冬空越しの楽園
つまり、今生の最後の一言一句をひねり出すべく活力の残滓を集めたのだ。
由子は素早く留美の口元に片耳を寄せる。
「た、か……べ。かの」
――――たかべかの?
――――高部かの。
――――妹の名前?
その直後、震えだす留美の唇。その震えが全身を伝播し、ささやかな抵抗を残して留美は息絶える。
留美の眦に浮かんだ一粒の涙滴は、溢れ落ちるほどの量すら湛える事なく息を引き取る。
フラッシュメモリを発作的にポケットにねじ込み、すっくと立ち上がる。
足音。かすれる金属音。荒い呼吸。怒号が交じる指示。それらが廊下の向こうから聞こえてくる。
新手の出現かと身構えるが、そこに現れる顔ぶれをみてホールドアップ。
由子の記憶が確かならばこの応接室風の『聖域』の警備要員だった。
お互いに何度か顔をみている。以前、この部屋へくるまでに何度も顔を合わせている。すぐに誤解は解ける。由子ほどの行儀のいい客は珍しいはずだ。
その男は蛙鳴蝉噪の空気を孕んだ背後の警備要員を手で制した。
「これはどういうこと? 悪いけど、理由を聞かせてくれないかな?」
右手の人差し指にモーゼルHSc-80をぶら下げたまま両手を挙げている由子は強気に尋ねる。
瓜田李下の喩えではないが、大人しくした方が身のためだ。
「お客人。悪いがこちらへ……」
いかにもな黒服に包まれたその男は手に持っていたシルバーのスナブノーズの銃口で由子に指示する。
由子の予想通り、早々に解放された。
管理人でさえ関知していない襲撃者。
管理側の黒服連中は、虫の息の生き残りを闇医者に放り込んで詳しく事情を聞いた。それは、手術や治療という医療行為ではなく、自白剤を用いての情報収集だ。
誰も彼も、多額の金額で雇われただけ。
お互いに名前も知らない。昨日今日与えられた拳銃。目的は指定された部屋で話し合っている女を2人とも連れてくること。多少の反撃ならば怪我をさせてもいい。兎に角、連れてこい。
自白剤により得られた情報を元に、管理側が襲撃者の合流場所に向かったが、誰も確認できず。
路地で浮浪者の風体をした『門番』が怪しまれるが、そのときには既に一人の浮浪者を装った男が消えていた。その男は港湾の岸壁で頭を撃ち抜かれて死亡しているのが発見された。
……一連の顛末にケリが着くまでに由子は二日ほど軟禁された。拳銃も返してくれたし、ボディチェックもされなかった。
高層マンションの最上階で、銃口を常に向けられたままの二日間だった。不貞腐れた態度を取らず、逆に風声鶴唳におじけづく女を演じていれば銃口を向ける監視要員も紳士だった。
その間にいくらでも思索と考察に耽ることができた。
そして、留美という友人を失った悲しみを――知己の仲というほどでもなかったが――押し殺すことも可能だった。
とにもかくにも、軟禁状態で外界と遮断されているとパソコンが使えない。隠し持っているフラッシュメモリのデータを開くことができない。
さて……ここにきて全ての元凶のフラッシュメモリの中身を覗いてやろうという決意に到ったのには理由がある。
金欠だ。
例の『聖域』……応接セットだけが置かれた部屋。
ここに襲撃者が押し入り、銃撃戦を展開したが、その結果生じた『根回し』の代金を請求されたのだ。
金欠というには少々オブラートが分厚いか。
言葉を変えれば借金だ。
まとまった金を一ヶ月以内に指定の口座に振り込まなければ消される。
安易で安直な沙汰だったが、この世界では当たり前だ。襲撃者全員が自白剤の多用で廃人に変貌した今、請求先は関わりの有無関係なしに『利用者だった由子』に押し付けられる。
ゆえに、金策を講じる手段の一つとしてフラッシュメモリを自宅のパソコンに差し込んだ。……が、すぐさま、パソコン相手にうなだれて膝を抱えながら爪を噛む。
セキュリティコードとしてパスワードの入力を求められた。
閲覧どころか、コピーもフォーマットもできない。
留美の妹なる者の名前の『高部かの』は既に試した。
それをヒントにあらゆるアナグラムも入力した。
ある種のコードブックからの乱数表変換などの高度なパスワード解析ならば、由子の技量では皆目無理だ。
血圧を上げてPCに9mmウルトラを叩き込みかねない。
その首肯を返して外注で解析を依頼するのは情報漏洩そのものなので却下。
この界隈の情報屋は……特に由子の財布で雇えるレベルの情報屋はダブルスパイを生業にしている者も多数居る。どんなデータやニュースソースも金銭に変える錬金術師どもだ。
古典的な『パスワード入力のワードの解析』でつまずく由子には歯が立たない作業。
パソコンのモニターを睨み続けたが、軽い眼精疲労を覚えて眉根を揉んでミントのタブレットを噛み砕いた。
※ ※ ※
留美が遺したフラッシュメモリは、ハード的に高度な技術で拵えられたケースなので安心して首からぶら下げることができた。
キャップのロックさえしっかりと掛けておけば防水防塵性が発揮され、人体の汗程度で故障することがないらしい。
実際に留美もこれを首からボールチェーンでぶら下げていたのだ。 シャープペンシルの芯ケースみたいなシンプルなデザインのそれ。忌々しくも、金策の手段には違いないから適当に扱えない。
いっそのこと、襲撃してきた連中がもう一度襲ってきてくれはしないかと願った。そうすればこのフラッシュメモリの引渡しを条件に大金を要求するのに。
「そうなんだよ……ねえ……」
パソコンと格闘した翌日に温め直した白飯で握り飯を作りながら呟く由子。
――――襲撃者の目的は留美のフラッシュメモリ。
――――……としか思えない。
――――私の身の回りの敵らしい敵っていえばヤクとかブツとかの売人だし……。
――――あの時の……襲撃してきた面子は揃って同じ拳銃だった。
――――豪勢に拳銃を持たせるような後ろ盾が強い『組』に敵は作っていない! ……はず。
――――……多分ね。
『聖域の管理人』への多額の始末料をいかに返済するかを考察していると必ず、フラッシュメモリと襲撃者を繋げてしまうが、この辺りの方向性は間違えていないはずだ。
白飯に潰した梅干や鮭フレークを押し込み、黙々と握り飯を作りながらの推察。
シリアスな陰影を表情に浮かべて丁寧に握り飯を作る姿はどこかシュールだった。
朝方に作った握り飯をインスタントの味噌汁で胃袋に収めると、根城の界隈に繰り出す。
今日の仕事探しだ。端金だがそれでも稼がなければ、いい逃れにもならない。
情報社会だからこそ電子的な通信は敬遠される。
人混みの間をみえない電波が行き交う昨今。
誰のどんなデータが、どこの誰がどんな手段で収集しているのか知れたものではない。
満員のバスや電車やの中でも、体が密接する距離ならば相手のICカードから中身のデータをまるごと奪うことも可能な技術が溢れている世界。
故に、だからこそ、そして、堅い情報を扱う『闇の職業斡旋所』はプリミティブな連絡手段を多用する。
「…………」
様々な路地の角を通過する。
その度に増える追跡者の気配。
雑踏。人込み。曇り空。排気ガスが漂う歩道。
由子は素早く留美の口元に片耳を寄せる。
「た、か……べ。かの」
――――たかべかの?
――――高部かの。
――――妹の名前?
その直後、震えだす留美の唇。その震えが全身を伝播し、ささやかな抵抗を残して留美は息絶える。
留美の眦に浮かんだ一粒の涙滴は、溢れ落ちるほどの量すら湛える事なく息を引き取る。
フラッシュメモリを発作的にポケットにねじ込み、すっくと立ち上がる。
足音。かすれる金属音。荒い呼吸。怒号が交じる指示。それらが廊下の向こうから聞こえてくる。
新手の出現かと身構えるが、そこに現れる顔ぶれをみてホールドアップ。
由子の記憶が確かならばこの応接室風の『聖域』の警備要員だった。
お互いに何度か顔をみている。以前、この部屋へくるまでに何度も顔を合わせている。すぐに誤解は解ける。由子ほどの行儀のいい客は珍しいはずだ。
その男は蛙鳴蝉噪の空気を孕んだ背後の警備要員を手で制した。
「これはどういうこと? 悪いけど、理由を聞かせてくれないかな?」
右手の人差し指にモーゼルHSc-80をぶら下げたまま両手を挙げている由子は強気に尋ねる。
瓜田李下の喩えではないが、大人しくした方が身のためだ。
「お客人。悪いがこちらへ……」
いかにもな黒服に包まれたその男は手に持っていたシルバーのスナブノーズの銃口で由子に指示する。
由子の予想通り、早々に解放された。
管理人でさえ関知していない襲撃者。
管理側の黒服連中は、虫の息の生き残りを闇医者に放り込んで詳しく事情を聞いた。それは、手術や治療という医療行為ではなく、自白剤を用いての情報収集だ。
誰も彼も、多額の金額で雇われただけ。
お互いに名前も知らない。昨日今日与えられた拳銃。目的は指定された部屋で話し合っている女を2人とも連れてくること。多少の反撃ならば怪我をさせてもいい。兎に角、連れてこい。
自白剤により得られた情報を元に、管理側が襲撃者の合流場所に向かったが、誰も確認できず。
路地で浮浪者の風体をした『門番』が怪しまれるが、そのときには既に一人の浮浪者を装った男が消えていた。その男は港湾の岸壁で頭を撃ち抜かれて死亡しているのが発見された。
……一連の顛末にケリが着くまでに由子は二日ほど軟禁された。拳銃も返してくれたし、ボディチェックもされなかった。
高層マンションの最上階で、銃口を常に向けられたままの二日間だった。不貞腐れた態度を取らず、逆に風声鶴唳におじけづく女を演じていれば銃口を向ける監視要員も紳士だった。
その間にいくらでも思索と考察に耽ることができた。
そして、留美という友人を失った悲しみを――知己の仲というほどでもなかったが――押し殺すことも可能だった。
とにもかくにも、軟禁状態で外界と遮断されているとパソコンが使えない。隠し持っているフラッシュメモリのデータを開くことができない。
さて……ここにきて全ての元凶のフラッシュメモリの中身を覗いてやろうという決意に到ったのには理由がある。
金欠だ。
例の『聖域』……応接セットだけが置かれた部屋。
ここに襲撃者が押し入り、銃撃戦を展開したが、その結果生じた『根回し』の代金を請求されたのだ。
金欠というには少々オブラートが分厚いか。
言葉を変えれば借金だ。
まとまった金を一ヶ月以内に指定の口座に振り込まなければ消される。
安易で安直な沙汰だったが、この世界では当たり前だ。襲撃者全員が自白剤の多用で廃人に変貌した今、請求先は関わりの有無関係なしに『利用者だった由子』に押し付けられる。
ゆえに、金策を講じる手段の一つとしてフラッシュメモリを自宅のパソコンに差し込んだ。……が、すぐさま、パソコン相手にうなだれて膝を抱えながら爪を噛む。
セキュリティコードとしてパスワードの入力を求められた。
閲覧どころか、コピーもフォーマットもできない。
留美の妹なる者の名前の『高部かの』は既に試した。
それをヒントにあらゆるアナグラムも入力した。
ある種のコードブックからの乱数表変換などの高度なパスワード解析ならば、由子の技量では皆目無理だ。
血圧を上げてPCに9mmウルトラを叩き込みかねない。
その首肯を返して外注で解析を依頼するのは情報漏洩そのものなので却下。
この界隈の情報屋は……特に由子の財布で雇えるレベルの情報屋はダブルスパイを生業にしている者も多数居る。どんなデータやニュースソースも金銭に変える錬金術師どもだ。
古典的な『パスワード入力のワードの解析』でつまずく由子には歯が立たない作業。
パソコンのモニターを睨み続けたが、軽い眼精疲労を覚えて眉根を揉んでミントのタブレットを噛み砕いた。
※ ※ ※
留美が遺したフラッシュメモリは、ハード的に高度な技術で拵えられたケースなので安心して首からぶら下げることができた。
キャップのロックさえしっかりと掛けておけば防水防塵性が発揮され、人体の汗程度で故障することがないらしい。
実際に留美もこれを首からボールチェーンでぶら下げていたのだ。 シャープペンシルの芯ケースみたいなシンプルなデザインのそれ。忌々しくも、金策の手段には違いないから適当に扱えない。
いっそのこと、襲撃してきた連中がもう一度襲ってきてくれはしないかと願った。そうすればこのフラッシュメモリの引渡しを条件に大金を要求するのに。
「そうなんだよ……ねえ……」
パソコンと格闘した翌日に温め直した白飯で握り飯を作りながら呟く由子。
――――襲撃者の目的は留美のフラッシュメモリ。
――――……としか思えない。
――――私の身の回りの敵らしい敵っていえばヤクとかブツとかの売人だし……。
――――あの時の……襲撃してきた面子は揃って同じ拳銃だった。
――――豪勢に拳銃を持たせるような後ろ盾が強い『組』に敵は作っていない! ……はず。
――――……多分ね。
『聖域の管理人』への多額の始末料をいかに返済するかを考察していると必ず、フラッシュメモリと襲撃者を繋げてしまうが、この辺りの方向性は間違えていないはずだ。
白飯に潰した梅干や鮭フレークを押し込み、黙々と握り飯を作りながらの推察。
シリアスな陰影を表情に浮かべて丁寧に握り飯を作る姿はどこかシュールだった。
朝方に作った握り飯をインスタントの味噌汁で胃袋に収めると、根城の界隈に繰り出す。
今日の仕事探しだ。端金だがそれでも稼がなければ、いい逃れにもならない。
情報社会だからこそ電子的な通信は敬遠される。
人混みの間をみえない電波が行き交う昨今。
誰のどんなデータが、どこの誰がどんな手段で収集しているのか知れたものではない。
満員のバスや電車やの中でも、体が密接する距離ならば相手のICカードから中身のデータをまるごと奪うことも可能な技術が溢れている世界。
故に、だからこそ、そして、堅い情報を扱う『闇の職業斡旋所』はプリミティブな連絡手段を多用する。
「…………」
様々な路地の角を通過する。
その度に増える追跡者の気配。
雑踏。人込み。曇り空。排気ガスが漂う歩道。