Attack the incident

 恋野湊音(こいの みなと)は働かない。
 彼女、恋野湊音は22年ばかりの短い人生でこれほどまでに選択を迫られたことは……「またか」と吐き捨ててしまうほどに経験してきた。
 むしろ選択肢しかない人生だった気がする。
 それもあながち間違えていない解釈だ。
 左右に分かれる道があるのなら、右へ曲がるか左へ曲がるかで新しい選択肢が目前に現れる。それに加えて、経験則として、人間は必ず後悔する生き物だということも知っていた。
 悩んだ末にAを選んでも期待したほどでもなく、矢張りBを選ぶべきだったと嘆くのが人間だ。人間は必ず後悔する。
 恋野湊音は働かない。
 彼女の22年ばかりの人生訓が彼女の耳元で囁く。
 「この依頼は引き受けるな。痛い思いをする。依頼を引き受けずに塒で何か食べよう」と。
 危ない橋の、端を走る依頼。
 A:糊口を凌ぐために依頼を引き受ける。
 B:命が惜しいので今回は見送る。
 今の選択肢はたったのこれだけだ。
 選択を迫られる場面で能動的に選択できるルートが多いというのはとても幸せな事だ。
 どんなにゴネてもたった一つのルートしか選ばせてもらえないというシチュエーションは最悪だ。
 そういった意味では湊音は恵まれている。選択の幅が2つもある。
 ただ、判断と思考を巡らせる邪魔をしているのは、生来の稀にみる不精者根性。稀代の不精者を競う選手権があれば国内大会では敗北を喫することはまずないだろう。
 彼女はこんなみてくれでも裏街道の人間だ。
 表世界の争いのルールではスケールもバリューも違う。
 表世界で負け知らずの猛者でも、湊音がたむろする界隈では普通に存在する。目を閉じて石を適当に10個くらい投げれば湊音レベルの不精者に当たる。
 早い話が表の明るい世界でドロップアウトした人間が吹き溜まる世界も、内奥に含んでいるのが裏街道こと暗黒社会だ。
 ピンでも組織でも日雇いでも、ピンキリの世界はこのような落ちぶれた人間で構成されている。
 明るい世界の人間がスクリーンやモニターで見るほど、暗黒社会はギラついていない。
 堕落し、働かないためなら手段を選ばない人間が、いかに働かずに大金を手に入れるのか? というテーマで最高の頭脳を働かせて想像以上の汗水を流している世界だ。
 それを念頭に、恋野湊音(こいの みなと)は働かない。
 染みついた硝煙の独特の香りを掻き消すために、柑橘系のフレグランスをまとってはいるが、今しがた溜息を吐いた後に銜えたシガリロがフルーティで清涼な香水を差し引きゼロにしている。
 細長いシガリロに使い捨てライターで火を点す。
 ふわっと膨れ上がるチョコレートの香り。
 ベルギーチョコのフレーバーを売り物にしている細長いシガリロは、硝煙やフレグランスや体臭以上の芳しい紫煙でもって、狭い室内を瞬く間に支配した。
 165cmの長身に抽象的な容貌。やや痩身なれど健康的で活動的な若さと行動力が溢れる体躯。センターブルーのスタジアムジャンパーとデニムパンツは誂えたように似合っていた。
 明るく赤茶けたカラーに染めた頭髪。襟足の短いマッシュウルフのショートカット。故に、抽象的な容貌を加速させる。前髪を分けるように差した飾りっ気のない黒いヘアピンのお陰で麗しくも凛々しい双眸が表に顕れる。
 思わず突つきたくなる頬。それに収まる顔のパーツは精緻な設計図を元に削りだされた加工品のようだった。良くいえば精悍に整った美貌。悪くいえば貼り付けたような顔付き。
 ロフトベッドと箪笥が一本有るだけの1Kマンションの一室。
 洋間フローリング8畳。床には厚目のカーペットが敷かれている。限られたスペースを有効に使うために折り畳みテーブルは使う時だけ展開してセット。
 7階建てマンションの3階。その一番、端の部屋が今の湊音の塒だった。
 南東の角。日当たり良好といいたいが、真夏は日当たりが良過ぎて蒸し風呂さながらを呈する。
 エアコンは高性能とはいい難い。オーナーの話では近々、新しいエアコンと入れ替えるという話だが、次の夏がやってくる前に済ませて欲しいと願っている。
 ユニットバスに水を張ってそこで押し込められた死体のように涼を得るのはそろそろ限界だ。
 幸い、冬の今は石油ヒーターのお陰で快適を保っている。……冬に暖を取って快適が保たれるということは壁材は一応機能しているのだ。
 台所の換気扇の直下でチョコレートの香りのシガリロ――ネオス・チョコレート――を半分ほど灰にしたところで、スタジアムジャンパーのポケットから携帯電話を取り出す。
「……お腹も減るよなぁ」
 時刻的にも財政的にも空腹を覚える。
 時刻は夕方6時。
 テキスト機能に貼り付けた覚書の項目には心許ない数字が並ぶ……それは現在の『金銭』の全財産だ。
「依頼……受けるか……」
 背に腹は替えられないどころか、腹と背がくっつきそうな気分。
 やや胡乱に落ちた、締まりの無い眼で携帯電話でしかるべき番号を呼び出す。
「あ、もしもし……」
 掌に乗る端末の向こうの相手との会話が始まったというのに、湊音の脳裏には、まとまった金が入ったら、験担ぎに黄色い財布と観葉植物の『幸福の木』でも買おうかな、と雑念が蔓延っていた。
  ※ ※ ※
 依頼。
 そして職掌。
 湊音はフリーランスで窃盗を生業にしている……が、それは表向きの裏の顔で本来は、『いかにもそうであると見せかけて実のところ、そうでない』、バッタ屋だ。
 バッタ屋の語源は諸説有るが、成り済まして似て非なるものを差す方言の『ばったもの』から派生したと思われる。
 強盗のように見せ掛けて実は計画的犯行。
 空き巣のように見せ掛けて実は計画的犯行。
 スリのように見せ掛けて実は計画的犯行。
 そして。
 行きずりの殺人と見せ掛けて実は計画的犯行。
 汗水を垂らす労働を嫌う割には、知的作業。脳内で消費するカロリーは大層大きなものだ。
 彼女もまた、労働に勤しむことを放棄し、生きるためにはどんな手段も苦労も努力も無駄とは思わない落伍者である。
 そんな彼女が対価を求めて……正確には腹の虫を鎮めるだけの端た金を得るために引き受けた依頼は『カチコミのように見せ掛けて実は特定の組織者を葬り去る』内容だった。
 クライアントが何故カチコミに拘るのか? なぜ狙撃のようなスマートな手口で標的を仕留めないのか? それは聞けない。訊いてはいけない事情があるからこそバッタ屋の出番なのだ。つまるところ、個人経営とはいえ、一山いくらの使い捨ての人材だ。
「……ああ……」
――――ヤバイ仕事ほど入金が早いんだよなぁ。
 携帯電話のバイブが震えて着信したメールを読むなり腹の底からの深い溜息。
 メールの内容を読むと、本文を暗記して削除。履歴も削除。
 焦げ茶色の毛糸のマフラーを首に巻き、背を丸めて玄関に向かう。
 靴を履いてドアを開け、閉めたドアに鍵をかける頃になると彼女の横顔は夜の氷のように鋭く、冷たかった。


 中古の原付バイク――ヤマハVOX(黒)―を20分ほど走らせて、繁華街のとあるショットバーの裏手口に廻る。
 迷路のように入り組んだこの路地では原付のような機動力は大き過ぎて小回りが利かない。故にエンジンを切って手で押しながら進む。
「……」
「……」
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