冬空越しの楽園

「……そ、それは!」
「?……?」
 男がこちらをみて驚きを隠さない。
 一方、『かの』は目を白黒させているだけだ。
 どうやら『かの』は本当に鉄砲玉要員として駆り出されただけで実情は何もしらないらしい。
 先輩格のこの男の反応で解る。
 『かの』のような下っ端だけが何もしらされずに消えていく。
 少なからず事情を知っている先輩格の男は心が痛むのだろう。
「……?」
「…………使いな。包帯しかないけどな」
男はスラックスのベルトに通したポーチを外し、由子に放り投げる。  ポーチから清潔な包帯と大判のガーゼが溢れる。
 男と由子はしばし、目を合わせる。そして男の気力の薄い視線が『かの』に注がれる。
「頼む……『かの』……だけでも……助けてくれ……」
 由子は小さく、おどけた敬礼をしてそのポーチを拾って、四つん這いになりながら『かの』に近付く。
「留美は本当に君のことを『思っているよ』」
「……あの……バカ……」
 由子は『かの』の負傷箇所に止血だけの処置を施す。
 彼女の肋骨にヒビが入っていると思われる。顔色や吐血の有無から、内臓を痛めたわけではなさそうだ。
 『かの』の治療中に由子は留美との間柄を打ち明ける。
 友人だった。悪い友人だった。仕事をいつも世話してくれた。いつも気だるそうな顔しているけど、笑えば可愛い……などだ。
 決して留美が死亡したとは語らない。
 『かの』に留美の所在を聞かれてもはぐらかした。
 止血が完了したが痛みも止められるわけではない。
 由子は小型ボストンバッグから取り出したミネラルウオーターのペットボトルと鎮痛剤をそのまま手渡す。
「悪いけど、私は消えるね。フラッシュメモリはセキュリティが固すぎて中身は覗けなかったわ。包帯をくれたあの人も早く止血してあげな……あの人は多分、『ギリギリ』だよ」
 気力が戻ってきた由子から留美の話をもっと聞きたがっていた『かの』だったが、一瞬、苦悶を続ける男に視線を移すと、渋々といった面持ちに変わる。
「あ、アンタ……山名……由子。アンタの傷、見せなよ……左肩からまだ血が流れてるじゃん……へへっ。撃ったのは私だけど」
 小さな笑いを見せる『かの』。留美が可愛がるのも頷ける。そんな可愛らしい笑顔だ。
 『かの』は由子の左肩をガーゼと包帯でフィールドコートの生地の上から巻きつける。
 『かの』の体力はまだ回復していないのか、指先がおぼつかず、包帯を結んでも、余った包帯を随分と長い位置で八重歯で千切り裂いた。
 ダラリと下がる30cmばかりの切り損ねの包帯を見る。
 何故か微笑ましくなる。自分の傷や痛みを耐えて折角、頑張って結んでくれた包帯だとわかると温まる。
「じゃ、これでね……サヨナラ。『上の人』に今のこと全部いって、できればもう探さないで……そう頼んでくれたら助かる」
 そう喋りながら由子はまだ暖かい使い捨てカイロをフィールドコートのハンドウオームから取り出すと、指先が悴んでいる『かの』の両手に握らせる。
 よいしょ、と奮起させるかけ声とともに由子は立ち上がった。
 充分なインターバルを置いても増援らしい気配は感じられない。視認することができない。
 このまま真っ直ぐ、空き地の中央をよぎって真っ直ぐにゲートを通過すれば一先ずは窮地から脱することができる。
 『仕留めていない2人の生存者』に戦闘能力は無い。

 真剣な……勝負だった。

 少々の博打でもあった。
 だが、たまには『運』というモノを小出しにしないと使い物にならない感触を掴んだ。

 待ち受けていたように寒風が何度も由子の体を叩きつける。
 寒い。
 寒い夜。
――――しばらく、どこにも顔を出せないなあ。
――――でも、まあ、それも身の丈ってもんだね。
――――小悪党らしく地下に潜むさ。

 立ち止まり深呼吸。
 硝煙も血脂も含まない冷たい空気が美味い。
 ある寂れた町でのどこにでもある小競り合い程度の銃撃戦だった。

 叢雲が大きく晴れる。
 月光が由子の辿る帰路を指してくれているようだった。

 銃声。

――――!
――――狙撃!
――――この風の強い中で初弾で!
 左胸を一発の凶弾が穿つ。
 乾燥気味の夜風の中を、強風が吹き荒れる空き地の障害物の間を!
 たった一発の、たった一発の拳銃弾以上の破壊力を持つ狙撃で由子の心臓に孔が開き、体内を蹂躙した弾頭は右腋下から抜けて遠くに落ちる。

 スローモーションのように倒れる最中。
 自分は助からないと悟る最中。
 狙撃されたと理解する最中。

 全てを知る。
 知ってしまった。
 この左肩の長い包帯は『風見』だ!
 狙撃手が風向きを計測して着弾修正をするための『目印』だ!

――――ああ。
――――やっぱりツイてなかったか……。

 あの時、男は何かと『かの』を見ていた。
 目配せ。アイコンタクト。
 包帯を長く垂れ下がらせたのはこの為だった。

 冷たく、石塊が荒い、地面にどうと倒れる。
 仰向けに、大の字に横たわる由子の心臓や右腋から栓を抜いたように鮮血が溢れ出る。
 湯気すら立ちそうな、赤い生命のほとばしりが灰色と黒の地面に大きく広がる。
 肺を逆流するドス黒い血液を唇の端から垂らす……開かれた由子の双眸に生気の欠片もなく、霞んだままの、開いたままの瞳孔で虚空を見つめていた。

 いつまでも、いつまでも虚空を見つめていた。


 直線距離で280m離れた狙撃ポイントにて。

 空き地のゲート真正面に停止してあった4tトラックの荷台でコニャックフレーバーの機械巻き葉巻に火を点けた長身でロングヘアの若い女――20代後半――はトレンチコートのポケットにオイルライターを仕舞い込み、まだ銃口から硝煙を立てるドラグノフを担いだ。
 その脇でスポッティングスコープを覗いてスポッターを努めていた少女と変わらぬ、若い容貌の女はフライトジャケットからキースマイルドの箱を取り出しながらいう。
「やりましたね! 聡美(さとみ)さん! 1発ですよ!」
 聡美と呼ばれたドラグノフの女は、懐から世にも珍しいコンビネーションモデルのトカレフを抜きぶっきらぼうにいう。
「行くぞ。多恵(たえ)。『生きてる奴は皆殺し』だ。スポンサーは留美とかいう裏切り者が盗んだフラッシュメモリだけをお望みだ」
 聡美は傍らの蓮っ葉にキースを銜える少女をみずにいう。
「はーい」
 多惠と呼ばれた少女はフライトジャケットの後ろ腰からマカロフPMM-12を引き抜いて安全装置を解除して先に駆ける。

「全く……何が小悪党だよ。8人も倒しやがって……」
 トカレフの女はそう吐き捨てるとトラックの荷台から降りた。


 スポンサーに雇われた荒事処理の専門家は眉目だけでシニカルな微笑みを浮かべていた。

《冬空越しの楽園・了》
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