冬空越しの楽園
片面だけに塩胡椒をふりかけたサーロインが、内包した脂分を矯激に弾けさせて旨味成分を誇示する。期待が膨らむ瞬間。期待を裏切られない美しい音色。
だが、強火でその音色を楽しむのは30秒以内だ。30秒経過したか否かの刹那に一気に弱火に落とし、蓋をして熱を中心まで侵入させる。
90秒経過後に焼き音に変化があるのを感じると、すぐに蓋を取り、ヘラを滑り込ませて無駄なアクションは排除した動作でひっくり返す。
サーロインステーキをひっくり返すのは一度だけだ。
今し方焼いた面が飾り付けた際の表面となる。裏返してからさらに蓋を閉じる。
火力を最大にしてさらに30秒。ここに来るまでに生唾を何度飲んだか。
換気扇を作動させているとはいえ、室内には香ばしくも艶やかな高カロリータンパク質が鮮やかに放つ香りで充満している。
ガーリックチップを落としたはずだが、ニンニク臭い個性的な匂いは一切無い。
裏返して30秒経過。火力を弱火に落として120秒待つ。
ひたすら待つ。ただ待つ。待つだけ。
120秒はこないのではないかと勘繰るほどの長い時間。
腹の虫が騒ぎ出す。
何度も時計の秒針を確認する。時計の秒針ですら自分を欺いているのではないかと疑う。
そして……焼き音が、かの音色が、待っていたタイミングが訪れる。
火力、オフ。
蓋を開ける。
湯気と脂の向こうに見える饗宴。ただのサーロインが鎮座しているだけの小さな世界。フライパンという小さな世界で庶民の食卓の王は威光を存分に放ち、魅せつける。
サーロインステーキのミディアムレア。
フライパンよりサーロイン王を熱湯で温めた分厚い大皿に遷し、染み出た残りの脂分とガーリックチップでタマネギのスライスを軽く炒める。
ソースもタレも要らない。
サーロインステーキを王とし、タマネギの炒めものを近衛兵とするなら、レタスをちぎっただけのサラダは騎士団に相当するだろうか。
威風堂々の王を情け容赦なく頬張るのはテーブルに置いた直後のことであった。
ナイフとフォークで武装した由子は、白い皿の上でまだ湯気を上げるサーロインステーキを大胆に、しかし効率良く切り分け、口へ運ぶ。
弾ける満足感。あふれ出る唾液。それ以外に該当する言葉が思いつかない。
極上の脂が高熱を伴って口中に広がる。それを先導するガーリック風味と塩胡椒の刺激的且つ、甘味を含んだ塩分。
ナイフやフォークの先端から感じるささやかな抵抗。次の瞬間に訪れる肉欲的な弾力。適度な、ほどよい、良い塩梅、ナイスフィーリング……いずれの形容も合致するストレートな肌触り。
赤みがわずかに残る中心部から溢れる透明の脂はテラテラと輝きを返し、扇情的だった。
これを目前に品性を護り理性的に食するのは逆に無礼だとさえ感じる。
食事は非常に重要だ。
栄養補給という機能面だけでなく、咀嚼し味わうことで脳髄や偏桃体の緊張した部位をほぐし、満足感で癒す大脳生理学的側面も持つ。
勿論、『食べる』というただそのことのみに執着し、活力の源としている精神的支援も受け持つ。
由子は残念ながらただの人間で、堕落した小悪党だ。食べなければ死んでしまう。
一食抜いただけでもモチベーションが維持できない。行動力や思考能力は若さがカバーしても、苦境の中でさらに苦難を強いられているという『緊張』に長期にさらされ続けると、てき面に体調不良を引き起こす。
由子が何となくでも、毎日を生きていけるのは食事や睡眠、休養という人間らしい基盤を心がけているからだ。銀幕のヒーローさながらの存在ではない。
「……ふう」
ナイフとフォークを置く。よくも綺麗に平らげたものだ。タマネギの切れ端一つ残っていない。
口元の脂をポケットティッシュで拭うと、食器を片付け始める。
小さな台所に堆く積まれた食器や食材の残りや調理器具を眺めると、『自分の身の丈以上の戦闘行為』だと苦笑した。
誰も見ていないとはいえ、ショーツ一枚にフィールドコートを羽織っただけでは、さすがに女として恥ずかしくなってきた。
衣服やファッションに無頓着なのではなく、それだけ早く腹の虫の鳴き声を鎮めたかった。
そそくさとトレーニングパンツとトレーナーに着替える。
律儀にショルダーホルスターはぶら下げない。
常にショルダーホルシターをぶら下げ、外すのは入浴中と就寝中だけという生活は無理だ。
筋骨隆々の逞しい男性でも1週間とせず肩凝りや腰痛、それらが原因の頭痛や眼精疲労などに苦しめられて悶絶してしまう。
人体の可動部位を拘束するショルダーホルスターは意外にも人体工学的に『優しくない』ホルスターだ。
無造作にモーゼルHSc-80をトレーニングパンツの右ポケットに突っ込む。
そして視線をテーブル脇のノリンコT―R9に移す。
「……ま、一応。ね」
電気ケトルで湯を沸かしながらノリンコT-R9を手に取る。
改めて予備弾倉やバラ弾を数える。
沸かした湯でコーヒーを淹れ、そのマグカップを持ちながら様々な角度から、奪ったノリンコT―R9を観察。
スライドレールやマグウエル周辺に薄らとグリスを吹いてある。地面にとした時にできたと思われるグリップエンドの小さな瑕以外に大きな損傷はみられなかった。
通常分解で点検してみたが異常はない。
今の日本に於いてアンダーグラウンドで流通している拳銃は一通り、弄ったので勝手は解る。
嘗ては拳銃といえばトカレフかマカロフかといわれた時代もあった。今では懐かしいフレーズだ。
今の国内にはタマが出れば金に糸目をつけずに定期購入してくれる組織がゴロゴロと転がっている。傷害保険に銃火器犯罪専門の保険が発売されるのもうなずける。
このノリンコT―R9を使う上で、あとはサイティングだけが心配だった。
長く使う銃にはならないだろうが、土壇場で『まっすぐ飛んでくれない銃』だったら面倒だ。
「…………」
――――あ……やばい。
傷の処置をして空腹も満たされ、コーヒーで一息つき、ノリンコT―R9を眺めているうちに眠気が襲ってきた。
このまま大の字に転がって寝入ってしまえば、朝方に風邪をひきそうなので重い尻を上げ、さっさと用を足し、歯を磨いてロフトベッドに潜り込む。
就寝前に自宅の鍵をチェックする用心深さだが、そのチェックの有無を思い出したとき、既に由子は深い眠りの国に没してしまっていた。
軽い熱。
由子は微熱にさっと茹でられている熱苦しさで目が覚めた。
軽い熱。
熱の原因は左太腿内側の傷だろう。傷口が炎症を起こして抗生物質と雑菌が戦闘中だ。
中々覚めない頭を巡らせ、自分がロフトベッドで寝ていることに気がつく。
ようやく、8畳ほどの広さのセーフハウスたる1Kマンションに避難していることを思い出す。
軽い熱。喉が渇く。傷口は強い違和感はあるが痛みはない。
微熱の頭をもたげ、台所で冷水を飲む。そして考える。これからのことを。
用を足すべくトイレに篭る。
中々、腰を上げないのは便通がないのではなく、考えがまとまらないからだ。
流石に朝食の菓子パンを齧っているときは野暮な考えは停止させた。なのに、すぐにポケットのモーゼルHSc-80が現実を教える。
だが、強火でその音色を楽しむのは30秒以内だ。30秒経過したか否かの刹那に一気に弱火に落とし、蓋をして熱を中心まで侵入させる。
90秒経過後に焼き音に変化があるのを感じると、すぐに蓋を取り、ヘラを滑り込ませて無駄なアクションは排除した動作でひっくり返す。
サーロインステーキをひっくり返すのは一度だけだ。
今し方焼いた面が飾り付けた際の表面となる。裏返してからさらに蓋を閉じる。
火力を最大にしてさらに30秒。ここに来るまでに生唾を何度飲んだか。
換気扇を作動させているとはいえ、室内には香ばしくも艶やかな高カロリータンパク質が鮮やかに放つ香りで充満している。
ガーリックチップを落としたはずだが、ニンニク臭い個性的な匂いは一切無い。
裏返して30秒経過。火力を弱火に落として120秒待つ。
ひたすら待つ。ただ待つ。待つだけ。
120秒はこないのではないかと勘繰るほどの長い時間。
腹の虫が騒ぎ出す。
何度も時計の秒針を確認する。時計の秒針ですら自分を欺いているのではないかと疑う。
そして……焼き音が、かの音色が、待っていたタイミングが訪れる。
火力、オフ。
蓋を開ける。
湯気と脂の向こうに見える饗宴。ただのサーロインが鎮座しているだけの小さな世界。フライパンという小さな世界で庶民の食卓の王は威光を存分に放ち、魅せつける。
サーロインステーキのミディアムレア。
フライパンよりサーロイン王を熱湯で温めた分厚い大皿に遷し、染み出た残りの脂分とガーリックチップでタマネギのスライスを軽く炒める。
ソースもタレも要らない。
サーロインステーキを王とし、タマネギの炒めものを近衛兵とするなら、レタスをちぎっただけのサラダは騎士団に相当するだろうか。
威風堂々の王を情け容赦なく頬張るのはテーブルに置いた直後のことであった。
ナイフとフォークで武装した由子は、白い皿の上でまだ湯気を上げるサーロインステーキを大胆に、しかし効率良く切り分け、口へ運ぶ。
弾ける満足感。あふれ出る唾液。それ以外に該当する言葉が思いつかない。
極上の脂が高熱を伴って口中に広がる。それを先導するガーリック風味と塩胡椒の刺激的且つ、甘味を含んだ塩分。
ナイフやフォークの先端から感じるささやかな抵抗。次の瞬間に訪れる肉欲的な弾力。適度な、ほどよい、良い塩梅、ナイスフィーリング……いずれの形容も合致するストレートな肌触り。
赤みがわずかに残る中心部から溢れる透明の脂はテラテラと輝きを返し、扇情的だった。
これを目前に品性を護り理性的に食するのは逆に無礼だとさえ感じる。
食事は非常に重要だ。
栄養補給という機能面だけでなく、咀嚼し味わうことで脳髄や偏桃体の緊張した部位をほぐし、満足感で癒す大脳生理学的側面も持つ。
勿論、『食べる』というただそのことのみに執着し、活力の源としている精神的支援も受け持つ。
由子は残念ながらただの人間で、堕落した小悪党だ。食べなければ死んでしまう。
一食抜いただけでもモチベーションが維持できない。行動力や思考能力は若さがカバーしても、苦境の中でさらに苦難を強いられているという『緊張』に長期にさらされ続けると、てき面に体調不良を引き起こす。
由子が何となくでも、毎日を生きていけるのは食事や睡眠、休養という人間らしい基盤を心がけているからだ。銀幕のヒーローさながらの存在ではない。
「……ふう」
ナイフとフォークを置く。よくも綺麗に平らげたものだ。タマネギの切れ端一つ残っていない。
口元の脂をポケットティッシュで拭うと、食器を片付け始める。
小さな台所に堆く積まれた食器や食材の残りや調理器具を眺めると、『自分の身の丈以上の戦闘行為』だと苦笑した。
誰も見ていないとはいえ、ショーツ一枚にフィールドコートを羽織っただけでは、さすがに女として恥ずかしくなってきた。
衣服やファッションに無頓着なのではなく、それだけ早く腹の虫の鳴き声を鎮めたかった。
そそくさとトレーニングパンツとトレーナーに着替える。
律儀にショルダーホルスターはぶら下げない。
常にショルダーホルシターをぶら下げ、外すのは入浴中と就寝中だけという生活は無理だ。
筋骨隆々の逞しい男性でも1週間とせず肩凝りや腰痛、それらが原因の頭痛や眼精疲労などに苦しめられて悶絶してしまう。
人体の可動部位を拘束するショルダーホルスターは意外にも人体工学的に『優しくない』ホルスターだ。
無造作にモーゼルHSc-80をトレーニングパンツの右ポケットに突っ込む。
そして視線をテーブル脇のノリンコT―R9に移す。
「……ま、一応。ね」
電気ケトルで湯を沸かしながらノリンコT-R9を手に取る。
改めて予備弾倉やバラ弾を数える。
沸かした湯でコーヒーを淹れ、そのマグカップを持ちながら様々な角度から、奪ったノリンコT―R9を観察。
スライドレールやマグウエル周辺に薄らとグリスを吹いてある。地面にとした時にできたと思われるグリップエンドの小さな瑕以外に大きな損傷はみられなかった。
通常分解で点検してみたが異常はない。
今の日本に於いてアンダーグラウンドで流通している拳銃は一通り、弄ったので勝手は解る。
嘗ては拳銃といえばトカレフかマカロフかといわれた時代もあった。今では懐かしいフレーズだ。
今の国内にはタマが出れば金に糸目をつけずに定期購入してくれる組織がゴロゴロと転がっている。傷害保険に銃火器犯罪専門の保険が発売されるのもうなずける。
このノリンコT―R9を使う上で、あとはサイティングだけが心配だった。
長く使う銃にはならないだろうが、土壇場で『まっすぐ飛んでくれない銃』だったら面倒だ。
「…………」
――――あ……やばい。
傷の処置をして空腹も満たされ、コーヒーで一息つき、ノリンコT―R9を眺めているうちに眠気が襲ってきた。
このまま大の字に転がって寝入ってしまえば、朝方に風邪をひきそうなので重い尻を上げ、さっさと用を足し、歯を磨いてロフトベッドに潜り込む。
就寝前に自宅の鍵をチェックする用心深さだが、そのチェックの有無を思い出したとき、既に由子は深い眠りの国に没してしまっていた。
軽い熱。
由子は微熱にさっと茹でられている熱苦しさで目が覚めた。
軽い熱。
熱の原因は左太腿内側の傷だろう。傷口が炎症を起こして抗生物質と雑菌が戦闘中だ。
中々覚めない頭を巡らせ、自分がロフトベッドで寝ていることに気がつく。
ようやく、8畳ほどの広さのセーフハウスたる1Kマンションに避難していることを思い出す。
軽い熱。喉が渇く。傷口は強い違和感はあるが痛みはない。
微熱の頭をもたげ、台所で冷水を飲む。そして考える。これからのことを。
用を足すべくトイレに篭る。
中々、腰を上げないのは便通がないのではなく、考えがまとまらないからだ。
流石に朝食の菓子パンを齧っているときは野暮な考えは停止させた。なのに、すぐにポケットのモーゼルHSc-80が現実を教える。