Attack the incident

 不用意にシューティングレンジに飛び出して標的用紙を取り替えたり確認するのは危険なので15分に1回の間隔で発砲休止のホイッスルが鳴り、その間にレンジマスター兼管理人がターゲットペーパーを取り替えにいくのだ。
 数日前に橋田なるヤクザを屠ってから仕入れた新しい銃身。
 その銃身と犯行に使用した銃身を交換して初めての発砲だ。
 慣らし運転というよりサイトの微調整のし直しがメイン。
 銃身付近のネジを頻繁に緩めたり締めたりを繰り返すのは余り宜しくない。その部位だけの摩耗が激しくなって予期せぬ事態を招くからだ。
 仕事の度にこのようなタイトな調整を繰り返しているわけではない。先に挙げた銃本体への負荷も含めて、財政事情にも優しくないので数日前のような「大きな仕事」を引き受ける頻度は低い。
 経済的に立ち行かなくなったときだけ引き受けるようにしているが、現実には「小さな仕事」の方が少ない。
 鉄火場を避けるために「小さな仕事」を選んでばかりだからバッタ屋としての湊音の評価は小悪党レベルのポジションだ。
 ホイッスルが甲高い音を立てる。急に鳴り響くものだから耳の奥に劈かれる痛みが走る。
 レンジマスター兼管理人がターゲットペーパーを張替えにレンジに飛び出る。
 レンジマスター兼管理人の若い男の助手が申しわけなさそうにへこへこと頭を下げながら足元に散らばった3人分の空薬莢を箒で掃いて集める。
 自販機もベンチも何もない、地下のシューティングレンジ。
 どこかで拾ってきたとしか思えないひっくり返したビールケースがいくつか並んでいるが、これがこのシューティングレンジの待合席だ。
 粗末なことこの上ないが、このクラスの個人経営の非合法シューティングレンジにしては良く気が利いている方だ。
 2梃のワルサーPPを両脇に仕舞い込み、ひっくり返したビールケースに座り込む。
 スタジアムジャンパーのハンドウォームから贔屓にしている茶色を基調とした平べったい缶と使い捨てライターを取り出す。
 唯でさえ息苦しく新鮮な酸素の濃度が低い空間なのに、缶の中身のシガリロを取り出して横銜えにする。
 他の二人――何れも30代前半の組織者の男――も倣うように紙巻煙草に火を点ける。
 おおよそ女らしくない仕草で足を投げ出し、使い捨てライターでシガリロの先端を炙る。
 両脇に垂れ下がるワルサーPP。
 ショルダーホルスターは2梃拳銃用に拵えられたジョークグッズの領域を出ない代物だが、米国では本気でこれを作って販売するメーカーが存在する。
 ホルスター自体の拵えや型はワルサーPP用ではなく、全長200mm前後の自動拳銃ならフリーでフィットする特殊な樹脂繊維で作られている。この業界では意外と2梃拳銃の遣い手は多い。
 但し、鉄火場でメインが故障したからサブを引っ張り出すという意味での2梃拳銃だ。
 メインとして2挺拳銃を遣う業界人は少ない。
 命の遣り取りの場では何かと敬遠される。一般的なイメージの2梃拳銃を本当に実戦で使うのはバカか腕利きしかいない。
「……腹減ったなぁ」
 チョコレートの香りがするシガリロが生み出す範囲だけは幾分か過ごしやすい。
 慣れた芳香が混じっているだけの気休めである。
 チョコレートの香りに胃袋が刺激されたが、実際に欲しいのは甘味より塩味の効いた動物性タンパク質だ。
 ネオスチョコレートのニコチンで昂ぶりや空腹や不快を感じ、忙しかった脳髄が軽く麻痺してニコチン特有の安息が脳細胞に浸透する。
 軽い眠気を覚える。癒されたい疲労が、望むタイミングで癒された時に感じる幸福感に似ている。
 うつらうつらと湊音のかぶりが船を漕ぎ始めたとき、インターバル――ターゲットペーパー張替えと周囲の清掃の時間――終了を告げるホイッスルが酷い目覚ましとなった。


 トラブルやハプニングに分類される突発的事象は予想できないからこその、それなのだ。
 依頼を引き受けたときにしか鉄火場や修羅場や土壇場は訪れないと思っていると、思わぬ方向から、思わぬタイミングで、思わぬ起因でそれが発生する。
 走る……が、足が重い。
 いつものような軽快颯爽と軽やかな足取りではない。
 早くも胃袋のものを吐き出しそうな苦しみに襲われる。
 ランニング時特有の片腹の痛みに顔をしかめる。整った眉目が歪む。
 湊音は追われている。
 追われる心当たりが多いので誰が首魁であるか? という思索は走りながら捨てた。
 MA-1フライトジャケットのレプリカにジーンズ姿の湊音が、繁華街の雑踏を人の流れに逆らって走る。
 大した速度は出ていない。長い距離を走ったために、右腹に痛みが発生。遅い夕食の直後に1時間も走らされるとは思わなかった。それも豚骨ラーメンを替え玉した後だ。食後20分も経過していないのにだ。
 立ち食いのラーメン屋から出た瞬間に尾行されていると解った。
 生来の勘の鋭さとか経験に基づく殺気の検出などという大袈裟なものではない。
 たかだか22年そこらの年齢の彼女にそれを求めるのは酷というものだ。
 ではなぜ、尾行されていると気が付いたか? そして遁走を始めたのか? ……答えは勘や経験とは似て非なるもの……直感だ。「勘が鋭い」という語彙と定義を線引きするのが難しいが、ここでは瑣事な事柄だった。
 要するに逃げ果せることができれば、取り敢えず万々歳だ。
 ……完全禁煙の立ち食いラーメン屋を出て店の軒先でシガリロを銜えた時にライターを探したが、「ジャンパーのポケットではなく、ズボンのポケットに入っていた」。
 理由はそれだけだ。
 いつも違うルーチンに陥った。
 『閉鎖された思考回路』という、些か矛盾じみたルーチン。
 いつもと違う。
 どこかで何かが、音階が外れたように、ボタンを掛け違えたように、階段を一段飛ばしたように、何かが日常から外れた。
 意識を介入させない動作で、ふと視線を左右に振ると物陰に隠れる人影。
 薄暮の時間を過ぎたので人数は不明だが、明らかに尾行されていた。
 何かが違う。いつもと違う。どこか違う。
 おおよそ、今の人類の頭脳で求めることができない公式を当て填めなければ算出できない大宇宙的意思の働きを感じさせるが、事件の当事者として、すっぽりと穴に嵌った湊音からすればどうでもいい。
 今は逃げるだけだ。
 人込みの中なら発砲はありえないだろうし、遮蔽や物陰が多いので逃走が成功する機会が多いだろう。
 ジッパーを締めたフライトジャケットの左脇にはワルサーPPが収まっている。
 2梃拳銃ではない。
 仕事でもないのに2梃もぶら下げて歩くのは流石にバカらしい。予備弾倉も日常の護身用を想定しているために、たったの3本しか携行していない。
 火を点け損ねたシガリロを噛み締める。
 唾液でふやけ始めたシガリロの吸い口からチョコレートの香料を含んだ甘い水分が粉葉とともに押し出される。
 ナチュラルリーフのラッパーとシートタバコのバインダーが破れる感触が、噛み締める八重歯に伝わる。
 走りながらショーウインドウやカーブミラー越しに、追跡者の数や体格性別を推し量る。
 ネオンの真下も店頭の照明で明るく、把握するのに大した時間はかからなかった。
――――5人。
――――誰だ? どこの誰が? 否、『日雇い』か?
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