」
 報酬は相変わらず魅力的な数字が並んでいる。
 それはすなわち、難易度が高い仕事だ。
 プロ根性だけでクリアできない、器量や腕前以上のセンスが求められる。
 ハジキを使った荒事が列記されるメール群。
 必要経費で弾薬や弾倉の代金は落ちるので何とかなるが、流通経路の確保は別だ。それを維持するのに大枚が必要。故に……。
「これでいくか……」
 直感で選ぶ依頼。
 選択を迫られた状況で選択肢が広いというのは幸せなことだ。
 殺しの依頼。
 外部の犯行にみせかけた抹殺の依頼。
 細心の注意を払える範囲で払う。注意を払い過ぎて踏み込むと内通者だと勘違いされ、暗殺の対象にされる恐れがある。
 先ずは、情報収集。
 実に、『黒い』タブレット端末を駆使してクライアントとその背後を洗う。
「……」
――――見たことのある名前ばかりだなー。
――――相変わらず狭い業界だねー。
 灰皿にチョコレートフレーバーのシガリロの吸殻が3本分、並んでいる。
 シガリロはチェーンスモークに不向きなタバコだ。それが3本も吸い差しとなって並んでいるということは、湊音はかなりの時間、頭を捻ったということだ。
 室内にベルギーチョコをイメージしたという甘い香りが揺蕩い、中空に紫煙の層が形成される。なだらかな稜線を幾層にも重ねながらやがてキッチンの換気扇に吸い込まれて消える。
 羅列されるリストには数日前にカチコミにみせかけて殺害した橋田雅朋が席を置いていた組事務所の関係者も含まれている。
――――?
――――何か関係あるのか?
――――偶然だよな。こんなことは珍しくないし……。
 クライアントの背後に控える相関図から割り出した名簿を眺めると、嘗て自分を雇ったクライアントの名前が次々と湧き出てくる。
 前の、前の前の、前の前の前の、そのまた前のクライアントや、選ばなかった依頼を送信した名前も出てくるのは毎回のことなので、4本目のシガリロを吸い終える頃には懸念や疑問は抱かなかった。


 2梃のワルサーPPに入念なクリーニングを施す。
 2梃ずつのクリーニングではなく、1梃ずつのクリーニング。
 この瞬間にでもドアを破られて日陰者が銃を構えて雪崩込んでくるかもしれない。そんな状況を想定していれば自ずと、2梃同時のクリーニングは敬遠する。
 室内に篭る鼻をつく異臭。
 慌てて窓を開ける。……酸性のクリーニングリキッドが放つ人体によろしくない気体が揮発し、酸欠より恐ろしい中毒を引き起こすところだった。
 引火する性質をも持っているのでうっかり、シガリロに火を点せば爆発しかねない。
 2梃ともクリーニングを終えたが、サイト周りは一切弄らない。
 白色の蛍光ドットの蓄光加減を調べたが充分に寿命がある。
 20本の空弾倉をクローゼットから取り出し、無言で、黙々と、静かに32口径のバラ弾を装填していく。
 自然と口がへの字に曲がる。眉目に表情の気配はない。胡座を書いて少し猫背気味の湊音は、あたかも細工に打ち込む職人の容貌だった。


 必要な情報は情報屋から好きなだけ聞き出せる。
 ……必要経費で落とせるからだ。毎回このように羽振りのいいクライアントだと楽だな、と思いながら情報収集の数日が過ぎる。
 その間に湊音を尾行する若年層の影がちらついたが、銃撃戦に発展する事態はなく、簡単に尾行を撒けた。
――――尾行している連中は私の塒を知らないのか?
 集団を形成する割には個々で連携が取れていない。どこかのチーマーかカラーギャング崩れかと推測したが、今は引き受けた依頼を全うすることに全力を注ぎたい。
 湊音の心の中で、湊音を殺傷するつもりの若い年齢の彼等はどんどん、取るに足りない存在になっている。


 そして機は熟した。
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