冬空越しの楽園

 高部留美の言葉を信じるなら、フラッシュメモリの中身で『誰か』と交渉できるという……今となってはその言説も由子の気を留めるためのブラフだとしか思えないが。
 それだけ高部留美は妹を救い出したかったのだろう。
――――?
――――はて?
――――何か抜けてる?
――――いや、何かを『考えて』いない?
 由子の足が止まる。
 何かが腑に落ちない。……腑に落ちないという表現も『腑に落ちない』。
 推察や推論を当てるスポットが大きすぎて……巨大な壁を一人でペンキで塗っていると、知らぬうちにできてしまう塗り斑や塗り残しのような、思考の穴があるような気がする。
 考察のアプローチを変えてみてもそれは解らない。
 由子の思考ルーチンでは簡単にみつからない。気がつかない。例えるなら自分が解けないパズルでも別人なら簡単に解けて、他人が解けないパズルも自分なら簡単に解ける……それに似た違和感。
 由子の脳裏を様々な考察が飛び交い解答にも名答にもたどりつけずにいた。
 しばしの思考の刹那の停止。時間にして一秒もない。
「……」
――――裏手口?
 今し方、足を進めている裏手口側から、複数の足音。革靴や運動靴が混じっている。
――――新手……でしょうね……。
 正直、疲弊している由子には、続けざまの鉄火場は辛い。
 体の熱が冷め、新陳代謝も活動し始めて傷が疼く。
 死に到る負傷はないが、疲労が堪える。緊張の糸のオンオフが激しいと乗数的にカロリーを消費して思考能力が低下する。
 相変わらずの寄せ集めで波状攻撃のつもりだろう。
 適時適宣の適当な戦力投入に違いない。
「……」
 由子は奪った携帯電話のアドレスを開きながら、隠れ潜むのに絶好な遮蔽を探すべく、画面と辺りに忙しなく視線を走らせる。
 このアドレスの中にある、見知った連中や組織を排除して残ったアドレスを攫う。
 伝達屋や情報屋は解りやすくカテゴリ別に分類されているので簡単に判断できた。
 組織力のある番号もカテゴリ別に分類されているので難なく判断できる。
 完全に潜める遮蔽……壁に埋め込まれた消火栓を抜き去った跡に体を滑り込ませる。
 携帯電話のバイブもサイレントに設定し、迫りくる足音が過ぎるのを待つ。
 デパートの構造に興味がある裏社会の三下など存在するはずもなく、複数の足音は由子が息を殺す壁面の四角い穴をみつけられずに遠ざかる。
「……」
 窮屈な体勢で左腋に差し込む。右手と後ろ腰に廻した左手を引く。勿論、有事あらば左脇のモーゼルHSc-80と後ろ腰のノリンコT―R9を抜いて応戦するつもりだった。
 先ほどまで、銃撃戦を展開していた商業施設を抜け出し、自分の携帯電話でセーフハウス代わりに使っている友人知人の家に電話を掛けるが、どいつもこいつも揃って「今、きなよ!」と威勢良く返答してくれる。
――――ちっ……。
――――やられた!
 あらかじめ決めておいた合言葉。「今、きなよ」。
 開口一番この言葉を発すれば危険だ。これを非常時の合言葉にしている。友人知人宅をセーフハウス代わりに使う手段は封じられた。
 意外に組織力がある。敵は組織。集団。……徒党というチンケな単位ではない。
 高部留美は自分の危険を察知し、由子に全てを伝達した……という図式が連中の大まかな疎通なのだろうか。
 そうなれば、突如として現れた由子は連中にとってもイレギュラーな存在だったろう。
 マークしている高部留美の周辺の人物を洗うのに散っていた人員や情報網が一挙に由子に集中し始めたのかもしれない。
 孤立無援なれど、孤軍奮闘は避けねば。
 大人しくホールドアップで捕まるのは最後の手段にしたい。
 それはいうまでもなく、起死回生が見込めない絶体絶命のシチュエーション。
 追跡者の有無を確認。裏路地を抜けてバスを乗り継ぎ、自分の縄張りから外れた隣町の1Kマンションに向かう。
 途中でコンビニで生鮮食品を買い込み、ドラッグストアで応急処置用の薬品を買う。混雑する時間帯の夕方ということもあって、誰も由子に見向きもしない。
 重く垂れ下がるポケットの中身の弾倉や予備弾もさり気なく、コンビニ袋に落とし込む。
 足の裏に響く、重量と疲労を引き摺る。
 祈る気持ちで目的の1Kマンションの一室に入る。
 ポケットのキーホルダーからこの部屋の鍵を選んでキーホールに差し込んで捻る。そのときばかりは、あらゆる神仏に懺悔を乞うた。
 しかして、空虚で無機質な空間が、無臭乾燥で装飾が一切ない、機能優先だけの部屋がそこにある。
 後ろ手に部屋の鍵を捻る。
 ここは誰にも管理を任せていない『本当のセーフハウス』。
 とある仕事でまとまった金が入ったときに確保しておいた本当の隠れ家。
 雑多な住宅街の中の1Kマンション。築15年の風雨にさらされた質実剛健なデザイン……外見からして飾り気のない、つまらない、古いだけの物件だ。
 駅からも遠く、最近、近所に漸くコンビニとフランチャイズの小さなスーパーが開店しただけの恵まれない立地。3階建ての3階。南向き。6室あるうちの正面左から3番目の部屋。
 ただの小悪党にしては身の丈以上の財産だが、決して使いたくない財産でもある。
 この1Kマンションのセーフハウスに入った途端に銃弾が飛んでこなかったのは奇跡か、『何か』の計らいか?
 重い体を引き摺りながら、購入した生鮮食品や薬品をテーブルに並べる。
 水道を全て開き、古い水を押し出す。
 この部屋にはある程度の保存が効く食料や水が備蓄されているが、やはり体力の回復には新鮮な食材は必須だ。それと、緊張が完全にほぐれる環境。
 家具はテーブル、テレビ、箪笥、ロフトベッドで台所にはキッチン家電が一式揃っている。
 ロフトベッドの布団やシーツは清潔を保てるように、掃除機を用いた真空パックで圧縮保存されている。
 備え付けのクローゼットには衣服も仕舞ってある。
 この部屋の存在は高部留美にも知らせていない。
 友人知人にも知らせていない。
 電話をかけて非常事態の暗号を口走った先々は全て、高部留美も知っているセーフハウスだった。
 遮光カーテンを締めて身にまとうものを全て脱ぎ去る。
 浅い擦過傷が幾つも確認できる肌。
 左内太腿の出血は止まっており、縫合が必要な負傷ではなかった。抗生物質と鎮痛剤でごまかせるレベルだ。
 ショーツ姿のまま、フローリングの床に座り込んで負傷箇所を購入した薬品や買い置きの薬品で治療する。全裸に近い姿で左太腿に一帯の包帯……痛々しい姿ではあったが顔色は至って健常で苦痛の色はない。
 生憎、武器らしいものは皆無で、台所の包丁では拳銃を携えて押し込んでくる連中には対抗できない。
 とにかく、腹ごしらえだ。
 そうせねば薬も飲めないし、体力回復のエネルギーも補給できない。
 エプロンを掛ける代わりに全裸の上から、裾に孔があいたフィールドコートに袖を通して台所に立つ。
 胃腸を負傷してるわけではないし、消化器に疾病があるわけでもなく、健康体そのものの由子が求める『食べたいものい』は単純に動物性たんぱく質でしかない。……牛肉。
 熱したフライパンにガーリックチップを放り込む。牛脂を投入し、塩胡椒で味付けしたサーロイン400gを湯気が立つフライパンに寝かせる。
 絶妙な脂のサシ。ドリップがたれていない、しっとり感と艶やかな表面を湛えたそれ。
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