冬空越しの楽園

 吐き出さないように男の唇を摘む。
 数十秒もすると青めく男の顔から苦悶の色が消え、瞳孔の収縮が緩くなる。
 自白剤としての効果は期待できないが、苦痛をやわらげてやることを条件に、一言一句をゆっくりと発音し、銃口を突き付けたまま質問する。
「どこの誰の差金? 死にたくないでしょ? 喋ったら医者を呼んであげる。さあ、喋って。お願い」
「……」
 トロンと落ちる男の眦。
 いい具合に薬物が血液経由で脳漿を侵食している。
 それでも前後不覚に陥ったわけではなく、医者を呼んでくれて自分が助かるという図式が脳内で成り立ったのか、呂律の回りにくい発音で喋りだした。
 拳銃を突きつけていても意味がないほどの滑らかさだ。少々、聞き取りにくいのが難点だが。
「雇われた。1人10万円……拳銃もくれた……拉致に成功したら1人30万円くれる」
 フラッシュメモリの存在は伏せているのか、そのワードは出てこない。あくまで、由子の拉致が目的らしい。
 雇い主を聞き出すことができたが、残念ながらこの界隈では珍しくない伝達屋だ。
 それはただのメッセンジャーボーイだ。直接の接触を避けたいが携帯端末でのログを気にして、オフラインで交渉のテーブルにつきたくない時に伝達屋と呼ばれる職種に依頼する。
 彼らもまた使い捨ての駒だ。
 危険な事情を危険な連中に「報せて知らせる」のが仕事だ。
 依頼次第では簡単にスポンサーに殺されるし、伝達先の逆鱗に触れればみせしめにとばっちりを受けて殺される。
 その伝達屋の名前を喋った。
 すぐに由子の脳裏に該当する伝達屋がヒットする。程度としては重要度の高い任務を任せられる認知度ではない。
 その伝達屋を雇った組織、あるいは個人を特定するには少し骨が折れる。
 金を積んでなんとかなるものなら伝達屋ではなく、情報屋をあたる。
 結局、男からは有益な情報は引き出せなかった。
 由子が尾行されていたのを鑑みると、真っ直ぐ家に帰っても自宅も周知の状態で隠れている真似にもならない。
 念を押して男から何度も情報を聞き出したが、本当にただの使い捨てだと解ると、モーゼルHSc-80にセフティをかけ、落ちているノリンコ・ハイパワーを拾い、それで男の額に孔を開ける。
 自分に恐怖が訪れて自分が死んだことも理解はしていないツラだった。
「マズイな……ツイてない」
 いそいそと被弾して無力化させられた追跡者連中の身包みを剥がす。
 主に財布と麻薬を奪う。
 モーゼルHSc-80を左脇に仕舞い、一番コンディションの良いノリンコ・ハイパワーと予備弾倉やブリスターパックのバラ弾を奪う。
 今頃痛み出してきた擦過傷や左内太腿の浅い銃創。血がカーゴパンツに染み出している。『急に始まった』ときのための手当に所持していたナプキンを左内太腿の銃創――肉が浅く削られた程度。深刻なダメージではない――にあてがい、ハンカチ替わりの大判のバンダナで包帯の代わりに縛りつける。
 傷口の直接な圧迫と血液の流出を防ぐために股間側に結び目を作る。 他の男の衣服で血液が付着していない部分をアーミーナイフで細く裂き、傷口より上部を緩く縛ってさらなる止血を試みる。
 呼吸が停止している追跡者の女のスエットパンツを脱がせて穿く。股下の寸法は今一足りないが、ウエストは丁度良い。
 この女の筋肉の弛緩が始まる前にスエットパンツを脱がせられたのは幸いだ。遅れていれば漏れ出た小便で穿けなくなる。
 ノリンコ・ハイパワーを改めてみる。ノリンコが作るハイパワーもどきなので俗称としてノリンコ・ハイパワーと呼ばれているが、正式にはノリンコT―R9と呼称し、厳密にはハンガリーのFEG―P9Rのコピーだ。FEG―P9Rとは、S&W M39に多大な影響を受けた自動拳銃で、そのため、見た目にはハイパワーもどき扱いでもメカニズムは大いに違う。
 一般的に通説されるFN ハイパワーはシングルアクションだが、FEG―P9Rはダブルアクションだ。従って、それのコピーたるノリンコT―R9はハイパワーの顔をした別人だ。よくみるとレバーの配置や形状や装弾数も違う。
 シルエットだけでハイパワーのコピーだと思い込まれた不遇な拳銃だ。
 大元を正せば本当にハイパワーのコピーも製造販売してる『実績』があるノリンコだから疑われたのだ。
 西側の名銃をコピーして裁判を起こされたら敵わない、だが儲けたいという実情もあったのだろう。
 複雑な心境の由子。
 拾った拳銃の方が申し分なく火力や安全性が上。その上、兵站まで簡単ときた。
 使い捨てにされる拳銃ゆえに、市場は飽和状態で実包や予備弾倉、ホルスターなどのアクセサリーにも困らない。
 全長20cmばかり。重さ1kg程度のそれを後ろ腰に差す。
 今し方頭を撃ち抜いた男の携帯電話とノリンコT―R9のかき集めた予備弾倉――合計22本――や50発入りの紙箱のバラ弾を衣服のポケットにバランスよく突っ込んで足早にその場を去る。
 悠に4kgを超える錘と化す。
 同じ裏手口や非常階段は使わず、違う経路で別の裏手口へ回ってから退散する。
 走りながら考えをまとめる。
 由子の思考パターンによる解析は次のとおりだ。
 高部留美はマークされていた。それは事実だ。タイミングとしては応接間を提供してくれる『聖域』を襲撃される直前だろう。
 地元の闇社会組織なら暗黙的に不可侵を守る『聖域』に銃火器を持って押し入るのだ、当日は襲撃するべく尾行されていたに違いない。
 『聖域』であっても襲撃する傲岸不遜ぶりから考えると地元の組織や弱小な権力を翳す個人ではないとも考えられる。
 高部留美がドジを踏んだか尻尾を掴まれたか、とにかく、直近に『高部留美』と云う不穏因子の存在を『誰か』に掴まれた。
 そして始末するか拉致するかと考えていたさなか、由子と接触し『聖域』へ。ここで追跡者連中は焦ったのだろう。
 『聖域』で『自分たちのスポンサーが欲しているものが逃げてしまう』と。それゆえの矯激な襲撃。
 そして高部留美は流れ弾か狙われたか、命を落とす……最後の接触者・由子が高部留美より重要な文言を聞いたか受け取ったかと勘繰り、信じて、今度は由子に標的を変えた。
 ……そんなところだろう。
 高部留美と仲良く闇社会を泳いでいたばかりに喰らったとばっちり。
 ……そんなところだろう。
 しかし、現実として『高部かのという存在』と『フラッシュメモリという現物』は由子の知るところとなり、珍しくない人身売買組織の所業と、それと交渉できるに違いないアイテムを知り、得た。
 高部留美の願望である、妹の高部かのを律儀に救い出してやるまでの義理はない。
 寧ろ今頃、臓器を抜き取られて処分されているかとっくの昔に奴隷として性的責め苦に耐えられずに壊れて殺されている可能性もある。
 友人とはいえ、留美には申し訳ないが、自分の命を賭ける価値が見当たらない。精々、執拗に繰り返されるであろう襲撃を止めてもらい、『この話はなかったことにしてもらう』ための交渉条件として『重大なフラッシュメモリ』を活用するくらいしか由子に打つ手はない。
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